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作品名:僕の隣 作者:浅葱

第5回   雨降り
 家に着くと、玄関には黒のパンプスがぼくの革靴の横に並べられていた。珍しく母が在宅しているということか。
 リヴィングに行くと、母がソファに腰掛け、背凭れにすっかり身体を委ねていた。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい」
 身体を起こしてぼくに顔を向ける。
「珍しいね。今日はどうしたの?」
「此処は私の家なのよ。居てもおかしくないでしょう?」
「その割にはいつも居ないけどね」
「嘉月……」
「ああ、ごめん。別に責めているつもりじゃないんだ」
 リヴィングから出ようとしたとき、母がぼくを呼び止めた。
「今日、お父さんと会ったわ」
「父さんと?」
 ぼくは、ドアノブにかけていた手を下ろし、身体を母の方へ向けた。
「ええ、あなたのお父さんよ。実はね、別れてからも、たまに会ってたの」
「そうなの? 母さんたちが会ってたなんて、全然気付かなかった。あれから、父さんとは一切会ってないものだと思ってたから……」
「会うといっても、年に一、二回あるかどうかよ。頻繁にじゃないわ。あの人、貴方の事、可愛くて仕方ないのよ。一人息子だし。貴方の様子を聞くためだけに、私に会ってるようなものだわ」
 母は困ったような表情で微笑む。
「父さんが俺を? 可愛がって貰った記憶はないんだけど。無口だし、ほとんど家にいなかったし」
「そうね。不器用な人なのよ」
「でも、俺の事をそんなに思ってくれてるなら、どうして今まで一度も……」
「お父さんは、貴方が自分の事を憎んでるだろうって思ってる。会う資格なんてないんだって」
「憎んでるなんて、そんな……」
「お父さん、嘉月の写真、大事に持ってるのよ。前に会ったときにはね、嘉月の高校の入学式のときの写真をあげたの。嘉月もこんなに大きくなったんだなあって、喜んでたわよ」
 母は目を細めて笑った。
 両親は離婚してから、本当に他人になったのだと思っていた。だから、母の話を聞いて少し安心した。
「今日会ったのも、俺の様子を聞きに?」
「そうね。それもあるけれど……」
「けど、何?」
「お父さん、再婚したそうよ」
「再婚!?」
「ええ。籍を入れたのは最近みたいだけれど、そういえば、前に好い人がいるんだって言ってたような気がするのよね。あまり自分の事を話さないから、すぐ会話が流れちゃって」
「へえ……」
「あまり驚かないのね。関心がないの?」
「そんな事ないよ。それが起こっても不思議じゃないだけ」
 母は淋しいとも心配しているともいえる、複雑な顔をしている。
「母さんは?」
「何が?」
「再婚しないの?」
「母さんには、嘉月がいるもの」
 母は冗談でも言ったかのように、微笑んだ。
「そ?」
 ぼくは鼻で笑って、リヴィングを後にした。
 正直、うんざりだった。そういう母の答えが。



次の日、朝起きて白緑色のブラインドを上げると、空はどんよりと、グレイの分厚い雲が覆っていた。今日は雨が降るかも知れない。
 顔を洗ってダイニングキッチンへ向かった。冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出し、縁が青色のコップになみなみと注ぐ。勿論、グレープフルーツジュースは100%果汁。喉が渇いていたから、その場でコップ半分ほどの位置まで飲んでしまった。ひとまずコップをダイニングテーブルに置いて、朝御飯になるものを探す。
「おはよう、嘉月」
「おはよ」
 母がダイニングキッチンに入ってきた。
「昨日、パン買ってきてないの?」
「ああ、買ってくるの忘れてたわ。御飯ならいっぱいあるから御飯食べていったら? 今から味噌汁作るから」
「口の中、グレープフルーツ味でいっぱいだから、御飯食べる気にはならない」
「そうねえ、それじゃ、ヨーグルトでも食べたら?」
 ぼくは、もう一度冷蔵庫を開けて中を確認した。ケーキか何かの箱の陰にあった。ダークチェリーのカップヨーグルトとクランベリーのカップヨーグルト。母はフルーツやアロエなんかが入っているヨーグルトが好みで、プレーンヨーグルトは滅多に買わない。ぼくはダークチェリーのカップヨーグルトを手に取った。
 朝のニュースは昨日と特に変わった事は伝えていない。相変わらず白熱している国会。進展しない事件。エトセトラ。天気予報によると、今日の天気は、このままなんとかもつようだ。今日みたいに曖昧な天気だと、天気予報もあまり当てにはならないが。
 ニュースをぼんやりと見ながら、コップに半分残っていたグレープフルーツジュースを飲み干し、ヨーグルトをスプーンですくって食べた。
 学校に行く準備をし終えて玄関に立つ。
「行ってきます」
控えめに言ってみた。「いってらっしゃい」と奥から母の声がした。ちゃんと届いていたらしい。

 登校時は、いつもぎりぎりの、朝のHR開始のチャイムに間に合う電車に乗っている。入学当初は余裕をもって着くような時間帯に乗って行っていたのだが、ラッシュ時に電車に乗るのはうんざりだった。通学だけで一日分の活力を使い果たしていたような気さえした。ラッシュ時を避けるには、それより早く乗るか遅く乗るか。朝の快適な眠りを中断してまで早く学校に行く気には全くなれないので、ラッシュ時より遅い時間の電車で行く事にしている。席に余裕もあるし、学校に着いてから開始チャイムが鳴るまで、無駄に時間を潰さずに済むのが良い。唯一、なんとかして欲しいのは、HR開始時刻二分前に市役所前の電停に着く事。電車から降りた途端、その電車に乗っていた秦高の生徒は、百メートル走さながらの勢いで走らなければいけない。
 プシューッと音を立てて、電車のドアがスライドされる。ぼくは電車に乗り込んで、比較的他に座っている人との間隔が大きくなる位置に座った。鞄を椅子の上に置き、窓を開ける。丁度太陽の光が差し込む側の席なので、日除けを下ろした。全部下ろしてしまうと窓から風が入らないので、三分の一ほどあけてある。
 悟流もこの時間の電車にいつも乗っているのだが、今日はまだ来ていない。結局、悟流の姿が見えないまま時間が来て、電車は動き始めた。今日は気紛れでも起こして前の電車に乗ったのだろう。
 ぼくは、一限目の英語に英単語テストがあるのを思い出し、単語帳を鞄から取り出した。学校に着くまで、テスト範囲の単語を眺めて過ごす事にしよう。
「うぃっす。何? 今日の単語テスト勉強してんの? 流石嘉月くん。感心感心」
 駅前の次の次くらいの電停で、聞き慣れた声がして顔を上げた。
「悟流、今乗ってきたの!?」
「そ。今乗ってきた。今日寝過ごしてさ、駅着いたら丁度電車出て行くとこだったんだよな。だから、やばい!と思って、此処まで追っかけて来た。はあー、疲れたー」
 悟流はどかっとぼくの隣に腰を下ろした。
「あんな所にチャリ止めても、盗まれたり移動させられたりしないよなー」
 悟流は、自分が自転車を止めたらしき所を心配そうに見送る。鍵をかけておけば、盗まれる事はまずないとは思うが、移動させられるかどうかについては判らない。
 悟流は、ぼくの開いている単語帳に目を遣った。
「悟流は単語、やってきた?」
「んー、置き勉してきたからな俺。やってない」
「昨日のHR終了後、ちゃんと俺、悟流に明日単語テストあるって言ってたよな? 何で単語帳学校に置いてくんの? それでテストは大丈夫なのかよ」
 本当に呆れた奴だと思った。
「んー、今のままだと大丈夫じゃない。嘉月はやってんだろ? 俺にその単語帳をよこしなさい」
 悟流は右手を出してひらひらさせ、単語帳を要求した。ぼくは軽く溜息を吐いて、それを悟流の手に置いた。悟流なら、学校に着くまでのこの時間で、十分に範囲の単語を覚えられるだろう。
「なんか出そうなところない?」
 単語帳をめくりながら悟流が訊いた。
「全部」
「嘉月くん、冷たい」
 単語帳は悟流に取られ、悟流は持ち前の集中力を発揮して単語を暗記中だ。ぼくはやる事がなくなったので、ぼんやりと左に流れていく景色を見た。
 昨日の事が思い出された。
 詩緒の事。
 突然ぼくの前に現れて、あっさりとぼくの領域に入り込んだ。
 繊細なイメージのある外見とは違って、詩緒自身は人懐っこいというか、誰とでもすぐに打ち解けられるような性格のようだ。
 よく解らない。彼女は本当に昨日の帰り、ぼくを待っていたのだろうか。しかし、彼女は電車を降りてすぐ、友達と約束があるから、と言って去って行った。それは、単にその場を去るための口実なのか、ぼくと同じ電車に乗った事を偶然にみせるためのカモフラージュなのか、本当に友達と約束をしてて遅れそうだったところにぼくが乗り合わせただけなのか……。考えるだけ無駄だ。止めておこう。
「何考えてんの?」
「え?」
「考えて事してますって顔してたから」
「もう止めたから。考えるの」
「そうなの? 解決した訳だ」
「考えるのを止めたのは解決したからじゃなくて、放棄だよ」
「ふーん。難問だなそりゃ」
「難問っていうか……」
 ぼくは悟流の顔を見た。悟流は単語帳を閉じて足を組み、眉を少し上げて、ぼくが話すのを促した。
「昨日、節城のコに会ったんだけど……」
「へええー。それはそれは」
 悟流がわざとらしく声を上げ、にやついた変な顔をした。完璧に、間違った内容の捉え方をしている。
「そのコ、俺の事、前から知ってるみたいな感じだったんだ。実際は、昨日初めて知ったんだとは思うけど……」
 ぼくは昨日の事を簡単に悟流に説明した。悟流は少しの間黙って、
「どうせ、あれだろ? どっかで嘉月見かけて、気になって調べたとかじゃねーの?」
と言った。そう言う悟流自身が、その答えにあまり納得していないようだったが。
「もしかしたら、今日も会うかも知れないしな……」
「流石にそれはないだろ。学校違うし」
「でも、嘉月の携帯番号とアドレス教えたんだろ? 連絡来るかも知れないじゃん。あ、昨日、その後連絡来た?」
「来てないよ」
「なんだ。つまんねーの」
 悟流はあからさまに顔を背けて、視線をぼくとは反対側の斜め上方にやった。悟流はたまに、こういった子供っぽい仕種をするのだ。
「悟流、単語もういいのか?」
「もうすぐ学校着くから、終了。ハイ、これ、ありがと」
 悟流はスナップをきかせてぼくに単語帳を渡した。
 まばらに秦高の生徒が立ち上がる。もうすぐ新湊市役所前だ。学校が近付くと、みんな降り口付近に立って、これから走るために備えるのだ。

 昼休み、隣のクラスの能登と海老名が「昼飯、一緒に食おう」と誘ってきた。今まで誘われた事がなかったため、誘ってきた理由は明らかだった。悟流は面白そうにぼくの顔を見た。
「能登と海老名が動いてんのか。凄いなそりゃ」
 晴れた日は定番となっている渡り廊下の屋上で、能登と海老名も一緒に昼食を取る事になった。日差しの強い日はいつも校舎の陰で食事をするのだが、今日は曇りだから堂々と真ん中に陣取った。
「川原、昼飯それだけ?」
 海老名が悟流の昼御飯を見て驚く。悟流の本日の昼御飯は、コンビニの昆布のおにぎり一個と五百ミリリットルペットボトルのミネラルウォーター。それに比べて海老名は、英語の辞書サイズで底の深い弁当箱に、びっしりと卵焼き、ウインナー、蓮根のきんぴら、かぼちゃサラダ、ミニトマト、などのおかずが入っていて、かなりのヴォリュームだ。そして、プラス大きめのおにぎりが二個。海老名のシルヴァの水筒は太くて大きく、一リットル分は入るだろう。ぼくは駅前のベーカリーで買ったバゲットサンド、コーンサラダに紙パックの烏龍茶、能登はコンビニで買った野菜サンド、ハムチーズサンド、五百ミリリットルペットボトルのノンシュガーストレートティだ。
「悟流は昔から昼にはあまり食べないんだよ。給食も結構残してたし。今日は昼食らしくてまだマシだと思うけど」
「おにぎり一個がマシなの? 川原くん、いつも何食べてんの?」
 能登の野菜サンドを持った手が空中で止まる。パンに挟まれているトマトが少し飛び出ていて落ちそうだ。
「えっと、飲み物だけとかプリンとか……」
「プリン!? デザートだろそれ!」
 海老名が声を上げる。海老名の食事量からすると、そう驚くのも無理はない。
「だってさ、昼に物食べると午後に眠くなっちゃうじゃん。俺、昼に物食べると頭が回んねーの」
 悟流は左手に体重をかけ、視線を空に向けて右手の人差し指でくるくる円を描いた。海老名は珍獣発見な目をしている。
「でもさ、川原。栄養取らない方が頭が働かないんじゃないのか?」
「朝にちゃんと糖分取ってるよ。夜は普通に食べるし」
「ああ、そっか。悟流、今日の朝、時間なくて食べて来られなかったんだろ? だから今おにぎり食べてるんだ」
「嘉月くん、御名答。ホントはブドウ糖をそのまま食べた方がエネルギー吸収の効率は良いんだけどさ。みんながしっかり飯食ってる時に、俺一人ちまちまブドウ糖食べる気にはならねーな」
「もしかして、川原くん、朝はブドウ糖食べてるの?薬局で売ってるの見るけど」
「まさか! 冗談だって。そこまで食の目的をエネルギー供給の為とか必要栄養分摂取の為とか考えてないし。どうせ食べるなら機能的に備わった物よりもひたすら美味い物食いたいね」
「じゃあ、お昼のプリンは? 脳のエネルギー補給のためってか?」
「否、単に俺、プリン好きなの」
「川原くん、子供みたいな事言うね」
 能登が目を細めて笑う。
「そうそう、悟流の嗜好品は小一の時から変わらないよな」
 プリン、カレー、ハンバーグ、食べ物以外では缶バッジ、ペットボトルのおまけのキャップ等々。悟流は小一の時に好きだったものを今もずっと好きなのだ。そういう変わらないところが微笑ましいし、何だか安心出来る。だから、ぼくはずっと悟流といられたのかも知れない。
 ぼくはそんな悟流を横目で見ながら、レタスときゅうりをはさんだバゲットを口に入れる。レタスときゅうりの水分がバゲットに奪われてしまって、野菜の瑞々しいしゃきしゃき感がない。生野菜を挟んだものは、サンドウィッチでもバゲットでもベーグルでも、作った直後のものが一番美味しい。野菜は食感も十分に楽しむものだ。
 視線に気付いてそっちに目を遣る。能登が何か言いたそうな顔をしている。
「何?」
「昨日さ、嘉月、先に帰っただろ? 俺、あの後ずっと、節城の人たちが帰るまで残ってたんだけど、結局あのコ、戻って来なかったんだよ」
「へえ。そうなの?」
「サッカーの練習が終わった頃に帰ったんだとよ」
「どうして、サッカー部が終わった頃に帰ったって解んの? 節城の奴等ってテニスの練習試合で来てたんだろ? サッカーとは関係ないじゃん」
 悟流が海老名に人差し指を指し、残りの四本の指でペットボトルを持っている。
「そのコが、サッカーが終わったからそろそろ帰るって言ったらしいんだ」
「サッカーが終わったから?」
 悟流が不思議そうな顔をする。
「そうなんだよ。気にならない?」
 能登はぼくに顔を向けて訊いた。
「別に。サッカー部が終わってるのに気付いて時計を見たら、もう既に自分も帰らなければいけない時間になってたっていうニュアンスなんじゃないの?」
「そうかな」
「そうだろ。そのコ、節城の生徒だし、もう会う機会なんてないんだから、色々と詮索するの止めたら?」
「へえ、珍しいな。嘉月がそんな事言うなんて」
「何が?」
「んー、何でもねー」
 悟流は面白そうにぼくの顔を見る。ぼくはそんな悟流が面白くない。
「でも、他校だからって会う機会がねーとは言えないよな。な!?」
「そうだよ! 人生何が起こるか判らないから止められないんだよ!!」
 二人は俄然盛り上がってしまったようだ。
 ……徒労だった。
「能登と海老名には隠してんの?」
 教室に戻ると悟流が訊ねて来た。
「何も隠してないよ」
「例のコと部活の後会ったのに、嘉月、能登と海老名には言わなかったじゃん。うまく話逸らしちゃってさ」
「訊かれたら会った事ぐらいは言ったかも知れないけど、それだけだよ。その後の能登と海老名の話にはついていけない」
「ああ、まあ、それは同感だな」

部活の途中で小雨がぱらついてきた。活動するには大した事のない雨だったが、徐々に雨脚は強くなる。空一面を覆う雨雲が光を遮ってしまっているため、いつもはまだ明るい時間帯でも大分暗くなっていた。部活は早めに切り上げる事になった。
 帰りの電車に乗っていると、雨が一層強く振り出した。
 窓に当たる雨粒の音。
 滴り落ちて水の線を描く。
 電車に身体を揺らされながら、向かい側の窓に流れていく光を流れるままに見ていた。
 やっぱり天気予報は当てにならないと思った。駅に着いてもまだ雨脚が強いようなら、駅前のコンビニでビニル傘を買うつもりだった。
「お帰り」
「……!」
「吃驚した?」
「吃驚した」
 電車から降りたぼくを迎えてくれたのは、詩緒だった。
 素直な感想だった。詩緒はぼくの反応に満足したようだった。
「何時から此処に居たの?」
「えっと、三十分くらい前かな。それまでは、すぐ其処の図書館にいたの。やっぱり髪、結構濡れてるね。雨降って来たみたいだったから、部活が途中で終わって今日は帰りが早くなるんじゃないかなーと思って。ね、当たってたでしょ」
「待ってるなら携帯に連絡してくれれば良かったのに。途中で雨降っても中で筋トレする日もあるし」
「でも、今日は早く終わったじゃない。それに携帯に連絡したら、今みたいな驚きがなくなっちゃうでしょ。それだったら意味ないの」
「驚かせたかったの?」
「そう! 嘉月はちゃんと驚いたから、作戦は成功したのだよ」
「作戦って……。昨日、しっかり予告してたくせに」
「信じてなかったくせに」
 詩緒とぼくはお互いに顔を見合わせ、そして吹き出してしまった。
 ぼくたちは取り敢えず、ステーションビルの前に移動する事にした。
 しばらく詩緒と他愛のない会話を楽しむ。
 会話が途切れたところで空を見上げる。雨脚は一向に弱くなる気配がない。
「やっぱりさ、傘買った方がいいんじゃない? 多分、ずっとこのままだよ」
「そうかも」
「詩緒、さっきはすぐ止むからって言ってたよな」
「うん。言ったね」
「何なのお前」
 失笑した。さっき、ぼくがコンビニでビニル傘を買おうとすると、詩緒は「すぐに止むから」と言って、ぼくが傘を買う事に断固反対したのだ。
 肩にかけている鞄から振動が伝わってきた。携帯のヴァイブがなっている。
「ちょっと、ごめん。ヴァイブなってる」
 鞄を肩から下ろし、携帯を取り出して開く。携帯の小さなディスプレイには、発信者の名前が映し出されている。
 サワコさんだ。
 ぼくは電話に出る事に躊躇した。
 隣に詩緒がいる状態で、何て話せば良いのか解らない。
「出ないの?」
 詩緒が訊ねる。
 ぼくはディスプレイから詩緒に視線を移した。詩緒は気を遣ったのか、ぼくから少し離れて振り返り、右手の掌を差し出した。遠慮せずどうぞといった意味だろう。
 そのまま、携帯電話を持つ右手の位置を変えずにいると、携帯電話は留守番電話に切り替わって大人しくなった。
 携帯電話を折りたたんで鞄の中にしまう。
「出なくても良かったの?」
「多分ね」
 ふぅーん、と言って、彼女は後の壁に凭れた。
 沈黙。
 何か言葉を探すが見つからない。
 ぼくは彼女の隣に歩み寄って、彼女と同じように壁に凭れた。
 駅前の、四車線道路の交通の流れをぼんやりと見た。それから、目の前を通って行く人たち。
「さっきの続きね」
「さっきの?」
 詩緒を見る。詩緒は前を向いたまま言った。
「あたし、最初は嘉月に、傘は買わなくて良いって言ったのに、後から買った方が良いって言ったじゃない? そしたら、嘉月が何なのお前ってあたしに言って……、その続き」
「ああ、うん。何なのホント」
 ぼくは詩緒から前方に視線を移して苦笑した。
 再び沈黙。
 視線を感じた。詩緒から。
 横を向くと、詩緒はぼくを見ていた。
 ぼくは彼女の目から逸らす事が出来なかった。
 凛とした力強さのあるブラウンアイ。
 詩緒は何か言い掛けるが躊躇う。
「何だよ?」
 何を言われるのかと構えていたので余計に気になる。詩緒から視線を離さずに彼女が言うのを待った。
 詩緒の目から躊躇いが消える。
「嘉月と、もっと話したかったからだよ」
 止まない雨。行き交う車や人々。周囲の雑音。
 思わず目を逸らす。
 戸惑った。
 詩緒の目。
 ぼくの心の中を覗いているような気がした。
 言葉を反芻する。
 言葉通りの意味なのか、言葉以上に意味を汲まなければいけないのか。
 無難な言葉を探す。
 見つからない。
 見つからないまま口に出す。
「詩緒、あのさ…」
「嘉月!」
 呼ばれた方を振り向くと、サワコさんがいた。白いシャツにベージュのタイトスカート。仕事帰りのようだ。
 ぼくたちの方へ歩み寄ってくる。ヒールの音がカツカツ鳴る。
「さっき電話したんだけど、気付かなかった? 夕方から雨降って来たから、もしかして嘉月、傘持っていないんじゃないかと思って。それで、迎えに行こうと思ったのよ。駅前に嘉月がいるかもと思ってこっちに来たら嘉月っぽい人がいたから。うん、やっぱり嘉月だったわね。あ、車はむこうに止めて来たの」
 サワコさんは車を駐車してある方向を指した。それから、ぼくの隣にいる詩緒を見る。
「学校のお友達?」
「学校は違うんですけれど、知り合いです。たまに、駅で会って世間話するくらいで」
「そうなの」
 詩緒は微笑んで見せた。サワコさんも笑顔で応対した。
「じゃあ、あたし行くね。早良くん、バイバイ」
 詩緒は手を振って、雨の中に向かって行った。
 ぼくは詩緒の後ろ姿を見送った。
「嘉月、行きましょ?」
「あ、うん……」
 ぼくは空を見上げた。
 今日の空は真っ暗で何も見えない。見えるのは、空から降り注がれる無数の雨の筋。雨はまだ止みそうにない。
 詩緒はこの雨の中、傘もささずに帰るのだろうか。
 そんな事を考えながら、ぼくは車の助手席のドアを開けた。


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