「もしもし」と由紀子は言った。 「おお、久し振り」 「何の用?」 その時、僕は一瞬言葉に詰まった。一体、何の用なんだろう?今由紀子に電話をして何の意味があるのだろう?一体、それが何になるのだろう? 「元気にしてるのかなって思ってさ」と咄嗟に言った。 「私は元気だよ」と由紀子は言った。「あなたは?」 「まあ、元気ではないけど何とかやってるよ」 「そっか。今は何か仕事しているの?」 「今はファミレスの社員なんだ」 「大変そうね」と由紀子はどうでもよさそうに言った。 「ああ、大変だよ」と僕は言った。しばらく会話が途切れた。僕はその間机の傷跡をじっと見つめていた。部屋はクーラーをつけているせいで肌寒いほどだった。部屋の隅にあるギターはずっと弾かれていないため、申し訳なさそうにほこりをかぶっていた。僕はしばらく考えてみたが、こうしていつまでこんなことをしていても、何の解決にもならないと思った。「あのさ、今度久しぶりに会えないかな?」 「今頃私に会ってどうするの?」 「別に。久しぶりにゆっくり話してみたいだけさ」 由紀子はしばらく考えたみたいだが、やがて「いいよ」と言った。
電話を切ってから部屋の隅にあるスタッキングチェアに座った。もうだいぶ前から使っているから傷も多いし、がたつきもあった。でも僕は何か考え事や、落ち着きたいときはいつもここに座った。そのことについて、昔由紀子がこう言ったのを覚えている。 「自分だけの場所ってことね。でもね、そんな場所なんてあるわけないよ」 僕の頭の中でその言葉をぐるぐる回してみる。でも何にも思いつかない。そりゃ、そうだ。だって僕にはその言葉自体、理解できていないんだから。 僕は久しぶりに昔の二人を思った。忘れるようにしていたのは、忘れたいことがあったからだ。だけど、それはほんの一部のことで、二人の思い出の全てではない。忘れたいのは、最後の方だけだ。思い出そうとすると、いくらでも思い出せた。あれだけ忘れようとして、結果忘れられたと思っていたのに。遠ざけていただけで、一番ちゃんと覚えていたのは僕の方だったようだ。心が締め付けられる。何もしたくなくなる。最後のあれがあるから心が痛くなる。ほら、やっぱりこうなる。あんまりいいことじゃない。わかっていたことだ。僕の心はどんどん沈んでいく。底を知らない。深く、深く意識が潜り込んでいく。辺りが暗くなる。そんな感じだ。そこで僕は、暗くて、静かで、寂しくて、怖いその場所で色んなことを考える。嫌でも考えさせられる。もちろん、実際の場所は部屋の隅にあるスタッキングチェアに座ってだけど。だけどこのときはそんなこと考えない。 そこで僕は聞きたくない色んな声を耳にする。痛みが蘇る。よくないことばかりを思い出す。まあ、こんな風になるから、忘れようとするわけだな。
僕は押入れの奥にある由紀子と写っている写真を手に取った。これを見るのは3年ぶりぐらいだろうか。どこかに旅行に行った時のものだった。風呂上がりだから化粧をしていないので、恥ずかしそうにしている由紀子が写っていた。写真だけは何も変わらずあの日のことを語ってくれた。あの日々は変わってはいなかった。写真の上に一滴、二滴と涙が落ちる。俺はどうしてばかなんだろう、そう思った。あの頃を思い出すと、胸が痛くなるのは、あの頃が幸せだったからだったんだ。
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