高坂は美しい妻と横須賀に住み高校生と中学生の娘がいた。人望があり人当たりもよ くこれから起こる問題にもうまく対処してくれると秋草は思った。
「はい、予定通りです。秋草事務次官」 高坂艦長は原子力空母鳳凰の処女航海が終了して無事に母港に入港できる安堵感から 白い歯が毀れる。
「うん、高坂艦長。無事に入港できそうでよかった。極秘だが5日後に拉致された人た ちの奪回に向かう」 穏やかな秋草の顔が厳しくなった。 「はい、覚悟は出来ています。全国の国民の期待がかかっています」 「よろしく頼む] と言って秋草は高坂艦長の顔を見る。
そして入港前夜、秋草は原子力空母の中から日本のメディアにメッセージを送った。 「みなさん、明日、原子力空母鳳凰が横須賀港に入港します。鳳凰はアメリカからレン タルで借りた空母です。乗組員は海上自衛隊員です。日本国民の生命、財産を守るため 配備されたものです。 けして戦いに備えるためのものではありません」 映像を通した秋草の顔は穏やかに微笑んでいた。
そして空母鳳凰が処女航海を終えて、横須賀港に姿を現すと大よそ10万人の野次馬 が幟や旗を振り歓迎する。
ゆっくりと空母鳳凰は入港する。 「待て、小型漁船が見えた」 艦橋の艦長室から眼下の白波を見ながら秋草が言う。 「非常事態発生、緊急停止させ汽笛を鳴らし続けろ。停めろ、汽笛を鳴らせろ」 高坂艦長は人が変わったように怒鳴り続ける。甲高い汽笛が鳴り続けるが空母のスピ ードは直ぐに落ちなかった。 「漁船が本艦と接触した虞がある、直ぐに救助せよ」 空母鳳凰は蜂の巣を突っついたような大騒ぎになる。直ぐに何百人という乗員が甲板 に飛び出した。 「おーい、みんな、ここだ。漁船が見える。ゴムボートを下ろせ」 直ぐにゴムボートが下ろされた。ゴムゴートから何人かが漁船に飛び移る。 「おーい、無事だ。一人で乗っているが高熱を出している。空母に移すから担架を下ろ してくれ」 そして甲板の乗員が艦橋の艦長室に向かって両手で大きく輪を描いた。
「秋草事務次官、漁船の乗員は無事だったみたいです」 ほっとした表情で高坂艦長が言う。 「うん、よかった。どんな事情にしろ一命を落としていたらこの計画の続行は難しい」 と言って秋草は暫く天を仰いだ。
「秋草事務次官、漁船の乗員は医務室で医官から治療を受けています。漁船には72才 の老人が1人で乗っていて、病気で高熱を出していたそうです」 ゆっくりと高坂艦長が言う。 「そうか、もう一度、甲板から船がないか溺れている人がいないか確認せよ、そして微 速で入港。わたしは医務室にいってからこのことをメディアに報告する」
そして深刻な顔で秋草はカメラを見詰る。 「みなさん、残念ですが横須賀港に入港するとき事故が発生しました。 漁船が一艘、空母鳳凰の前に現れ衝突する直前で退避できました。漁船も乗員も無事で す。漁船は一人で乗っていてその人が高熱を出していました。いま空母鳳凰の医務室で 治療を受けています。何の心配もありません。 船名は横芝第13さざなみ丸、乗員は岩井佐助さんです。後で広報からお伝えします。 原因は漁船の乗員が高熱のため空母の航路に迷い込んだと証言が取れました。 これからは2度とこのようなことが起こらないように最善の注意を払います。この空母 鳳凰は日本国民の生命財産を守るための空母です」 と言って秋草は立ち上がり深々と頭を下げる。
そして何ごともなかったようにゆっくりと空母鳳凰は入港し停泊する。制服の海上自 衛隊員が整列して甲板に姿を現す、すると対岸から津波のような歓声が起こる。 <<ワーッ、ワワワー、ワワワー>>
「うん、歓迎されているようだな。高坂艦長」 「はい、公式発表が無くても国民には拉致返還が分かるのでしょう。これなら2日間の 休息も問題なく全員無事で3日後に再乗艦できます」 笑いながら高坂艦長が言う。 その休息の2日間、秋草は防衛省、首相官邸、アメリカ大使館、中国大使館、ロシア大 使館、韓国大使館に精力的に根回ししていた。 「これで根回しとれいの積み込みが終わり、明日の出港を待つだけだな。お台場のマン ションに帰りたかったがそれも無理だ。今夜は空母鳳凰の甲板で横須賀の夜景でも見な がら酒でも飲むか」 季節は5月の連休が終わり木々が芽吹いて新緑が美しく鮮やかであった。夜でも寒く なく梅雨に入る前の一番いい気候であった。秋草はコンビ二で酒とつまみを買い込み暗 い甲板で月を見ながら酒を飲んだ。
「しばらく日本ともお別れだな」 と秋草が呟いた時だった。 「誰だ?」 懐中電灯で秋草は照らされ、光が眩しいのか秋草はその光りを手で遮った。 「あー、秋草だ。驚かせてすまない、ここで酒を飲んでいた。君は誰だ?」 「はッ、当直の荒井一等海士であります。巡回で見回っていました」 若い隊員は懐中電灯で自分の顔を照らす、その顔は緊張していた。 「ごくろう、荒井一等海士。えーと、ここで酒を飲むとまずいかな?」 「いや、わたしには分かりません」 直立不動で荒井一等海士が言う。
「そうか、では1時間後にわたしは自分の部屋に戻る。もう少し横須賀の風に当たりた い」 「はい、了解しました。これで失礼します」 「うん、よろしく」 踵を返し荒井一等海士の姿は闇にのまれ、靴音だけがいつまでも聞こえた。
その翌日。 「秋草事務次官、全員乗艦しました」 「では、予定通り太平洋を北上しよう」 秋草は艦長室で穏やかな横須賀港を見ながら言う。 「はい」 <<艦長の高坂だ、これから津軽海峡を通り日本海に出る。注視しながら出港>> 甲高い汽笛を鳴らし、空母鳳凰は穏やかな波を滑るように出航する。観音崎を右に見 て浦賀水道を抜け太平洋に出る。そして津軽海峡を目指した。
「秋草事務次官、これから岩手陸中海岸を通過するところです」 高坂艦長は覗いていた双眼鏡を外し秋草を見た。 「そうか、津軽海峡で乗員全員に伝えたいことがある」 前方を見詰たまま厳しい顔で秋草が言う。高坂艦長にもよくない話だと分かった。 「何の話でしょう、秋草事務次官?」 「実はこの原子力空母鳳凰には中性子爆弾が300個装備されている」 「えッ!」 と言ったまま高坂艦長は言葉を呑んだ」
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