ぼくは、サワコさんの家でしばらく休んで行く事にした。成り行き上。 「はい、タオル」 「ありがとう」 アイボリーのふわふわとして肌触りの良いタオル。ほのかにラベンダーが香る。 髪は大分乾いていたが、軽く髪にタオルを押し当てた。 カーテンを開けて外を見る。マンションの五階。いつも遠くで瞬いている、工場の煙突の赤いライトも今日は見えない。さっきよりは雨脚が弱くなって来たようだ。詩緒はもう、家に着いただろうか。 ぼくの腕にサワコさんが手を触れる。 「また何か考えてるの?」 「否、外を見ていただけ」 「本当?」 彼女は微笑む。 彼女の細く長い指がぼくの髪に触れる。 「風邪ひかないかしら」 「これぐらいじゃ、ひかないよ」 彼女はその後、ぼくの肩から腰に手を辿らせ、ぼくの背に身を委ねた。 「私、本当は大人なんかじゃないの。大人の振りをしているだけ……」 「……」 「嘉月は自分の事、全然話してくれないのね。私、本当はもっと知りたいのに、嘉月が今、何を考えているのか知りたいのに、いつも応えてくれないの……」 「自分の事話すの、苦手なだけだよ」 「……そう」 彼女はぼくの背中から離れた。 「コーヒー淹れるわ。飲むでしょう?」 「うん」 彼女は無理して笑顔を作っているようだった。 大人の振りをしているだけ。 ぼくも、そうなんだ。 キッチンから、薬缶(やかん)に水を入れ、湯を沸かす音が聞こえる。 ぼくは窓の側から移動し、二人掛けのソファに腰を下ろした。オリーブグリーンのシックなソファ。サワコさんはそれに一目惚れして、即購入に至ったのだと話してくれた。 コーヒー豆を挽く音。 コーヒーを御馳走になってすぐ帰ろうと思った。その頃には小雨になっているだろう。少し、雨に濡れて帰ろうと思った。
深夜十二時を回った頃。 携帯電話のメール着信音が深夜の静かな響いた。 詩緒からメール。
S〔祝☆初メイル〕 まだ起きてる? 今日は引き止めてゴメン! あの後、傘差し運転して帰りました(道交法違反!) 実は折りたたみ傘、持ってたんだよねー。あたしってば、用意周到だからさ☆ …ところで、嘉月、彼女いたんだね。しかも年上のヒト! 嘉月ってばやるじゃん!
返事を携帯に打ち込んでいく。
S〔起きてるよ〕 傘、ちゃんと持ってたのか…。 ちょっと気になってたから、濡れて帰ってないなら安心したよ。
送信。サワコさんについては触れなかった。故意で。 しばらくして、またメール着信音。
S〔明日(もとい今日!)は晴れかな〕 明日も図書館に行くつもり。気が向いたら帰りに覗きに来て。 じゃ、おやすみなさーい。
S〔晴れるんじゃない?〕 了解。一応、覗きには行くよ。 それじゃ。
返信して、携帯電話を片手に持ったままベッドに倒れた。 天井を焦点を定めずに見た。 何故か、口の端が綻んだ。
市立図書館に入って自習室に向かう。市の図書館は本を借りに何回か利用しているが、自習室は利用した事がない。秦高は自習室があるから、試験前にはそっちを利用するし、ぼくは家でも勉強が出来る人間だ。受験勉強に本腰を入れれば、学校の開いていない日に市立図書館を利用する機会があるかも知れないが、利用するなら多分新湊市の方だろう。明らかにそちらの方が空いている。 自習室は結構混んでいる。この辺りの高校の受験生が主だろう。歩きながら詩緒を探す。節城の制服を着ているコを何人か見かけるが、なかなか詩緒が見つからない。メールで呼び出した方が早いかも知れない。そう思ったとき、窓際の奥の席に座る詩緒を見つけた。 詩緒のところまで行き、机を軽く指で叩く。爪が当たってカツカツいった。 「あ、来てくれたんだ。ちょっと待ってて」 詩緒は小声で言って、机の上に広げていた勉強道具を片付け始めた。 「先に出てるよ」 「うん。解った」 重く圧し掛かる雰囲気に耐えられなかった。受験生の気迫ってやつだろう。自習室の外で詩緒を待つ事にした。 「お待たせ!」 詩緒が自習室から出てきた。 「勉強、もういいの?」 「うん。今日出された宿題やってただけだからね」 宿題か、と会話の流れで応えた。 「何処に座ってるか判らなかった」 「ホント? 窓際なら判り易いかなーと思ったんだけど、逆に判りにくいのかな」 「窓際は一応最初に見た筈なんだけど、それ。髪」 「髪?」 詩緒は自分の頭を触る。 「ああ、髪型ね。今日はまとめてるからか」 詩緒の長い髪は今日はアップにしてあり、細い首が無防備に出されていた。 「可愛い?」 「あー、可愛い可愛い」 詩緒はぼくの腕をばしっと叩いた。照れ隠しじゃないだろう。ぼくの言い方は随分投げやりだったから。 総合ビルの入り口の自動ドアが開いて外に出た。 詩緒は自転車を取ってくると言うので、ぼくもそれに同行した。 「今日は何か用だった?」 「唐突だね」 「何でだよ。詩緒が図書館に来いって言ったんだろ」 「言ってないよそんな事。気が向いたら覗きに来てって言ったの!」 「来いって意味じゃん、それ」 「命令じゃない!」 「……ソウデスネ」 詩緒が何か言いたそうな顔をしたが、思い止まったようだ。 そのまましばらく歩いていると、詩緒が訊いた。歩く速度が遅くなる。 「昨日のヒト、彼女?」 「ああ、まあ、そうだよ」 「そうなんだ……。あの時の電話、彼女からだったんでしょ」 「まあね」 「でも、出なかったんだ」 「まあね」 「あたしがいたから?」 「……多分、そうかな」 詩緒が立ち止まる。ぼくは振り返る。 「何? どうしたんだよ?」 何か思い詰めたような顔をしていたが、ぼくが声をかけると、いつもの無邪気な詩緒の顔になった。 「何でもない!」 詩緒は、ぼくとの間をジャンプして詰め、「さ、行こ!」と、ぼくの尻をばしっと叩いて先に歩いていった。 「詩緒、今のセクハラだろ」 「違うよー。仲を深めるためのスキンシップだよー」 振り向き様、詩緒が無邪気に笑いながら言う。セクシャルハラスメントは、行為者にその気がなくても、相手方が不快に思い、その行為により精神的苦痛を受ければ成立するものだ。詩緒がスキンシップのつもりやったとしてもぼくが精神的苦痛を受ければ成立するのだが……。ま、今の状況じゃ訴えるだけ訴訟費用が無駄だろう。 詩緒とぼくは大まかな家の方向が同じだったので、途中まで一緒に帰る事にした。お互いにとってあまり遠回りにならない道を行く。詩緒は、ダークグレイの自転車のかごに鞄を入れて、自転車を押して歩いた。 駅前からぼくたちが正反対の方向に別れる交差点までの約十五分、色んな事を話した。そして、交差点に来て、「また、明日」と言って別れる。
ぼくたちは、いつの間にか一緒に帰るようになっていた。たまに詩緒の都合やぼくの都合で一緒に帰れない日もあるが、そういうときは事前にメールで知らせた。ぼくは、部活を終えて路面電車で高岡に戻り、それから市立図書館で宿題を片付けている詩緒を迎えに行く。詩緒と一緒に西駐輪場に詩緒の自転車を取りに行き、あの交差点まで二人で並んで帰る。これが新しい習慣として、ぼくの日常に組み込まれていった。 詩緒の色んな面が見れて楽しかった。 詩緒は大の犬好きで、散歩中の犬を見ると、「あ、犬!」と、突然叫んで凄く嬉しそうな顔をする。それがぼくの話の途中でも自分の話の途中でも、だ。大きな犬を見ると勝手に名付けたりする始末だ。ゴルバチョフ、ベン、バッカスなどなど。必ず濁音名。一度、何故そんな名前を付けるのか訊くと、「そういう感じじゃない?」と言われてしまった。それが一体どういう感じなのか、ぼくにはこの先ずっと解らないと思う。 詩緒は和菓子が好きだ。小豆が好きらしい。ぼくは小豆が嫌いだ。甘いものはそもそもあまり好きではない。詩緒は、中学校の頃、冬の部活の帰りによく友達とあんまんを買って帰ったそうだ。彼女に会ったばかりの頃は、彼女が買い食いするなんて想像も出来なかっただろうが、今はそれも十分にあり得る事だと思える。 ぼくが、詩緒は寝る前に本を読んでいそうだと言ったら、彼女は、本は苦手だと言って苦笑した。読むのはファッション雑誌や漫画ばかりらしい。たまに、友達に薦められて借りた本を読むらしいが、借りた本を読了した事は一度もないと言う。ぼくもあまり本を読まない。悟流は、あれでも実は読書家なのだが、ぼくに本を薦めた事は一度もない。ぼくが本を読むのは、主に長期休暇中の時間のあるとき。ふらりと立ち寄った本屋で「夏の一冊」といった平積みされた本を買って、ちょこちょこ読み進めていく程度だ。詩緒は「あたしも同じ」と言って笑った。 学校の話もよく聞く。仲の良い友達の事。ユリちゃんというらしい。ユリちゃんは、小さくて、目がぱっちりしていて、髪の色素が薄くて、思わず守りたくなるような可愛い女の子なのだそうだ。詩緒に、「嘉月もユリちゃんを見たら、絶対に守りたいって思うね」と言われた。ぼくはまだユリちゃんを見ていないので、肯定も否定も出来なかった。代わりに、そういう可憐なコって、他人に自分を守らせる術を体得してるものなんだよな、という趣旨の事を冗談で言うと、酷く非難された。彼女のユリちゃんへの想いはかなりのものだと理解した。それから担任、学校行事などもたまに話題に上がる。 詩緒といると安心出来る。 詩緒の雰囲気が心地好く感じた。 何でも話せるような気がした。 しかし、それでもまだ言えなかった。 家族の事。ぼく自身の内面に関する事。 詩緒はどうなんだろう。いつもぼくの隣で笑ってくれる詩緒。 彼女にも、ぼくには話せない事があるのだろうか。
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