青い空に筋状の雲が流れる。ときどき強く風が吹いてピンクが舞う。 桜が咲き乱れ、ぼくは高校三年生になった。 クラスは一年から変わりばえしないメンバーのため、二年生の二学期にはすっかり国際コース特有の雰囲気が出来上がってしまっていた。おかげで、いまいち受験の焦りというものがクラスにはなかった。 しかし、ゴールデンウィークを過ぎた頃、クラスの雰囲気がガラリと変わった。悟流が合格判定模試において、志望校の国立大をA判定で出したのだ。 E判定が続出していた中、それはセンセーショナルだった。 ぼくは、悟流が地道に勉強しているのを知っていたから、当然の結果だとは思った。でも、内心は焦っていた。ぼくはまだ志望校が絞りきれておらず、取り敢えず、知っている大学を記入しただけだった。それでも思っていたより判定結果は良くなかった。 丸山は、部活が終わって部室で話をしているとき、志望校が決まっていないから某有名女子大を記入したらE判定だったと喜んでいた。これは、判定結果に喜んでいるのではなくて、男が女子大を記入してもちゃんと判定が出た事を喜んでいるのだ。機械読み取りなのだから出るのは当然だろう。ぼくのクラスの男にもふざけて女子大を記入した奴がいた。何処のクラスにも一人はそういう奴がいるのだろう。……下らない。 家に着いたらもうくたくたに疲れていた。 喉が渇いたからまずはキッチンへ。重力の従うがままにバッグを投げ出す。 冷蔵庫から1リットルの麦茶のペットボトルを取り出す。その場で飲んで、一端蓋をし、自分の部屋に持っていくことにした。 部屋のテーブルの上に麦茶のペットボトルを置き、バッグから取り出した携帯電話は机の上に置いた。学ランを脱いでクローゼットのハンガーにかける。 そのとき、机に置いた携帯電話が鳴った。正確には振動。3回ほどでバイブレーションが停止する。 「メールか……」 誰だろう、と思いながら携帯電話を手に取る。 詩緒だ。詩緒からメールが届いた。
S〔嘉月、元気してるー?〕 詩緒でーす。久しぶり。最近どうデスカ? 勉強頑張ってる? あたしは頑張ってるよ! 塾も行ってるし! 今日、模試が返ってきました。嘉月んとこも模試受けた? 志望校、E判定だった!! あーん、ショックー…。 でも、まだまだこれからだよね。ヨシ。頑張れあたし! 嘉月は志望校決まってる?
本当に久しぶりだ。二ヶ月ぶりくらいだろうか。
S〔元気してるよ〕 俺んとこも、今日模試返ってきた。 志望校は決まってないけど、狙ってるレベルの大学はC判定だったよ。 そこまで期待はしてなかったけど、結構ショックだよなー。 あ、そうだ。俺の友達は志望校、A判定出してたよ。 俺も負けてられない。
しばらくして詩緒から返信。
S〔すっごーい!!〕 A判定出してる人いるの!? すごいなー。 ちゃんと努力してるんだよね。やっぱり。 あたしたちも頑張ろう! またメールするね☆
詩緒もちゃんと頑張っているようだ。ぼくも頑張らないと。 授業、部活、勉強。これらをこなす毎日が続く。
詩緒と出会った季節――夏が来た。 夏に部活を引退して、ぼくは勉強一色の日々を送った。 必死に勉強しているのに成績がなかなか伸びず、ぼくは精神的に限界だった。 悟流も結構ピリピリしている。合格判定模試で志望校記入総数の中の成績順位が、前回よりかなり下がってしまったらしい。 放課後には三十分確認テストも開始されるようになった。一問五点の計二十問出題。八十点未満は追試に補習だ。所詮確認テストの域を出ないので、追試になるのはクラスの中でも数名だった。今日の確認テストはイディオム構文。 「はい、終了。隣同士で交換して答え合わせするぞー」 担任が確認テストの終了時間を告げ、解答を読み上げていく。シャーペンとはまた違ったペンの走る音が教室に響く。 隣の戸波がぼくの回答用紙を差し出す。 「早良くん、惜しいじゃん! 一個だけ間違えてるよ」 戸波から解答用紙を受け取って、ペケがついているところを確認する。 「……あー、これやっぱ『of』だったんだ。はい、戸波これ」 ぼくが丸付けした戸波の解答用紙を渡す。 「戸波も惜しかったじゃん。あと一個間違えたら補習だったのに」 ぼくの冗談っぽく言った言葉に、戸波は不安と期待が混じった表情で応えた。ぼくの指の間から戸波の回答用紙がするりと抜ける。 「……ああ、良かったー! これで補習常連組みから脱出だよー!」 解答用紙を持っていない右手をぎゅっと握って、戸波は補習を免れたことを喜んでいる。思えば、戸波は確認テストが始まってから、毎回補習組みだった。 「頑張ってるんだな、お前も」 「何言ってんの。早良くんだって、みんなだって、頑張ってるでしょ」 ……そう、みんな頑張ってるんだ。ぼくだけじゃない、みんな自分のやりたいことをやるために、行きたいところに行くために頑張ってるんだ。 「ああ、そうだな」 回答用紙が席の後ろから前に回されて回収されていく。戸波が前の席に回答用紙を渡し終えてぼくのほうをちらっと見た。 「何?」 「うん、なんかさー……」 「何だよ? 何か解んないとこでもあった?」 「いや、そうじゃなくて」 ぼくは思わず眉をひそめる。戸波はぼくの反応に両手を左右に振って、否定的な解釈は誤解であることを示した。 「うん、あのね、ちょっと早良くん変わったよね」 意外な答えに面食らう。 「え? 俺? そうかな」 自分自身、そんな変化は全く感じていなかった。 「全然そんなつもりはないんだけど、例えばどんな感じに?」 具体的にいうとなると難しいのだろうか。戸波はそこで「うーん」と考え込んでしまった。
「前より垢抜けた感じ? ……だってさ。何だよ垢抜けるって」 ベッドの上で雑誌をぱらぱら捲りながら聞いていた悟流の手が止まる。そして視線が、雑誌からぼくへと移った。 悟流の顔の表情がスローモーションのように徐々に緩んでいく。挙句の果てには吹き出し、腹を抱えて笑う始末だ。「抱腹絶倒」という言葉は、まさに今の悟流に当てはまるだろう。 「悟流、お前受けすぎ。意味解んないんだけど」 ぼくは悟流のデスクチェアの背凭れを前にして座り、笑いで小刻みに震えている悟流を冷ややかに見る。 背凭れの上辺りに両肘をつき、左手に持つコーヒーゼリーには右手で持つスプーンを半分だけ挿したままの状態。悟流があまりにも大うけしたので、そんな悟流に呆気にとられたその時点で、ぼくの動作は静止しているのだ。 「だ、だって――。と、戸波がそんなこというなんて、……さ、最高じゃん!」 悟流の笑いは当初よりは落ち着いたが、まだ治まらないらしい。しばらくは放っておくことにしよう。 部活が休みだったため、帰りは悟流と一緒だった。その帰りの電車の中で、悟流の家に寄るように誘われた。そして今、ご馳走になっているコーヒーゼリーを手にして悟流の部屋に居るわけだ。 こんな具合で、時々悟流の家に寄ることがあった。今までも試験期間中には部活がなく、早い時間帯に帰宅できるので寄ることはあったが、別に特別用があってのことではない。情報交換だったり単なる息抜きだったり。 悟流の家は、丁度ぼくの家までの通り道にある。わざわざ時間を作って、というものではなく、お互いほとんど気紛れだ。 今日は、小母さんが近くのデパートでコーヒーゼリーを安く売っていたので、大量に買ってきてしまった、とのことでだ。悟流の家は三人家族なのに、その倍の六個を購入されたそうだ。六個以上ではないと安く買えないという縛りがあったらしい。コーヒーゼリー自体は、型に水平にきっちりはまったものではなく、少し底の深いカップに切り崩して盛られたタイプのものだ。上に生クリームが絞ってあって、刻みアーモンドが散らされ、ミントの葉が飾られている。ぼくは、六個のうちの少なくとも一個のコーヒーゼリーを消費するべく呼ばれたのだ。 悟流の笑いが漸く治まったようだ。右手で自分の身体を支えて起き上がった。笑いすぎて涙目になっている。 「でもさー、なんで受験勉強やってるときに垢抜けなんてするんだろーな?」 身体を支えていない方の手で、悟流は自分の目を擦った。 「知らないよ。戸波に聞いてくれ」 視線をコーヒーゼリーに戻し、止まっていたぼくの右手は仕事を再開する。生クリームを避けてゼリーを一掬いし、口の中へ運んだ。デパートで買っただけあってなかなか美味しい。 「それで、嘉月は戸波の言葉にどう反応したワケ?」 悟流が期待の目で見る。 「どうもこうもないよ。実際、リアクションに困ったくらいだし」 悟流の笑いが再開する。ぼくは呆れ顔でコーヒーゼリーを食べ続けた。 こういうのもきっと、受験生のささやかな休息のひと時なのだろう。
葉はすっかり色付き、乾いた風が葉を落としていく。 秋 から模試の結果が良くなってきた。ぼくは今が伸び時だ。結果が出ればやる気も出る。 行き来の電車の中では英単語張や古文単語張を眺める毎日だった。 窓からの景色を見ている余裕さえもなかった。 それでも、悟流とぼくは、お互いに話す時間を確保するようにした。ほんの僅かなコミュニケーションでも、それが大きな励ましだったし支えになっていた。
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