「誰でも良かったんだ。俺が必要だと言ってくれれば誰でも。たとえそれが一時的でも、淋しさを紛らわしてくれればそれで十分だった。深入りしないように付き合ってたんだ。何時でも別れられるようにね。最初から、いつか終わりが来る事は解ってるんだ」 ぼくは、焦点を定めず川の方を見たまま話を続ける。今まで他人に話すのを躊躇っていたのに、自分でも不思議なくらいだ。ぼくは、詩緒にどうしてこんな話をしているのだろう。 「俺が六歳の時、両親が離婚したんだ。父親が家を出ていった日、どっかでまた帰ってくるんじゃないかと思ってた。でも、それっきり父親は帰って来なかった。俺は、母親と近くのマンションに引っ越した。その頃、俺はいつも母親の傍で過ごしてたんだ。いつも優しい穏やかな母親が好きだったから。父親がいなくなっても、二人だけでうまくいっていたと思う。俺はね。でも、ある日、母親は、俺一人を家に残して夜に出掛けて行ったんだ。いい子にしてなさいと言って。そんな事は初めてだった。仕事の筈はない、何故出掛けるのか解らなかった。母親はちゃんと帰ってきたけど、俺は母親の姿が父親とダブって、もうそのまま帰って来ないんじゃないかと思って本気で心配した。俺が大人しくしていれば、我儘さえ言わなければ、母親はずっと傍にいてくれるんじゃないかと思った。嫌われたくなかった。だから、我慢したんだ。俺が母親に言いたかった事を。それでも、母親は不在がちになっていった。みんな、俺のもとから離れていく……。堅実だと思っていた父親も、大好きだった母親も。最後には自分のもとから離れていくんだ。信じていた人が、好きだった人が自分から離れていく……。絶望的だよ」 詩緒は何も言わず、静かにぼくの話を聞いている。 「だから、今まで付き合ったコたちには、本気で向き合えなかった。好きになるのが怖かった。表面的な付き合いしかしない。相手に合わせて関心があるように装うだけ。その時はそれでも構わないって思ってた。でも、詩緒に最低だって言われて……、ああ、俺って本当に最低だなって思ったよ」 「違うの。それは……」 「違わないよ。だって、俺、好きだって言われてその気持ち知ってたのに、それに応える気なんか全然なかったんだ。自分のためだよ。自分の淋しさを紛らわす為」 「最低なのは、あたし……なの」 か細い声。ぼくはずっと前に向けたままだった視線を、そこで初めて隣に座る詩緒へと向けた。詩緒は俯いている。「詩緒?」 ぼくは覗き込むような姿勢で詩緒の名を呼んだ。 「あの時、嘉月見てると自分見てるみたいで苛々した。あたしもそうだったから……」 「……どういう事?」 詩緒は顔を上げ、オレンジ色になってきた空を眺め遣った。 ぼくの鼓動は速くなる。何だか落ち着かない。 詩緒は、漸く口を開いて話し始めた。 「実はね、あたしも小さい時に両親が離婚してるんだ。あたしはお母さんについていったの。お母さん、お父さんと別れてから、毎日泣いてた。泣きたいのはあたしの方だったのに、泣けなかった。あたしがちゃんとして、お母さんを慰めてあげなきゃって思ったの。あたしはもっと強くならなきゃって。でも、強がってるだけじゃだめだった。やっぱり辛かった。だけど、他人には自分の弱いところなんて見せたくなかった。だから、自分の弱いところを見せても平気だって思える人が欲しかったの。この人なら、あたしの事解ってくれるって人が……」 詩緒もぼくと同じ境遇で育ったんだ……。 だからなのか? 同じ匂いを感じたから、ぼくは詩緒に心を開くようになったのか? 「……彼女とはうまく行ってる?」 突然の、話題から逸れた質問に、ぼくは苦笑する。そして、ほんの少し時間をおいて言った。 「別れたよ」 「……そう、なんだ」 「うん。終わらせたんだ。このままじゃ駄目だと思ったから」 「何時別れたの?」 「詩緒が怒って帰った後」 「嘘!!」 「嘘じゃないって。あの後サワコさんから電話があって、それでサワコさん家行って別れてきた」 「それって、あたしのせい?」 「何で詩緒のせいになんの? あー、でも、きっかけは詩緒だから、詩緒のせいって言えば詩緒のせい。でも、気にする事ないよ。決めたのは俺なんだし」 詩緒は責任を感じているようだった。ぼくは風に吹かれて乱れた彼女の長い髪を直してやった。 「サワコさん、あ、これ、その彼女の名前なんだけど、俺、サワコ≠チていう名前をどういう漢字で書くか知らなかったんだ。別れた日に初めて知ったんだよ。幸せに、平和の和に、子供の子で幸和子。ああ、こういう字だったんだって思って、俺、彼女の名前でさえ関心なかったのかなって……。気抜けがしたっていうのかな。可笑しいだろ」 詩緒がぼくの前に来て膝を立て、ぼくを少し見下ろすような状態になった。 思い詰めたような顔をしている。どうしたのだろう。 「嘉月、あたしの名前知ってる?」 「詩緒」 「名字の方だよ。ファミリィネーム」 「そういえば、聞いてなかったな。詩緒が知る必要ないって言ってたんじゃなかった?」 「言えなかったの」 「言えなかった?」 「ちゃんと、あたしを見て欲しかったから。先入観なんてないままで……」 「先入観? 名字が先入観になるの?」 「……あたしの名字ね、早良なの」 ……早良? 早良って…… 「俺と同じじゃん」 「前は藤宮だった。その前は西條。それで今が早良」 詩緒は淡々と話す。 ぼくは混乱した。 「それって……」 「そうだよ。お父さんの名字が西條。お母さんの旧姓が藤宮。離婚してお母さんは復姓したの。あたしもお母さんの旧姓を名乗る事になった。それで、二ヶ月くらい前にあたしは、……お母さんが再婚して名字が早良になった」 「早良」は、この辺ではよくある名字じゃない。むしろ珍しいくらいだ。二ヶ月前に詩緒のお母さんが再婚した? 母が言っていたのを思い出す。 「お父さん、再婚したそうよ」「籍を入れたのは最近みたいだけど」 まさか。 ぼくは顔を上げた。膝を立てていた詩緒はゆっくり腰を下ろした。ぼくの視線もそれを追って下に移動する。 「あたし、嘉月の事知ってたの。嘉月に会う前から、顔も名前も……。嘉月のづはつに濁点。知ってたんだよ」 「それってもしかして……。詩緒のお母さんの再婚相手って……」 「そう……」 心臓の鼓動が大きく打つ。やけに時間の流れがゆっくりと感じられた。 「嘉月のお父さんだよ」 川の水が流れる音。 風に揺れる草木の葉が擦れる音。 鳥や虫の鳴き声。 道路を行き交う車の音。 ぼくの思考が停止する。 一瞬、周囲の音が途切れた。 詩緒のお母さんの再婚相手がぼくの父親……。 有り得ない事ではない。詩緒の新しい父親がぼくの父親。それだけだ。だからって、ぼくには何も問題はないのだから……。 「そう、なんだ」 何とか応えた。しかし、動揺は隠せないだろう。 「最初に会ったとき、小父さん、僕にも君と同じ年の息子がいるんだよって言ったの。別れてから一度も会ってないんだって、ちょっと淋しそうだったな……。その時は小父さんって呼んでたけど、今は誠司さんって呼んでる。今更、お父さんとは呼べないしね。それでね、写真も見せてもらったの。高校の入学式の時の写真」 「あれ見たの!?」 高校の入学式後に、母に正門の横で無理矢理撮らされたやつだ。かなり厭そうな顔をしていたと思う。 「凄い顔してたね。世の中全てが俺の邪魔!みたいな」 詩緒は思い出し笑いをする。 「いいよ。言ってろよ」 「冗談だって。見た瞬間この人カッコいい!って思ったもん」 「そっちの方がよっぽど冗談だよ」 詩緒の顔から笑みが消えていく。 「あたし、嘉月の事聞いて、あたしと同じ境遇の人なんだって思った。しかも同い年でしょ。もしかして、この人ならあたしと同じ事考えてるんじゃないかって、あたしが解ってあげられるんじゃないかって……。うちの高校のテニス部が秦高で練習試合するって聞いた時、もしかしたら嘉月に会えるかも知れないって思ったの。だから、練習試合の応援するって言ってついて行ったんだ。そしたら、本当に会えるんだもん。吃驚しちゃった」 「最初から知ってたんだ……。もしかして、その帰りの電車で会ったのも?」 「待合室の陰に隠れていたんだよね。話したかったから。サッカー部が終わってるのに気付いて急いで行ったのに、嘉月、全然来ないんだもん。凄い心配になってた」 「はは、どおりでね」 ぼくは能登と丸山にテニスコートに連れて行かれたときの事を思い出した。 「じゃあ、友達との約束もなかった訳?」 「約束? ああ、あれは本当だよ。カラオケ行く約束してたんだ。あたしは途中参加で……。ああ、こんな話はどうでも良くて」 「どうでも良くて?」 「似てない? あたしと嘉月。顔とか外見じゃなくて。内面的なもの。性格とは少し違って……」 「悩みとか?」 「そう」 「どうかな。俺には今の詩緒の悩みは解らないから。でも」 「でも?」 「似てるっていうのは解る。何ていうか、誰よりも近い気がする」 「うん。解る。あたしなら解る。嘉月の事、誰よりも解ってあげられる」 「何だよそれ」 ぼくは苦笑する。 「環境が似てるから?」 「それもあるけど……。何よりも、あたしが嘉月の事、誰よりも理解してあげたいって思うから」 「誰よりも……」 ぼくは呟いた。 「あたしもずっとそうだった。友達との付き合いも、上辺だけやり過ごして、本当に言いたい事は言えなかった。でも、嘉月と話してて、少しずつ変わっていくのが自分で解ったの。最初は、嘉月ならあたしの事を解ってくれると勝手に思い込んでた。だから色んな事話せた。嘉月はあたしの話をちゃんと聞いてくれて、自分の考えもちゃんと言ってくれた。それが凄く嬉しかったんだよね。でもさ、あたしが嘉月に期待していた言葉とは全然違う言葉を嘉月に返される事もよくあったんだ。この人なら解ってくれる筈って思ってたのに、何で解ってくれないんだろうって、そのときはそれが腹立たしかったし悲しかった……」 「俺に期待していた言葉?」 「うん。あたしが嘉月に言って欲しかった言葉。あたしがこう言ったら嘉月はこう言うだろうなーって、相手の分まで台詞を用意しちゃってるの。でも、あたしが用意してる台詞は、嘉月の台詞じゃなくてあたしの台詞なんだよね。それに気付いたの。だから、嘉月の言う事、ちゃんとそのまま受け止めるようになった。それが早良嘉月なんだよなって思うようになったんだ」 詩緒はぼくに自分の事を解って欲しかった。解る筈だと思ってたんだ。ぼくたちは同じ境遇で育ったから。でも、ぼくは詩緒の事、何も知らなかった。詩緒が自分で自分の事を話さないと……。 自分の頭の中を閃光が駆け巡った。 鳥肌が立った。 「……俺、解った」 詩緒が微笑む。 「嘉月にあたしの事解って欲しかったら、もっとあたしの事を知ってもらう必要がある。自分で伝えないと駄目なんだよ。待ってるだけじゃ駄目なんだよ。ちゃんと嘉月と向き合って話をして、初めて、あたしは嘉月がどんな考えを持っている人なのかを知る事が出来た。他の人も同じ。相手に自分から伝えないと、自分の事は解ってもらえない」 ぼくは唯、求めるだけだった。自分を理解してくれる人が現れるのを待つだけだった。 「嘉月、家族の話や好きな人の話となると、曖昧にしか話さなかったでしょ? 核心に触れずにうまく話を濁すっていうのかな。全く答えない訳じゃない。訊くとそれなりに話はする。本当は聞いて欲しかったんじゃない? 誰かに解って欲しかったんじゃない? あたし、嘉月の気持ち、解ってあげたい。でも、話してくれないと、嘉月がどんな想いをしているのか、やっぱり解らないんだよ。ねえ、嘉月。あたしたちはもっと自由になれるんだよ。怖がらなくても大丈夫だよ」 「自由になれる……?」 「そう」
全てを覆い隠す白い霧。 複雑に縺れ合った感情の線。 言葉を閉じ込めて凍りついた扉。 疲れていた。 もう、ぼくはとっくに疲れ果てていた。 楽になりたかった。 自由になりたかった。 自分に科した鎖を解いて。 弱いぼく。強くなりたかった。何が起こっても平気なくらいに。 傷つくのが怖かった。嫌われるのが怖かった。拒絶されたくなかった。 でも…… 弱くたっていい。それを認められる強さがあれば。 傷ついたっていい。それを癒す事は出来るのだから。 嫌われたっていい。拒絶されたっていい。 それで終わりじゃない。大切なのは自分がどう思っているか。 今、一筋の光。 視界が開けた。 霧を晴らし、 縺れを解(ほど)き、 氷を溶かす。 ぼくは、此処から出て行ける。
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