20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:「クリスマスの約束〜バンコクにて」 作者:司 れん

第1回   プロローグ
本作品『クリスマスの約束〜バンコクにて』は著者の『イサーンを出て』 
を改題、加筆修正したものであります。    

             [プロローグ]



あれからもう何年が過ぎたろうか。
              
 女はマニキュアを塗る手を休め、テレビに映し出されている故郷
の映像に目をやった。
 昨夜、ウボン(ウボンラチャタニー)で起こった殺人事件は、些
細な痴話喧嘩から、女が男を刺し殺したという話である。
 些細なのかどうかは当人にしかワカラナイことなのに、些細な事
と報ずるキャスターが疎ましく思えた。
 ニュース映像の背景は見覚えの在るものであった。
 母親はそれを指差し、我が娘に何か言おうとしているのだが、擦
れた「イサーン訛り」ゆえに、意味が解せないでいた。
 意味も無く苛立ちを覚えた女はリモコンも使わず、テレビのスイ
ッチ、人差し指で憎らしそうに押し切った。

---ナニすんだよ。
---頭が痛いの。

 母と娘の短いやりとりであった。

           ******************

 女の名前はToi(トイ)。

十八の時、故郷のウボン(ウボンラチャタニー)を後にして、バン
コクに出てきた。
 Toiの田舎は、「イサーン地方」と呼ばれるタイ東北部の貧しい地
域の一県で、山河以外何も無いと言ってもよいところである。

「イサーン」はもともと、スコータイ王朝期に隣国と争っていたタイ
国が戦勝を期に、「捕虜」として連れてきたラオス人やビルマ人を、
その地に住まわせて、開拓させたのが始まりとされる。土地を与える
とは名ばかりであり、痩せた土地からの収穫などいくら努力しても、
たかがしれていた。そういう「場所」だから、人々は貧困に喘いでい
た。

 その脈絡は今も続き、働ける年になると男も女もこぞって、バンコ
クを目指した。トイには十歳離れた兄と七つ上の姉が居る。二人とも
ウボンで結婚をし、子をもうけ、家族を作って暮らしているのである
が、子沢山のうえに、親戚縁者の面倒まで見ていかねばならない。
 そんな二人を、トイは可哀相だとか思ったことはない。

 何故なら、それは「イサーン」の地ではありふれたことであったか
らだ。ただ、彼ら二人とも、その昔はバンコクを目指したことがあっ
たということは知っていた。

 トイが高校を首席で卒業し、バンコクの大学に進みたいと申し出た
時、当然のように、両の親は進学に反対した。
 娘が『ウボンの麒麟児』ともて囃されて悪い気はしていなかったの
は事実であるが、現実問題として、大学に行かすだけの経済力が無か
った。
 ウボン県下でも数本の指に入る秀才としてのプライドは、十八の娘
に大いなる反発心を持たせた。

---勝手にするわ、世話にはならない。
 
 家出同然の旅立ちの朝、まだ陽も昇らぬ時間に、一人バス亭に立つ
トイは、(泣くまい)と思えば思うほど、涙が出てきた。
 勝気で負けず嫌いの性格故に、男友達ばかりの高校時代であった。
 そんなであっても、やはり女一人の旅立ちは、不安と恐怖心で押し
潰されそうになった。覚えておこうと思う故郷の風景はいまだ闇に包
まれていて何も見えない。

 東の方角が瑠璃色に薄く染め始めた時、闇の向こうから砂利道を蹴
って走ってくる人影が見えた。

 母親だった。
 涙でくしゃくしゃになった顔に砂埃がへばりついて痛々しかった。
母と娘に言葉は無かった。
 ただ、母親は別れ際に、握り締めた体温が残る千バーツ紙幣を、娘
の手に握らせた。
 自分の家の家計にとって、その金額がどれほどのものかは、トイに
は痛いほどよく分っていたので、背を切る痛みに耐え切れず、バスに
飛び乗った。

 長距離バスの座席の堅さが、これからの自分の行く末を暗示してい
るようで早く眠りにつきたくなった。
 先ほど、母親から手渡された千バーツ紙幣を、Gパンのポケットの奥
に押し込んだ。それを合わせてもせいぜい二千バーツにもならない所
持金であったが、今の自分にとっては「命の絆」であった。

            *******************

---じゃ、行ってくるね。
---気を付けるんだよ。

 夕方七時を過ぎた頃、女は仕事に行くと言って、毎日家を出る。
 母親は、娘が何の仕事をしているのか詳しく知らない。ただ、聞か
されているのは、日本食レストランで、日本人相手の『仕事』をして
いるということだけであった。
 その店が終わる時間は深夜の一時であり、娘の帰りを待つことなく、
先にベッドに入る母親は、あくる朝方隣に眠る娘の寝顔を見つけた時、
娘の帰宅を知るのであった。

 いつも、娘に厳しく言われていた。

---電話してきても、忙しいから電話には出れないからね。

 母親は、もう一つだけ、娘の『仕事』について知っていることがあっ
た。
 それは、職場のオーナーの日本人が、娘に「良くしてくれる」という
ことであった。
 自分が田舎から娘に呼ばれて出てくる時、娘が、母親のために買い揃
えたテレビや、洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が、その日本人の「好意」
で手に入れることが出来たということである。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1397