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作品名:日本の近未来 作者:佐藤 神

第5回   5

 後ろ髪を惹かれる思いで俊は車を飛ばした。
「いつかこの辺をゆっくりと見て回りたいな」
 石井は顔を赤らめ腹がいっぱいで苦しいのか少し仰け反りながら上機嫌で言う。
「嫌な話ですが、70年ぐらい前に通州事件が起こり、日本軍留守部隊と日本人居留民
が何百人と虐殺された。悲しいところです」
 と俊が思い出したように言う。
「そうか、通州の中国人兵隊を誤爆した報復だとか密約があったとか、あの通県だった
のか」
「あれ、石井さん。何で御存知なんですか?」
「おれの親父は関東軍に配属されこの近くにいたと聞いたことがある」
 車の窓から石井は暗い景色を見詰る。
「そうだったんですか」
 白髪交じりの男も暗い外を見た。

 俊は通県飯店の主が言っていた”揚げパン”を懐かしく思い出していた。
中国日本大使館に引っ越してきた時、子どもの俊はスポーツを何もしていなかった。父
親の孝一は息子を気遣い早朝ジョギングを始めた。そして息子の俊を誘い一緒に走って
いた。
 だが1ヶ月も一緒に走っていたら息子の俊のスピードについて行けず、2人は別々のジョ
ギングコースを走るようになった。

 俊はジョギングの距離を伸ばし、一人で紫禁城近くまで走るようになった。その途中
の大きな公園で早朝、何百人と言う老人が太極拳やカンフーをやっているのを俊は横目
で見ていた。
 老人たちは10人から20人位で一塊になり、ラジカセで曲を流し棒を振り回すグル
ープ、大きな羽根を優雅に舞うグループ。千差万別であり実に賑やかであった。
 その公園の外れに小川の流れる噴水があった、そしてベンチが沢山置いてある。
そのベンチで一息つくのが俊の何時ものパターンであった。休んでいると太極拳を終え
たグループもそのベンチに休みに来た。そして俊と挨拶を交わすようになる。
<<あなたはどこから来たの?>>
<<わたしは日本から来ました。そして日本大使館で暮らしています>>

 日が経つにつれ中国人に対する偏見が徐々に薄れ、俊は開襟したように自ら中国人に
話しかけた。
 そして1年が過ぎようとした時。
「坊や、一緒に揚げパンでも食べないか?」
 長い顎髭を生やした長老が俊に言って微笑んだ。
「はい、ご馳走になります」
 と言って俊は揚げパンと豆乳をもらった。
その日から俊は何となくその老人たちの家族の一員になったみたいな錯角を起こした。
 そして第八中学の天才少年班でも俊の態度が変わってきた。それまでは授業が終われ
ば迎えの車で直ぐに帰宅する俊だったが、隣に座っていた射が教科書を見て悩んでいた
ので俊がその答えを教えてあげた。射は俊を見て大きな声で礼を言った。
 すると後ろに座っていた棟が教科書を持って立ち上がり俊にここが判らないと言う。
俊は参考書名と何ページに書いてあると言う。棟は直ぐに参考書を広げ俊の言うことが
正しいことを確認する。
 そして俊は次から次と10名の質問に答える。その間30分足らずであった。
俊にしてみればクラスメイトが何処で悩んでいるのか、心を読むとその人の考えが手に
取るように分かった。教師が教えるより早く的確に教えることが出来た。だがやり過ぎ
ると怪しまれるので適当にごまかした。

 それでも何ヶ月か過ぎるとクラスの学力が底上げした。第八中学の校長は不審に思い
その原因を探り、俊が補習授業の真似ごとをやっていたのを知った。校長は止めさせる
べきか続けるべきか悩んだ。
 中国共産党からはなりふり構わず優秀な国際人を輩出するように強く言われていた。
そして校長は日本大使館を訪れ、父親の孝一に息子の俊の補習授業の続行を頭を下げて
お願いする。それと俊が将来外国の大学でなく中国の大学に入るように熱望した。

 これらの一連の出来事は全てあの”揚げパン”から始まった。そして少年秋草俊の名
が北京に知られるようになった。
 運転をしながら俊はあの時の思い出に慕っていた。

 そして紫禁城の近くのデイズインフォビドゥンシティホテルの前で日本の5人を降ろ
す。
「ありがとう、俊さん。いい思い出になった」
「また北京に来た時は御案内しますから連絡してください。さようなら」
 5人は酔いが回っているせいかふらつきながら手を振り、俊を見送った。

<じゃ、インターナショナルホテルに行くか、北京では5星の最上級のホテルだ。
格安のデイズインフォビドゥンシティホテルとは比べものにならない。きっと金持ちの
お嬢様さんだろうな>
 ハンドルを握りながら俊は独り言を言う。
そしてインターナショナルホテルの正面ゲートに止めないで横から駐車場に入る。する
とボーイが直ぐに駆けつけて来た。そして公用車のまる外のバックナンバーを見た。

<<お客様、どうぞ正面ゲートに停めて下さい>>
 グレーの制服を着た若いボーイが微笑んだ。
<<いや、わたしはここに泊まっているお客さんに会いに来ただけなので、この辺に停
めさせてください>>
 俊はボーイの顔を見ながら言う。
<<おそれいりますが車のキーをお預かりしてよろしいですか?>>
<<はい、いいですよ>>
<<お客様のお名前をお聞かせください。お帰りの時は正面でボーイにお客様のお名前
を言ってもらえればお車を用意いたします>>
<<分かりました、わたしの名前は秋草俊、日本大使館の者です。よろしく>>
 と言って車のキーをボーイに渡した。
<<お預かりします、秋草様>>

 そして俊は横の出入り口からホテルに入り赤い絨毯を歩いた。豪華な受付には10人
近い垢抜けた女性がてきぱきと働いている。
 俊はその中の一人に目をつける、目が大きく優しそうな受付嬢だった。
<<こんばんは>>
<<いらしゃいませ、お客様>>
 と言ってその女性はにっこりと微笑む。
<<わたしは日本大使館の秋草俊と申します。ここにお泊りの....>>
 俊はその女性に事情を話し宿泊している3人のルームナンバーと名前を告げる。
<<お客様、念のためにお客様の身分証明書か身分を証明する物をお持ちですか?>>
 綺麗な北京語が歌のように俊には聞こえる。俊はちょっと顔を曇らせ内ポケットから
証明書を取り出し受付嬢に見せる。

<<これです>>
 受付嬢は美しい眉を寄せる。
<<確かにその身分証明書はお客様の写真の入った日本国大使館の証明書です。ですが
この”SAMPLE”の意味は?>>
 その女性は顔を近づけて囁き美しい眉を寄せる。一瞬、俊の顔が強張った。
<<申しわけありません、わたしは日本国大使、秋草孝一の息子で秋草俊といいます。
こちらの学生証明書が本物のわたしです>>
 俊は北京大学と書かれた手帳を出し、その手帳の表紙を開いて証明書を見せる。

<<間違いなく北京大学の秋草俊様ですね、北京では偽造身分証明書をお持ちになると
犯罪になります。以後気をつけて下さい>>
 受付嬢は厳しい目で俊を見詰め優しく微笑んだ。
<<秋草様の事情はだいたい理解できます。直ぐに連絡いたします>>
<<ありがとう、あなたがいてよかった>>
<やっぱり”SAMPLE"の文字はまずかったな、親父は大丈夫だと言っていたが。それに
しても偽造の本場で偽造を咎められるとは>
 秋草は一人で苦笑する。


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