「ただいま」 「あら、嘉月(かづき)、お帰りなさい。今日は早いのね」 リヴィングから母が出て来たところだった。 「出かけるの?」 「ええ。デートなの」 にっこりと微笑んだ。無邪気に笑ってみせる母。 母の笑顔は何も変わっていない。 ぼくを初めて独りにした日から。 ぼくは多分、この日から。 独り、だ。 ぼくは、独り、なんだ……。 その笑顔。何も変わらない。 ぼくが何も知らないと思っている、その笑顔。 幼かったぼくは、只怖かったのだ。 母に嫌われる事が。 母が自分の目の前から消え去ってしまう事が。 従順で物分りの良い子供を演じる術を覚えた。 自分の感情を胸の奥に殺して。
『ぼくをひとりにしないで。ずっとぼくのそばにいて』
両親はぼくが六歳のときに離婚。詳細はよく解らない。多分、父親が忙しすぎた。父はあまり家に居ない人だった。たまに家に居るとしても、ぼくとの会話はほとんどなかった。 一度、夜中に両親が喧嘩しているのを見た事がある。二階の自分の部屋で寝ていたぼくは、丁度そのときに目が覚めた。母の荒げた声が、一階から響いてきた。ぼくは、何があったのだろうと不思議に思った。部屋を出て、音を立てないようにそっと階段を下りて、声のする方向へ近づいて行く。声はダイニングキッチンからだった。 ぼくは、ドアを少しだけ開けて中を覗いた。父と母は向かい合わせでダイニングテーブルに着いていた。父は、かなり遅い夕食中。母が一方的に何かを責めている中、それを聞いているのか聞いていないのか、黙々と食事を続けていた。母は額を右手で覆い、何か呟いた。内容は解らない。それがぼくの耳に届いたとしても、当時のぼくには理解出来なかった事かも知れない。 突然、普段無口な父が声を張り上げた。箸をテーブルに叩き付け、勢いよく席を立つ。母の目は大きく見開かれ狼狽し、父を見上げている。 ぼくは、怖くなって急いで自分の部屋に戻った。両親の激しい口論が聞こえてくる。ぼくは素早くベッドに入り、布団を頭まですっぽりと被って、両親の声が聞こえないように両手で耳を塞いだ。しかし、争いの声は途絶えなかった。ぼくは、早く夜が明けることを祈った。明日になれば、何も無かったかのように新しい一日が始まる。または、今の事が夢かも知れない。そう思った。 次の日、ぼくは不安な思いで部屋を出た。父と母がいつもと変わらない事を願いながら……。 まだ七時前だというのに、父は家を出て行くところだった。 「おとうさん」 「ああ、嘉月。お早う」 ぼくは挨拶の代わりに訊いた。 「もうおしごとにいくの? ごはんたべないの?」 「朝御飯はもう食べたんだ」 嘘だ。 「……あ、あのさ、きのうのよる……。お、おかあさんとなにかあったの!?」 「……何かって?」 「なにもないよね? ねえ、なにもなかったんだよね!?」 「……嘉月、お父さんは今から仕事に行かなければならないんだ。じゃあな」 「おとうさん!!」 父は、ぼくの質問から逃げるようにその場を去って行った。 ぼくの目には、今にも涙があふれそうだった。ぼくは涙を流さないように必死に堪えていた。 何かが起こったんだ。何かが……。何かが壊れて行く、そんな感じがしていた。 リヴィングに行くと、母がソファにもたれて額に手を当て、ぼうっとしていた。目が赤く腫れていた。 「……おはよ、おかあさん」 「……ああ、嘉月、おはよう」 母は酷く疲れているようだった。母は、ぼくの存在を確認すると、視線を下に移した。 ぼくは、母に昨夜の事を何も訊く事が出来なかった。本能的に、訊いては駄目だと感じた。 それから一ヵ月後、両親は離婚に至った。 母から父と別々に暮らすのだと聞いたとき、ぼくは最初、父の仕事による一時的なものだと思っていた。「そうじゃないのよ」と、母は忍耐強くぼくに説明した。漸く全てを理解したのは、父が家を出て行く日、両親が他人行儀な気遣いをし合っているときだろう。 「嘉月、いい子にしてるんだぞ。元気でな」 玄関で、ぼくは母と共に父を見送った。正確には、ぼくは父を見送ってはいない。 もう、父は家に帰って来ない。そう思うと、ぼくは父に何を言えば良いのか解らなかった。 「うん。……おとうさんも、げんきでね」 父の顔を見る事が出来なかった。ずっと俯いたままだった。やっと顔を見上げたとき、父は車に乗って出て行くところだった。結局、ぼくは最後まで父の顔を見られなかったのだ。 父は、ぼくと母に家を残して出て行った。 母にとって、そのまま父と暮らしていた家に留まるのは苦痛だったのだろう。家は賃貸に出し、ぼくと母はマンションに引っ越す事にした。別に不満はなかった。最初の一年間だけは。 最初の一年は、母は私用で家を空ける事はなかった。会社の付き合いは、ほとんど断っていたようだ。ぼくは小学校へ入学して、保育園に通っているときよりも帰宅時間が早くなったけれど、すぐに母も帰宅するので淋しくはなかった。 学校で仲の良い友達も出来た。その中でも悟流(さとる)は特別だ。何だか妙に気が合う。今でも変わらず付き合ってるところから、悟流とぼくの気が合うのは確かなようだ。毎日ではないけれど、学校から帰ると、ぼくは悟流とよく遊んだ。プレステしたりキャッチボールしたり、その他色々、小学生がしそうな遊びだ。 ある日、悟流が家に遊びに来たとき、母がいつもより早く帰ってきた。母は、ぼくが小学校の友達を家に連れてきているのを見るのは初めてだったので、凄く嬉しそうだった。 「今日は悟流君も家で御飯食べていったら? おばさんが、悟流君のお母さんにちゃんと電話してあげるから」 悟流は「うん!」と、大きく頷いた。それで、悟流はぼくたち親子と一緒に夕食を取った。いつも二人きりの夕食だから、悟流がいるといつもと全然違う感じがして、楽しくて落ち着かなかった。ぼくと悟流は、何かいたずらをしてそれが成功したかのように、二人で顔を見合わせてはくすくすと笑い、なかなか食事が進まなかった。 漸く食べ終わると、母は「送っていってあげるから、ちょっと待っててね」と悟流に言って、食器を片付けに行った。 母の姿が見えなくなると、悟流はぼくの耳元を小さな両手で覆って、 「かづきのおかあさんって、きれいなんだね」 と、こそこそ話をした。ぼくは、実はそれが秘かな自慢だったので、最高に嬉しかった。「べつにー」と悟流には言ってみせたけれど。 こんな感じで、兎に角、最初の一年は良かったんだ。 一年を過ぎたある日の夜、滅多に長電話をしない母が、携帯電話で長く話し込んでいたのを覚えている。 ぼくは、その頃お気に入りだったミントソーダを飲んでいたので、母の長電話自体は不満に思わなかった。風呂上りや暑い日などに、よく母にミントソーダを作って貰った。細かく砕いた氷の上に母がミントを乗せてくれ、ストライプの入ったストローを挿してくれる。グラスの底から溢れる気泡やグラスの表面に付く水滴がきらきらして、氷の上のミントが宇宙に浮かぶ樹のように見えた。ぼくはストローでくるくる掻き回して、ミントを氷の中に閉じ込めてソーダを飲むのが好きだった。ミントの清涼感が、風呂上りに飲むにはぴったりだと思った。 ミントソーダを飲み終えて、ぼくは毎週楽しみにしているテレビ番組を見ていた。電話を終えた母が目の前にやって来て膝を付き、ぼくに視線を合わせる。 「嘉月、お母さんね、今から出掛けなくちゃいけないんだけど、一人でも大丈夫よね」 それまで、母が夜にぼくを独り家に残して出掛ける事はなかったので、ぼくは驚いた。 「いまから? もうこんなじかんだよ? どこに行くの? おしごとなの?」 「……ええ、仕事なの」 母の表情が一瞬曇るのをぼくは見逃さなかった。仕事で出掛けるのではない、何か別の用事だと思った。 「すぐ……、すぐかえってくるよね?」 「すぐ帰ってくるわ」 母は、ぼくの手を取り、優しく両手で包んだ。 ぼくは玄関まで母を見送りに行った。 「すぐ帰ってくるから。じゃあ、いい子にしててね」 「……行ってらっしゃい」 母は出て行った。 もう帰って来ないような気がした。 独りになりたくなかった。傍にいて欲しかった。 父もそう言って出て行って帰って来なかったんだ。「嘉月、いい子にしてるんだぞ」と言って……。 ぼくはリヴィングに戻り、テレビに集中しようとした。テレビのヴォリュームを上げた。毎週楽しみにしていた動物番組もその日は全然楽しく見れず、ずっと不安は付き纏っていた。母が帰ってくるまでずっと……。 母はその日から、度々何処かへ出かけて行くようになった。ぼくに行き先を告げずに。「ちょっと買い物に……」と言って出かける事もあったのだが、半日かけて買ってきたものが、いつも買ってくるような食料品だとは笑える。何処まで買いに行ったのやら……。 ぼくが高学年になると、母の帰りが遅くなるのは当たり前の事となった。母の仕事場が自宅から近い事もあって、母は夕飯を作りに帰って来ていた。「すぐ戻らなくちゃ行けないの」と言って、作り終えるとまた出て行ってしまうのだが。 会社の終わる時間自体が遅くなったというのは、大いに疑わしい。小学校高学年ともなると、多少は大人の世界も解るってものだろう。ぼくはうすうす感じていたのだ。
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