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作品名:僕の隣 作者:浅葱

第2回   記憶―過去の日
 中学一年生の夏休み、ぼくは女の子に手紙で呼び出され、告白された。
 ぼくはサッカー部に入部した。サッカー部が練習するすぐ近くでは、陸上部女子が練習している。そう、陸上部のコが部活中のぼくを見て好きになったそうだ。部活に励むぼくの姿にでも惹かれたのだろうか。
 特に断る理由がないから付き合う事にした。そのコの名前は……えっと、何ていったかな。
 一年四組。夏休み中の登校日で、ぼくと悟流は窓際の暖房に腰掛け、世間話をしていた。会話が途切れたところで、悟流には彼女が出来た事を報告すべきかなと思い、一応、その旨伝える事にした。
「マジで? へえー……。嘉月にも遂に彼女ができたかー。いやー、めでたいめでたい」
 ぱちぱちぱち、と悟流がぼくに拍手を送る。
「彼女出来ても俺を見捨てないでね、嘉月くん」
 恨めしそうにそう言いながら、悟流は肩を組んできた。
「……暑い」
 ぼくはそう言って悟流の手を振り払った。照れ隠しではない。本当に暑かったのだ。
 その日の最高気温は三十五度。真夏日だ。
 高い位置にある太陽が容赦なく照りつける。揺らめく陽炎。体感温度を増す蝉時雨。唯一、教室の窓から見える大きなソフトクリームみたいな入道雲だけが、この暑さを紛らわしてくれるような気がする。公立校の教室にクーラーなんていうブルジョワなものはつかない。学校でクーラーが効いている部屋は当然に職員室。……それくらいだろうか。
「でもさ、お前、そのコの事、好きじゃないだろ?」
 悟流は見透かしたような目でぼくを見た。多少動揺したが、ぼくは平静を装った。
「今は好きじゃなくても、これからの事は判らないだろ?」
「まーねー」
 そう言いながら、悟流は眉と肩を同時に上げる仕草をした。ぼくの返事には興味が無いようだった。
 ある日、彼女はぼくを映画に誘った。ハリウッドの人気俳優が出ている恋愛映画だった。大人の恋愛を描いたもので、二人を引き離す障害を乗り越え最後には結ばれるという、まあ、よくある王道パターンの映画だ。ぼくは、当時、その手の映画が苦手だった。ああいう、主人公二人の背景に星や花が舞っていそうな映画を、ぼくは気恥ずかしくて観ていられなかったのだ。
 その頃のぼくは、映画を観るなら専らSFやアクション。金がかかっていて観ているだけで圧倒するような、深い事は何も考えずに単純に楽しめるような映画が好きだった。スクリーンで観るスターウォーズなんて最高だった。勿論、今でもそういう映画は大好きだ。彼女から簡単に映画の内容を聞いたとき、絶対面白くないと思った。でも、彼女があまりにも恥ずかしそうに、嬉しそうにぼくを誘うから、OKせざるを得なかったのだ。デート自体は別に厭な訳じゃなかったし……。
 
 日曜日、まだ真上に昇りきっていない太陽の日差しの中で、汗だくになってサッカーをしていた。
 ぼくは、家に着くなり自分の部屋から着替えを奪ってくるように取ってきて、バスルームへ行った。シャワーを浴びて、タオルで水滴を拭ききれていない日焼けした身体に、Tシャツを急いで被った。白地で胸にプリントのあるTシャツ。Tシャツが拭ききれなていかった水滴を吸い取る。多少濡れたまま着ても、どうせすぐ乾くのだから気にしない。火照った身体を冷ますシャワーをした後に服を着ると、布地の感触がさらりとして気持ちが好い。
 財布をヒップバッグに入れて、たっぷりと余裕のある感じに紐の長さを調節して腰に下げた。家を出る際にリヴィングを覗く。母はぼくが部活へ行った後、何処かへ出かけたようだ。ぼくが部活へ行くとき、丁度リビングのソファに座ってカモミールティを飲んでいた。母は、家に居るときは、大抵、リヴィングでお茶を飲んだり本を読んだりして過ごしている。
 ぼくは駅前の待ち合わせ場所まで急いだ。

「ごめん鳥内! ほんとにごめん! 俺、急いだんだけど……」
 そうだ。最初の彼女の名前は鳥内だ。しかし、ファーストネームまでは覚えていない。
 ぼくは息を切らして言った。家から自転車で飛ばしてきたのだ。ぼくの家は駅から近いので、大抵は歩いて駅まで行くのだが、歩いて行くような時間はもうなかった。駅前の駐輪場に自転車を止めて、そこから待ち合わせのコンビニ前まで走って行った。
 額から汗が滴り落ちる。ぼくは、左手の黒いリストバンドでそれを拭った。来る前にシャワーを浴びた意味があるのかどうか疑わしいけれど、気持ちの問題だ。そこら辺は考えない事にする。
「ううん、いいよー。実は、あたしもさっき来たところなんだ」
 腕時計を見た。待ち合わせ時間に五分程遅れてしまっていた。でも、五分ならまだ許容範囲、かな……。
「ほんとごめん! 遅刻だけはしないようにって思ってたんだけど」
「大丈夫だよ。早良(さわら)くん、部活だったんでしょ? あたしも午前中は部活だったけど、陸上部が練習終わって片付けしてる時もサッカー部はまだ練習してたし。仕方ないよ。気にしないで」
「ありがと」
 鳥内がそう言ってくれて、ぼくは安堵した。遅刻は嫌いだ。されるのはもっと嫌いだ。
 ぼくたちは、駅の近くのデパートに併設されている映画館へと向かった。
 初めてのデートで観た映画は、予想通り至極退屈だった。眠気誘引映画としか思えなかった。眠いのを必死になって堪えていたが、中盤の記憶がないことから、ぼくは、いつの間にか上映中に寝てしまったのだろう。この至極退屈な映画の唯一の救いは、ヒロイン役がぼくの好みのタイプだった事だ。淡い栗色の髪に青色の瞳。はにかんだ表情がキュートだった。そんな彼女の魅力をもってしても、ぼくの睡魔を払うまでには至らなかったようだ。
 隣に座る鳥内は、すっかり感情移入して涙していたようだった。そんな彼女を横目で見て、やっぱり女の子だなあと思った。
 映画をエンドロールまでしっかり観終わって、会場から出るとき、前方にいるその人に気が付いた。ぼくは思わず足を止めた。鳥内がぼくの背中に突進する。
「わっ! ご、ごめん。早良くん、いきなり止まるから。……ど、どうしたの?」
「…………」
「早良くん?」
 鳥内はぼくの顔を覗き込んだ。ぼくの視線はずっと前の方にあった。
 ぼくの視線の先には……、母が、いた。
 ぼくの知らない、若い男の人と一緒に。
 ……二十五歳くらいだろうか。見るからに母より年下だ。
 ぼくたちと同じ映画を観ていたのだ。
 母は映画のパンフレットを開きながら、楽しそうにその男と会話している。
 ぼくは、自分の意識が遠のいていき、完全に周りとは遮断された空間にいた。
 静寂の波がぼくを呑みこむ。
 無声音。無彩色。呼吸さえも、止まる。
 真っ白な霧に包まれた。何も見えない。視界を阻む濃霧。
 白、白、白。何もない。何も……。
 ……否、ぼくが拒否している。ぼく自身が事態を視界に捉え、認識するのを拒否している。
 ああ、眩暈がする。なんて、気分が悪いんだ……。
「…くん? ねえ、早良くん?」
 突然周りの雑音が溢れ、ぼくの耳に流れ込んだ。周りの世界が動く。現実の世界に引き戻された。
 ぼくは後ろを振り返り、鳥内に平静を装ってみせた。
「ああ、ごめん。何でもないよ。早く出よう」
「どうかしたの? 誰か知ってる人がいたの?」
「否、何でもないんだ。何でもない……」
 こんな事は、前から解っていたじゃないか。もう、ぼくは解っていた筈なんだ。母に、男がいる事くらい……。なのに、どうして……、どうしてぼくはこんなにも動揺しているのだろう。
「只……、只、準備が出来ていなかっただけなんだ。あまりにも突然すぎて準備が……」
 ぼくは自分に言い訳をして、思考を切り替えようと試みた。しかし、上手くいかなかった。
 鳥内が少し首を傾げて、訝しげにぼくを見ていた。
 次々と後ろから出てくる人たちが、ぼくたちを追い越して行き、肩がぶつかる。
「鳥内。危ないから、さ、早く出よう」
「う、うん……」
 ひとまず出口から離れる事にした。母と出くわさない事を祈りながら。母はもう、映画館から出て行ってしまったようだった。外では再度、母の姿を確認する事はなかった。
 ぼくは映画館を出て、しばらくの間黙っていた。取り敢えず、ぼくたちは駅に向かって歩き出していた。
 沈黙に耐えかねて、鳥内が口を開く。
「……早良くん、映画、詰まらなかった?」
「そんな事ないよ……」
 ぼくは無理に笑ってみせた。
「そっかー、良かったあー。もしかしてああいう話、好きじゃなかったのかなーと思って。だってさ、男子ってああいうの、あまり好きじゃないでしょ?」
「まあ、人により、かな」
「そうだね。早良くん、大人びているし、他の男子とは何か違うもんね。実はね、早良くんだから大丈夫だなって思って誘ったの」
 鳥内は上目遣いで恥ずかしそうに言った。
「へえ、そうなんだ」
 ぼくは鳥内の話をよく聞いていなくて、只、相槌しただけだった。
「この後、どうする? 何処か行く?」
「んー……」
 時計を見ると、時刻は四時を回ったところ。
「今日はもう帰ろうか?」
 早く帰りたいと思った。誰とも関わりたくない気分だった。
 鳥内は残念そうに「そうだね」と呟いた。
「……じゃあ、送るよ」
 映画を観てさっさと帰るのでは、流石にデートとはいえないだろう。折角、鳥内がデートに誘ってくれたのだ。彼女のためにも、家に送るくらいの事はしなくてはならない。
「うん」
 鳥内の家は駅から比較的近く、徒歩十分くらいのところだった。ぼくは鳥内の歩調に合わせて、自転車をひきながら歩いた。やっぱり、鳥内は、まだ家に帰りたくなかったのかも知れない。歩く速度がやけに遅く感じられた。
「早良くん、今度はご飯でも一緒に食べに行こうね」
 俯いたまま鳥内は言った。ぼくは「ああ、そうだな」と、抑揚なく返すだけ。
 鳥内の家の前に着くと、鳥内は、「ありがとう。じゃあね」と言って手を振り、小走りに家の中へ入っていった。ぼくは自転車にまたがり、鳥内の家を後にした。
 家に帰ると、母が夕飯の準備をしているところだった。
「お帰りなさい。今までずっと部活だったの?」
「一度帰ってきたよ。すぐ出かけたけど」
「友達の家に?」
「……まあね」
 まさか、ぼくが自分と同じ映画を同じ場所で同じ時間帯に観ているとは思わないだろう。
 母はいつもより嬉しそうに見えた。それは、きっとぼくの気のせいなんかじゃない。
 鳥内はその後、何度かぼくを誘ってくれたが、部活の関係上、なかなか時間が合わなかった。一緒に帰ったのも数えるくらいで、ぎこちない会話が繰り返されていた。
 多分、悟流の考えは当たっていたのだろう。結局、ぼくは、初めて付き合ったコを好きにはならなかった。そして、彼女はぼくに別れを告げた。「他に好きな人が出来たの」と。
 ぼくは、あっさりと了承した。別れ際、彼女はぼくに何か言いたそうだった。ぼくはそれに気付かない振りをした。彼女はぼくのもとを去っていく。だから、もう、ぼくには関係がないんだ。


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