今日は珍しくサッカーの練習が午前中にあり、午後からはフリーだった。 練習が終わると、当番班以外の部員はシャワー室へ直行だ。夏の間だけシャワー室利用の許可が下りる。冷水シャワーではないのだが、経費をけちっているのだろう、設定温度はかなり低めだ。例え、温度を四十度に設定したとしてもそんな温度のお湯は出ない。 シャワーを浴びてから部室に戻ると、部室内にもったりとした熱がこもっていた。部室に入った途端、身体全体に熱の塊のような空気が押し付けてくる感じ。一緒に部室に戻ってきた部長の矢原が素早く窓を開けて換気する。勿論、部室のドアも開けっ広げだ。基本的に、部室のドアは、利用時において常時開けっ広げな状態だ。それが着替え中であろうとなかろうと。 真夏ではほぼ毎回シャワーを利用するので、みんなシャワー室で着替えを済ませてくるが、夏以外にはシャワーを利用しないので、部室内でTシャツやパンツを着替えることも多々ある。パンツを堂々と外から見えるところで着替える奴はそういないけれど、上半身の着替えだと、ドアオープンのところで簡単に着替えてしまう奴も多い。そんな時に、女の子がサッカー部部室前を通りかかるというケースも度々ある。そういう状況に出くわした女の子は気まずそうにしたり声を上げたりして素早く通って行くが、運動部員の女の子達に限っては、特に何の反応も示さない。日常的にあることなので、もう慣れてしまっているのだろう。「着替え中くらいドアを閉めて」、と言うコさえいないのだから。ちなみに、部室のドアは道路側を向いていないので、地域住民に着替えの現場を目撃されることはない。 帰りの仕度をしながら悟流の家にでも寄って行こうかと考えていると、当番の片付けの後でシャワーを浴びに行っていた部員達が部室に流れ込んできた。圧迫感と暑さが三割増し。 ドアから入る人が途切れると、手前にいる奴らが部分部分で遮ってはいるが、ドアの向こうの視界が開けた。二年生マネージャー二人が、救急箱やストップウォッチ、スコアブック等が入っているかごやポットをそれぞれ持って、部室に向かってくるのが見える。ぼくはポカリスウェットで喉を潤しながら、部室の外に出た。 「ああ、早良くん、丁度いいところに!」 マネージャーの榊がぼくに呼びかけた。榊は少し身体を反らしながら、かごを持っている。そんなに重くはない筈なのに、榊が持つとあのかごがやたら重そうに見える。実際、榊にとっては重い荷物なのだろう。それとは逆に、もう一人の二年生マネージャーである志野は、ポットなので軽そうだ。今、ポットの中身は入っていないだろうから。 「これ、二つともお願いしていいかな」 榊が、風で乱れた髪を耳にかけながら言った。 「ああ、中に入れとくよ。二人ともそこ置いといて」 「ありがとう、早良くんお疲れさま」「ありがとう、じゃ、お疲れさま」 榊の後に志野が輪唱のように続いて言う。 「ああ、いいよ。お疲れ」 遅れて部室前に辿り着いた一年生マネージャー二人にも、後で片付けるから運んで来たものをそこに置いておくように指示した。そうすると、すごく律儀な挨拶をされてしまった。ぼくとそんなに話したことがないためか、若干緊張しているのかも知れない。一年生だし、まだ初々しさが残っているのだろう。 ぼくは、手にしていたペットボトルを緊急箱等が入っているかごの中に入れ、かごとポットを持って部室の中に入った。ペットボトルを取り出して、所定の位置にかごとポットをしまう。一年生マネージャーが運んで来た用具等は、今日の当番である部員が、戸締りの時に部室に入れることになるだろう。今、中に入れてしまうと邪魔で仕方がない。 ロッカーのハンガーにかけてあったシャツを取り出す。シャワーを浴びた後、替えのTシャツと制服のズボンには既に着替えてしまっているので、あとは制服のシャツを羽織るだけ。そのシャツに腕を通す。 シャツのボタンを留める前に再びポカリスウェットを手にする。と同時に、横からの視線に気付いた。そちらを見ると、着替えを済ませた能登と視線がぶつかった。ぼくのところから三つ目の、自分のロッカーに凭れかかって、何か云いたげだ。ぼくは能登の様子を窺いながら、ポカリスウェットのキャップを捻る。 「何?」 能登から返事を待つまでに一口飲む。ぼくが飲み終わったタイミングを計って、能登は口を開いた。 「嘉月。あのさ、来週なんだけど、来週の木曜も今日みたいに部活が午前で終わるだろ。午後からは暇かな?」 ぼくに不敵な笑みを送る。きっとまた仕様もない事を言ってくるに違いない。躊躇わずに拒否。 「――否、悪い。暇じゃない」 「えー! 何でだよ!」 ぼくがそう答えた直後、背後に居たらしい丸山のばかでかい声がぼくの耳を劈く。そのうち鼓膜がどうにかなるんじゃないだろうか。最近の心配事の一つ。 「丸山、お前な、俺の耳元で叫ぶなって言ってるだろ!」 「そんな事はどうでもいいんだよ!」 「よくねーよ」 ただでさえ疲れているのに、更なる疲労感が襲う。 「まあまあまあまあ。嘉月、落ち着いて」 能登が仲裁に入る。仲裁に入るというよりは、一方的にぼくを落ち着かせるといった方が適格か。 ぼくが溜息を吐くと、丸山は、取り敢えずで謝ったけれど謝ったことは納得がいかないという顔をして、自分のロッカーの所へすごすごと行ってしまった。正確には、能登がここは自分に任せろと言って、丸山を向こうへ行かせたのだが。丸山のことはいつものことなので、気にしないことだ。ぼくは、手にしていたポカリスウェットをバッグの中にしまった。 「俺は無理だよ。他の奴を当たれよ」 シャツのボタンに手をかけ、まず第三ボタンを留める。 「そう言わずにさ、嘉月しかいないんだよ」 能登は、両手の掌を合わせてぼくに拝んだ。 「だから何で俺なんだよ。ほら、矢原とかいるじゃん」 そのまま下のボタンを留めながら、視線を能登から矢原へと移した。部長の矢原は部員からの信頼も厚く結構いい奴。 「矢原なら引き受けてくれそうじゃん」 能登もぼくの視線を追い、矢原を見る。矢原は二人の視線に気付いて、「え? 俺に何か用?」と素っ頓狂な声を出した。 「いや、別に何もないよ」 能登は右手を軽く上げ、矢原には特に関係のないことだと伝えた。矢原は少し気になっているようで、複雑な表情をしたが、「ふうーん」と数回頷くと、自分のやっていた作業を再開した。 「矢原は彼女がいるからダメなんだ」 能登が小声で言う。 「嘉月、お前、彼女と別れたってホントなの?」 ぼくは無言で能登を見る。悟流以外の誰にも話していないのに、何故知っているんだろうという単純な疑問。 「否、違うならゴメン。単なる噂なんだ。うちのクラスの女子が騒いでいたから」 噂? なんとなく読めてきた……。 悟流以外の奴には話していないのに。まさか、悟流がそんな話を他の奴にするとも考えられない。唯一思い当たることといえば、登校日の帰り、電車で悟流に別れたことを話したとき。悟流は、ぼくがサワコさんと別れたことに対してかなり驚いていたから、多少なりとも声が大きくなっていたと思う。確か、その電車には他クラスの女の子が乗っていた筈……。ということは、その彼女たちに話が聞こえて、噂として広まったのではなかろうか。女の子に一端漏れると、そういう話題は疾風伝来の如し。そして、時、既に遅し、だ。 「嘉月」 能登の目に不安の色が混じる。 「おっしゃる通りだよ」 第一ボタン、第二ボタン以外のシャツのボタンを留め終わり、襟を立ててラインを正しながら答えた。襟を折って再度形を整える。 「彼女とは別れた」 能登が神妙な顔つきになる。 「大丈夫なのか?」 バッグを取り出し、ロッカーを閉じた。 「そう見えんの? 俺」 別れたこと自体に後悔とか傷心とか、そういう思いは抱いていない。サワコさんと過ごした時間っていうのは勿論大事だったし、サワコさんに対して彼女が大切な人だという思いもあった。結果として、サワコさんの気持ちに向き合ってはいなかったけれど……。それに気付いて別れた今、むしろ、すっきりとした気分になっている。だから、能登が本気でぼくに対して、その顔が言う「失恋の痛手が後を引いている」、と思っているなら、それは可笑しな話だと思った。 「否、全然」 能登は、ぼくの答えが予想通りだったのか、満足しているようだ。どうやら単にぼくが別れたかどうかを確認したかったらしい……。 「じゃあ、問題ない訳だよね」 「問題ないの意味が解んないんだけど。俺じゃなくても誘うなら飯田とか遠野とか……。あと後輩もいるだろ」 「だからさ、同い年で願わくば嘉月がいいんだよね」 ぼくは不信感たっぷりの目で能登を睨んでやった。そんなぼくにお構いなしに、能登は一歩、また一歩と、ぼくに歩み寄ってきた。至近距離。 「顔、近いんだけど」 能登はさらに小声で、囁くように言った。 「それに、女の子ウケしそうな奴が欲しいんだよね。嘉月、お前ならそれは適任だって自覚あるだろ?」 ……ああ、成程。要は、女の子を誘って何処かに行くためにメンツを揃えないといけないってことだ。今まではサワコさんと付き合っていたため誘われることもそうなかったが、それでも何回か、彼女がいることを秘密にして付き合ってくれないか、と声をかけられたこともあった。勿論お断り。 「取り敢えず、俺が適任かどうかはおいといて。じゃあさ、能登はアイツが適任だと思ってんの?」 ぼくへの説得をすっかり能登に任せて、他の部員と話している丸山を指差す。 「まあ、それは適任かどうかっていうと適任じゃないだろうね。でも、あんまり固めすぎても引かれるだろ? バランスをとるっていうのかな。多少は外さないと」 「……能登、お前」 能登はぼくがその後、どのように言葉を続けるか解っているようで、怪しく微笑んだ。 「まあ、二学期始まるまで考えといてよ。嘉月もこのままいつまでもフリーってつもりじゃないんだろ?」 ぽんぽんとぼくの肩を軽く叩いて、能登は自分のロッカーの所へ戻り、ロッカーの扉を開けた。 週末明けまで返事を延ばしたって、ぼくのその答えは変わらないのに。 「お先」 ぼくは部室を後にして正門へと向かった。正門へ向かう途中、ジャージから制服に着替えたマネージャーの榊と会った。 「能登くん、部室にまだいる?」 「ああ、まだいるけど」 「そっか、ありがと。早良くん、お疲れさまー」 「お疲れさま」 特に足を止めずに会話してすれ違う。榊は能登と仲がいいみたいで、普段でも廊下で能登よく話をしている印象がある。能登が副キャプテンであるということと関係しているのかしていないのかまではよく解らないけれど。ぼくの独断と偏見から云えば、榊は能登に気があるんじゃなかろうか。
帰りの電車の中でメールをチェックすると、悟流からメールが来ていた。 悟流 S〔午後休?〕 うぃっす。嘉月って確か、今日は午後空きだったよなー? 午後からお前ん家行くわー。じゃあ。 S〔今から帰るところ〕 はいよー。了解。
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