そして5人は車を降りて始めてみる通県飯店を見上げる。 「ほー、ここか。そんなに大きくはないが重厚な門構えがいい。君は前にこの店に来た ことがあるのか?」 顎髭を弄りながら大柄な男が横柄に言う。 「いえ、初めてです。インターネットで調べただけです。でも国家一級の調理師がいま す」 「そうですか、それは食べるのが楽しみだ。さあ、入りましょう」
そして俊を先頭に店に入ると建物は旧いが掃除が行き届いているせいか柱が黒光りし ていた。そして席は半分近く埋まっている。店内は少し暗く薄い縹色の壁面に色あせた 古い額が飾ってある。額には特徴のある文字で千客万来と描かれていた。 俊は瞳だけを動かしゆっくりと店内を探る。黒い背広を着た5人を見ると紫紅のパオ を着たふくよかな主がにこやかに笑いながら姿を現し、奥の円卓テーブルに案内する。 席に座るとチャイナ服の絶世の美女が微笑みながらジャスミン茶を出した。ジャスミ ンの香りが男たちの心を和ませる。
「いーや、本場のチャイナ服はいいな。それに凄い美人だ」 顎髭をはやした大柄な男が目尻を下げて嬉しそうに言う。その時、物悲しい衣擦れの ような調べが流れてきた。 「二胡、二胡じゃないか。若いころを思い出す」 大柄な男は何かを思い出したのかしんみりした顔つきになった。
「どうしたんですか? 石井さん」 白髪交じりの男が言う。 「いや、政治家になる前の話だが台湾の台北で悲しい別れがあったんだ」 「えッ、強引な石井さんがですか。みんな信じられないよな」 白髪交じりの男が他の議員の顔を見て言った。 「まったくですね、聞かせてくださいよ。石井さん」 石井は溜息をつきながらゆっくりと4人の顔を見る。 「うん、昔、台北で取引先の社長の奥さんに惚れていたんだ。おれが惚れていることは その社長も知っていた。おれは毎日顔を合わせるのが辛くて日本に帰ることにした。そ して最後の夜、社長の家でおれの送別会をやってくれた。そのとき奥さんが二胡を奏で てくれ、おれの胸の中まで響いてくるような素晴らしい音色だった」 話し終わると石井は照れながら4人を見る。
「いや、いい話だ。石井さんのイメージが変わりますよ」 若い議員が遠慮しがちに微笑みながら言う。 「別にいい話じゃないよ、おれにとっては悲しい話だ」 と言って、石井は苦笑する。それにつられて他の男たちも笑った。
雑談をしていると衝立の陰でタイミングを見計らっていた主がふくよかな笑みを浮か べて豪華なメニューを持って来る。 <<いらしゃいませお客さん、料理はどうしましょう?>> 主は綺麗な北京語でにこやかに言う。 <<えーと、ご主人。わたしは日本から来た5人のお客さんの運転手です。わたしはこ のジャスミン茶で十分です。いま、お客さんの注文を聞きます>> 俊も主に負けない綺麗な北京語で返すと主の目が笑った。
「さあ、何を注文しましょうか?」 メニューを眺めている5人の顔を見ながら俊が言う。 「うん、このフルコースは日本円でいくらになる?」 メニューの表紙の裏に載っていた店の看板フルコースを石井の太い指が指さした。 「うーん、これですか。一人前4万円以上です。5万円は越えませんが」 びっくりした顔で俊は石井を見た。 <ここは洞爺湖サミットか、いい加減にしろ。この木っ端役人> 思わず俊は声に出さず心の中で叫んだ。
「そうか、これを5人前とビールと老酒を頼む。君も普段食べられないような豪華なも のを食べなさい。わたしが奢るから」 と言って石井が笑いながら言う。 「いえ、わたしには運転があるし飲食は大使館から禁じられていますのでこのジャスミ ン茶で十分です」 丁重に俊は断った。 「そうですか、われわれだけ食べて申し訳ないな」 白髪交じりの男が気まずそうに言う。 「いえ、あなた方は日本からのお客さんです。じゃ、注文します」
<<えーと、このフルコースを5人前お願いします>> と言うと主は少し驚いたような顔つきで俊を見た。 <<このフルコースは値段が高いけど?>> <<ええ、この5人は日本の役人です。どうせ交際費で落とすんでしょう>> 俊は笑いながら言う。 <<日本は景気が悪くなったと聞いていましたが、役人は特別なんですね?>> 主も笑いながら言った。 <<困ったものです。それと日本のビールと老酒をお願いします>> <<承りました>> 主は軽く頭を下げて奥に姿を消した。
直ぐにビールとザーサイが円卓に運ばれ男たちは乾杯をする。俊もジャスミン茶を掲 げた。 「あー、うまい。あれ、日本のビールじゃないか」 「ええ、中国のビールは気が抜けていて口に合わないでしょうから日本のビールにしま した」 「そうか、このザーサイ、味に深みがあり美味いな。このテーブルクロスもなかなか凝 っている」 落ち着いた赤いテーブルクロスに見事な金の龍が施されていた。
そして前菜の大皿盛が運ばれる。焼きサザエ、鮑の酒蒸し、白身魚のすり身、むき大 エビ、サラダ....前菜だけでも大変な量である。
「さすがに国家一級の調理師だ、見栄えもいいし味も最高だ」 白髪交じりの男が鮑を美味そうに食べながら言う。 「ああ、4万も出すんだ。今度いつ食べられるか分かったもんじゃない。食うぞー」 5人は笑いながら言う。そして高そうなものから食べだした。
|
|