季節は移り行く。 冬。毎日グレイの分厚い雲が空を覆い、時折雪をぱらつかせた。 まとまった雪が降り出すだすのもそう遠くはないだろう。 詩緒とほとんど連絡を取らなくなっていた。ごくたまに、思い出したかのようにお互いの安否を問う。その程度だった。 そろそろ受験勉強に本腰をいれる頃だ。 部活をしている関係で、二年生の冬からしっかり勉強しておく必要がある。部活の引退は三年生の夏だ。今から少しずつでも勉強を進めておくことで、部活と勉強との両立も可能だろう。 母は相変わらずだった。帰らない日もあれば早く帰って来る日もある。 母が家に居るときは、ぼくは意識してあまり自分の部屋に閉じこもらないようにした。実際に過ごすのはほとんど自分の部屋でだが、キッチンに何か飲み物を取りに行くなど部屋を出るときは、母のいるリヴィングを覗いて何か話しかけたり様子を見たりした。母と話をする時間は随分増えたと思う。これは大きな変化だ。 母は自分の事を嬉しそうにぼくに話す。今付き合っている男の事も、だ。
朝から雪が降っている土曜日。 午前中は部活があったため学校に行っていたが、午後からは家で勉強することにした。母も珍しく朝からずっと家にいたようだ。母が、ぼくの部屋に来てお茶をしないかと言うので、息抜きをすることにした。 リヴィングに行くと、母がコーヒーをカップに注いでいるところだった。 「丁度好いところに来たわね」 「そう?」 ぼくはソファに腰掛ける。テーブルの上に置かれている白い箱に目が止まる。箱の上面に貼られている賞味期限が記載されているシールは、この辺では美味しいと評判のケーキ屋のものだ。 「ケーキ、買ってきてたの?」 「そうよ。嘉月が学校に行っている間に」 母はケーキの箱を開け、皿の上にケーキを載せる。抹茶のシフォンケーキとアップルパイだ。フォークを添えて、ぼくの前にアップルパイの載った皿を差し出す。 「ありがとう」 コーヒーを啜ってから、アップルパイの載った皿を手にとる。 母は、ベーカリーやケーキ屋に寄るときは必ずパイを買って来てくれる。昔からぼくがそれを好きだからだ。 しかし、流石に毎度同じものだと他の物も食べたくなるので、一度違うものを選んだ。すると、「アップルパイじゃないの!?」と言われる始末だ。ぼくがそのとき選んだものは、母が食べたかったらしい。見るからに高級そうなチョコレートケーキだったと思う。それ以来、ぼくはずっとパイを選んでいる。ぼくに選択権などないらしい。 アップルパイを食べながら、そろそろ母と進路の話をすべきだとぼんやり思う。 これまでもその話をすべきと思いつつ、うまく言い出せずにいた。母に相談するとか頼るとか、そういう術をとっくに放棄し、やり方を忘れてしまっていた。それに加え、母は母で、今までぼくの進路については何かを言うことはなかった。今後もそのスタンスは変わらないだろう。しかし、大学進学となるとぼく一人だけの事情ではなくなる。少なくとも経済的な観点からは。 自分でも可笑しいくらいに言い出しを何度も躊躇い、タイミングを計ってようやく話を切り出した。 「俺も今年は受験生なんだけど」 「ああ、そうね。ちゃんと勉強頑張ってね。嘉月ならちゃんとやるとは思うけれど」 「あの、それでさ、県外に行こうかと思ってるんだけど」 「へえ、そうなの? 良いんじゃないの?」 母の返答は、何とも気抜けのするものだった。 ぼくが県内の大学に行くか県外の大学に行くか、それ自身はあまり関心がないようだ。しかし、大学の学費は決して安いわけではない。しかも、県外になると生活費や家賃もかかる。勿論、奨学金を利用するという手もあるけれど。 「なあに? 何か言いたそうな顔してるわね」 コーヒーカップから口を離し、母は訝しんだ。 「ああ、うん。あのさ、確認したいんだけど、私立大ってどうかな?」 「嘉月、私立で行きたいところがあるの?」 「私立に行きたいって訳じゃないけど、私立でも行きたい大学はいくつかあるから……。経済的に無理かなやっぱり」 母はカップをゆっくりコーヒーソーサの上に戻した。 「嘉月、その前に話があるの」 「え、何?」 話がある、と言われて話をされるのは、内容が自分で勝手に予想されるので妙に不安になる。ぼくにとって不利な内容だと思った。 「お母さん、今付き合っている人いるでしょう?」 「ああ、えっと、……明道さん?」 予想外の話を出されて戸惑った。大学の話との関連性が掴めない。 「結婚を考えているの」 「……え?」 あまりにも予想外の話に何と答えていいのか解らなくなる。 「嘉月の事はちゃんと話してあるから、その事については心配ないわ。それで、近いうちに会って欲しいの。明道さんも早く嘉月に会いたいって言ってるから」 急すぎる展開だ。 「ほ、本気なの?」 「本気よ。真剣に考えているわ。只、貴方の事が心配なの」 母はぼくの目を不安げに見る。しばしの沈黙。ぼくはゆっくりと口を開き、答えた。 「母さんが真剣に考えているなら、俺は反対しないよ。高校卒業したら一人暮らしするつもりだし」 「嘉月、本当に良いの?」 「結婚するのは母さんだろ? ……うん、良いよ。俺、その人に会っても」 母は、ぼくの答えを聞いて胸を撫で下ろした。 「実は、明道さんにね、嘉月の写真を見せた事があるの」 シフォンケーキにフォークを入れながら、嬉しそうに言った。 「写真……って、高校の入学式のときの!?」 「ええ、そうよ。なかなか格好の良い子だねって褒めてたわよ」 「……冗談だろ、それ」 溜息が出た。明道さんのぼくの第一印象は、最悪に決まりだ。 ぼくは気分直しにコーヒーをもう一杯淹れて飲んだ。母はケーキを食べていたが、一端、フォークを皿の上に置いた。 「嘉月、お金の事は心配しないで。貴方一人の学費は私一人でも何とかしてみせるわ。多分、バイトはしなくちゃいけないと思うけれど。それにね、明道さん、貴方の事もちゃんと考えてくれてるの。だから、貴方は自分の好きな大学に行きなさい」 母は温かい眼差しをぼくに送った。 ああ、やっぱりこの人は、ぼくの母親なんだ。 そう改めて思えたのは、何時ぶりだろう……。 「……ありがとう。母さん、好い人見つけたんだね」 「ええ」 母は穏やかに微笑んだ。母親の、息子に向ける笑顔だった。
後日、明道さんと国道沿いにあるイタリア料理店で対面する事になった。 ぼくはそういう場では何を着ていけば良いのか悩んだ。そんな畏まる必要もなさそうだけれど、初対面だし、印象というものも大切だろう。母は普段通りで良いと言ったが、パーカにジーンズ、といういう訳にもいかないだろう。無難に白いシャツと黒いパンツにまとめてジャケットをはおった。母はクラシカルな雰囲気のワンピースを着ていた。 店は結構客席がうまっていたが、表にいる店員三人で十分対応できる広さだった。店員は白いシャツに黒いパンツで赤いネクタイをしている。ぼくが赤いネクタイをすれば、今すぐ此処で働けそうだと思った。それがちょっと気になった。 店内の照明は落ち着いて食事をするのに丁度良い明るさで、ベビーピンクのテーブルクロスがかかっているテーブルの中央には、グラスキャンドルが橙色の炎を燈している。キャンドルは客のいるテーブルにしか置かれていない。客が席に着くと、後から店員がキャンドルに火を燈して持って来るのだろう。いかにも母が好きそうな店だ。 母と明道さんが、テーブルを挟んでぼくの前に座っている。明道さんはぱりっとしたスーツを着ていて、いかにも仕事が出来る男といった感じだ。 母が簡単に紹介する。 「こちらが明道さん。明道さん、私の息子の嘉月です」 「嘉月くん、初めまして。明道陽一といいます」 「初めまして。早良嘉月です」 明道さんは、爽やかな印象で、好感の持てる人だった。この人なら、母と上手くやっていけそうだなと思った。 「式は挙げないつもりなの。籍だけいれようと思って」 「ふーん、何時いれるの?」 スープ、サラダが運ばれてきた。スープスプーンを手に取る。 「嘉月が大学に入学してからかしら」 スープを啜りながら、あれ? と思う。 「一年後? 籍だけなのに何でそんな先に……」 「嘉月くんは受験生だからね。やっぱり、この大事な時期に環境が変わるのは、良くないんじゃないかと思って。だから、お母さんと籍をいれるのも一緒に暮らすのも、嘉月くんの受験が終わってからにしようって決めたんだ」 明道さんは笑顔で答える。 「そうですか。すみません。気遣って戴いて」 「否、構わないよ。嘉月くん、何か困った事があったら遠慮なく言って欲しい。僕の出来る事は何でもするつもりだから」 「はい」 食事を終えて店を出ると、明道さんはぼくに、「写真とは全然印象が違うね。仲良くやっていけそうで安心したよ」と言った。本当に安心したのだろう。顔に出ていた。解りやすい人だ。ぼくは「よく言われます」と返事した。 明道さんは、たまに家に遊びに来るようになった。ぼくに遠慮してあまり長居はしなかったが、夕食を一緒に取る事もあった。食卓を三人で囲むなんて、何だか照れくさかった。
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