大学での時間は本当に早い。基礎演習で仲良くなった友達と色んなところに遊びに行ったり、基礎演習の課題や講義の復習をこなしたりしているうちに前期試験に突入した。大学の試験がどういうものなのか全然解らなかったから、単位を落とすのが怖くて一ヶ月前から真面目に取り組んだ。そう、ぼくは堅実なのだ。 試験が終わるともう夏休みだ。京都の夏は暑い。地元も蒸していて暑かったが、京都の暑さもなかなかのものだ。
夏休みに入ったことで、バイトのシフトが午前の時間帯以外にも入れられるようになった。学生のバイトの場合、長期で旅行に行ったりサークル等の遠征で一定期間バイトに入れない人も少なくないためだ。その代わり、お盆時はしっかり入ってもらう事になっている。 シフト表と手帳とを交互に眺めながら、いつ帰省しようか考える。あまり長くいても、特にやることもないしだらけるだけだろうから、三日四日滞在するのが妥当なところだろうか。 「お疲れさま。今から帰り?」 英梨がスタッフルームに入ってきた。どうやら英梨は今からのようだ。あれ以来、特にぎくしゃくする事もなく、英梨との関係は良好だと思っている。多分、お互いその辺はうまく気遣いあっているのだろうけれど。 「お盆は帰るの?」 「一応、そのつもり。こういう機会でもないと、なかなか地元には帰れないから。仲がいい奴もいるしね」 「お盆、バイト休めるの?」 「ああ」 「良かったね。実は私もお盆休みが取れたんだー。北海道に帰ります」 「そっか」 そのとき、テーブルの上に置いていた携帯が振動して着信を知らせた。振動音が響くため、素早く手に取る。 「じゃあ、私行くね。お疲れさまー」 「お疲れ」 英梨を見送って手元に視線を戻す。メールの着信あり。 「え」 一瞬自分の目を疑った。メールの送り主は詩緒。
ぼくは十三日に帰省する事にした。京都駅から電車に乗って。 電車から降りて、五ヶ月ぶりに地元の空気を吸う。広くて大きくて綺麗な京都駅と違って、小ぢんまりとして田舎の温かさを感じさせる高岡駅。 帰って来たんだ。 ぼくは重いバッグを肩にかけて歩き出す。 改札口を出ると、駅前の電停に止まる路面電車が見えた。 記憶が溢れる。 初めて詩緒と学校で会ったときの事。帰りの電車に詩緒が乗っていた事。雨の日、電車から降りると詩緒が待っていた事。詩緒を図書館に迎えに行った事。二人で帰った事。川沿いを一緒に歩いた事。二人して泣いた事。 そして、ぼくは自由になった。詩緒と一緒に……。 しばらく思い出に耽って立ち尽くしてしまった。 ぼくは再び歩き出す。 母は籍を入れて「明道」になった。でも、ぼくは「早良」のまま。珍しい名字だし、「さ」で始まる名字は涼しげで結構気に入っている。この歳で母の再婚に伴って名字が変わるというのも、なんとなく躊躇われたし。それに……。 今日、家に帰ると明道さんもぼくを出迎えてくれる。ぼくは地元を離れる前に、残していく荷物を明道さんの家に移していった。母は、ぼくが地元から離れてからマンションを引き払い、明道さんと暮らし始めた。実質としては、母は以前と大して生活が変わらないだろう。たまにだけ帰る家がなくなって、帰る家が一つになっただけだ。 ぼくの帰る家はもう、あのマンションじゃない。二人の待つ一戸建て。 「嘉月」 突然、誰かに呼ばれた。 声のした方を振り向く。懐かしい、ずっと聴きたかった声のような気がした。 緩くウェーブが掛かっているピンクブラウンの髪。 さらりと着こなすキャミソールワンピに細身のジーンズ。 華奢な肩、細く長い手足。 何よりも目を惹くのは、その透き通るような白い肌。 「……詩緒?」 髪型が変わっていて、一瞬、誰か判らなかった。 詩緒はゆっくりぼくに近付いてきた。会えなかった時間、お互いに離れ住んでいた距離を徐々に詰めるように。 ぼくのすぐ目の前に来て、そして、少しはにかむ。 「お帰り」 「……ただいま」 帰省前の詩緒からのメール。あれは帰省するのならば久しぶりに会おうという誘いのメールだった。 「あれ? 詩緒、十五日に帰ってくるんじゃ……」 そう、確か詩緒からのメールは、十五日帰省予定だから、十七日あたりにでも空いていれば、という内容だった。 「そのつもりだったけど、嘉月が十三日に帰るっていうから、早く会いたくて。駅に着く時間帯をさり気なく訊き出すのに、かなりメールの文章捻ったよ」 詩緒は無邪気に笑った。 そうだ。詩緒はなかなかの策士なのだ。京都駅前のカフェで時間を潰しているとき、詩緒からメールが来て何回かメールのやりとりをしたのを思い出す。「東京でのお土産、何が良い?」とか「今日帰るんだよね、まだ家にいるの?」とか「何時頃着きそう?」とか……。 「驚いた?」 口角をきゅっと上げて、詩緒が笑う。 「驚いた」 ぼくの答えに詩緒は満足そうだった。 詩緒はぼくの隣に並んだ。丁度、路面電車が出て行くところだった。 「電車、嘉月と乗ったよね」 「俺は、高校のときは毎日乗ってたよ」 「あたしと嘉月が一緒にって言ってんの!」 詩緒がぼくを睨む。 「……デスネ」 詩緒が綺麗になっていたので、ぼくは少し緊張気味だった。詩緒はもとから可愛かったけれど、大人っぽくなって、可愛いというよりも綺麗……だ。ぼくたちの前を通る人が詩緒をちらちら見ていくのが判る。 「懐かしいなー」 詩緒は、電車が出て行ってしまって空になっている電停を眩しそうに見ている。 ぼくが詩緒と初めて会った日も今日みたいな夏の日だった。 何処までも青く澄んだ空。 燦々と輝く太陽。 生温く吹きつける風。 変わらない景色。 「ああ。懐かしいな」 突然、詩緒はぼくの腕を掴みぐいぐい引っ張って歩き出す。 「え? 何? お前何処に行くんだよ?」 詩緒は振り返り笑顔をぼくにむける。 「路面電車! 乗ろ?」 「え? 何処に? 何で?」 「もー、嘉月うるさーい! いいじゃん、何処でも!」 詩緒に連れられ降りたのは、庄川。 あの日と変わらず、悠然と淀みなく流れゆく。 深くうねりを響かせる水流。揺蕩う水草。反射して光る水面。 この景色、この音、何だかとても落ち着く。 詩緒は川のすぐ傍まで行き、水に触れた。水を掬ったが指を揃えておらず、指の間から水が零れ落ちていった。 「冷たい」 嬉しそうにぼくを見て言った。 「そりゃそうだろ」 「うわ、全うなお答えありがとう」 「どういたしまして」 詩緒の横に立ち、遠くの海を眺める。ヨットの白い帆がいくつか見える。 「ヨット部かな」 「あ、そっか。ヨット部あるんだよね、嘉月の高校」 風が潮の香りを運んでくる。 暑いのには変わりはないが、潮の香りがすると爽やかな気分になる。 「ねえ、嘉月」 「ん?」 「私、嘉月ともう一度此処に来たかったの」 思わず隣にいる詩緒を見詰めてしまった。 「え……」 詩緒はぼくと目を合わせて、それからゆっくりと視線を外した。 「必死に勉強して、行きたい大学にも受かって、キャンパスライフも楽しんでて、実際楽しいんだけど、何だろ。何処か空虚というか、淋しい感じ……。嘉月は大学生活どう? 楽しい?」 「まあ、それなりには」 「そっか、良かった」 安堵と淋しさが入り混じったような表情を浮かべた。次の詩緒の言葉を待っても、なかなか出ない。耐え切れずに詩緒を急かす。 「何だよ? どうした?」 「うん……」 言いにくそうにもじもじとする詩緒。ぼくの方もそれが伝わって落ち着かない。ざわめく。 「あのとき」 「あのとき?」 「そう、よく私と嘉月が一緒にいたとき」 「ああ」 「あのときはね、当たり前で可笑しいかも知れないんだけど、私の隣にはいつも嘉月がいただなって思って」 鼓動。 緊張。 どきどきする。 「――今更なんだけど、凄く特別な時間だったって解ったの。ねえ、私が何を言いたいか、解る?」 「解るよ」 「嘘。絶対解ってないんだから」 詩緒が冗談めいた顔をして笑う。 そのとき、悟流が云っていた台詞が脳裏をよぎった。
……詩緒ちゃんは云わないよ。嘉月の幸せを願ってるから。
「久しぶりに嘉月と直接会って話せてよかった。元気で楽しくやってるみたいだし。私、ちょっとホームシック気味みたいだね」 潮の香りを含んだ生温い風が二人の間を通り抜ける。彼女は穏やかな顔をして僕をみつめた。 「……俺も。俺もあのときは、当たり前で解らなかった。今思うと、特別な日々だったって思うよ」 「うん……」 今、彼女に伝えるべき事。 もう誤魔化さない。逃げない。 この気持ちは、確かだから。 「今も、そうあって欲しいって思ってる」 詩緒の顔を見る。 「何泣きそうになってんの、お前」 「だって、なんか嬉しくて」 詩緒の目は赤くなって、涙が今にも零れそうになっていた。ぼくは、風で顔にかかった詩緒の髪を彼女の耳にかけ、優しく頭を撫でる。 「もー、ダメだ。泣いていいかなあたし」 「ああ、いいよ」 詩緒は鼻を啜り、ふふっと笑った。そして、僕の肩に頭をのせ、腕に手を回した。 「ありがと」 僕はそれに答える代わりに、彼女の手に指を絡めた。
あの頃も、今も、そしてこれからも、僕の隣には彼女がいる。
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