成田空港。 そして俊が実際に成田空港で税関手続きを終えたのが夕方の5時過ぎであった。 「うん、一人で帰国するとは....」 ロビーを歩いていると急に家族を亡くした悲しみが俊を襲った。生まれてから20年、初めて味会う感情に俊は対応できなかった。足が上がらなくなりふらつきながら壁に手を付いた。 「あのお兄ちゃん泣いていよ?」 「駄目よ、指を指しちゃ。早く来なさい」 反対側を歩いてくる親子連れの顔が涙ではっきり見えなかった。俊は鼻水を垂らしな がら壁に体を横たえる。後ろから来る人たちは俊を避けるように通り過ぎる。 暫くすると空港職員が来て遠巻きに怒鳴る。 「お客さん、熱はありますか、吐き気はしますか、喋れますか?」 「わたしは病人じゃない。元中国大使秋草孝一の息子秋草俊だ。家族を亡くした悲しみ でおかしくなった」 苦しそうに俊は途切れ途切れに言う。
「そうですか、事故に遭った秋草大使の息子さんですか。とりあえず医務室にいきまし ょう」 空港職員に抱きかかえられるように俊は医務室に行く。そして精神安定剤を打たれベ ットに横になった。 「秋草さん、誰かに連絡しますか?」 俊の耳もとで可愛い看護士が言う。 「いや、日本には知り合いがいない。このままでいい」 それでも30分ぐらい横になったら俊の気持ちが落ち着き空港職員に礼を言って医務 室を出る。それでも重い足を引き摺って歩いた。
「ああー、食欲は無いがそばでも食って成田エクスプレスで大船に帰るか。 乗れば2時間で大船に着く予定だ。だが料金の4500円は高いなあ」 ブツブツ言いながら俊は懐かしい日本を見回す。
そして空港第2ビルから真新しい成田エクスプレスに乗る。全て指定席であった。俊 は席に座ると疲れのせいかうとうとしだした。 <<東京、東京....>> 「うーん、東京か。懐かしい響きだ。大船までは後1時間か」 成田エクスプレスの窓から見る東京駅は、疲れたサラリーマンで溢れ返っている。列 車の客が半分近く降りたと思ったらドアの外から新しい客が乗り込んできた。 そして成田エクスプレスは大船に向かって走り出した。 <この辺りが有楽町、新橋か。夜でも明るくとても不景気とは思えない> 俊は列車の窓から珍しそうに外を眺める。だが品川を過ぎるとだんだん淋しくなる。 <しょうがない、また寝るか> そして横浜、戸塚が過ぎて大船に着いた。駅前のコンビ二で俊は懐中電灯を購入す る。大船観音を横目で見て俊は湘南モノレールに乗る。 <あッ、モノレールも新しくなっているな、片瀬山も変わっているだろうな> 俊は懐かしそうな顔でモノレールから眼下の夜景を見る。そして何駅か過ぎると片瀬 山駅に着いた。降りてみると十年前と駅は変りその周辺も見覚えが無かった。 確認しながらゆっくりと片瀬中学校方向の夜道を歩く。ところどころに街灯があり懐 中電灯で夜道を照らす必要はなかった。
そして俊は月明かりが射す2階建ての大きな洋館を見上げた。鉄条網の門が月明かり に鈍く光っている。 徐に俊はカギを取り出した。それは父孝一が残した3本のカギだった。 「うーん、一番大きなカギが門のカギだろう」 カギを差込みひねるとカチャとカギが開いた。 <<ギー、ギギー>> 俊は鉄条網の門をゆっくり開ける。門が錆びついているせいか大きな音がした。そし て俊は門の中を見渡す。 「何だ、あの光るものは?」 雑草の中に光るものが見える、その光は地上から20センチぐらいのところを不規則 に動いている。 「ハクビシンかな」 気に留めることもなく俊は懐中電灯を取り出し点灯させる。 そして庭を横切り洋館の玄関の横の0から9のボタン入力式装置に父親の西暦の誕生日 を打ち込む。 「19600510だったな」
ドアの取っ手を回すとドアが開く。 「うーん、やっと家に着いたな」 その途端、中国での10年間の思い出が公園の砂場で作った砂山が崩れるように消え た。そして10年前の小学3年生の出来事が昨日のように記憶が蘇る。 俊は幼児の時から特殊能力があった。一度覚えたことは二度と忘れられないことと、 それと人の頭を視続けるとその人の考えを読み取ることが出来た。 しかし俊は誰でも同じことが出来ると思っていたので、そのことを人に話していた。 大人は幼児の作り話だと思っていたが、読み取られた人からは言い当たっていたので気 持ち悪がられた。 その話が父親の耳に入り、父親から嘘をついてはいけないと注意を受けた。俊はその 時、このことは人に話してはいけないことだと学んだ。今から考えると懐かしい思い出 である。
「あッ、おれはまた一人ぼっちか。亡くなった家族を忘れようとしても忘れられない」 耐えられない顔で俊は呟き、部屋の電気を点けようとしたが電気は点かなかった。 「そうか電気、水道、電話は止めているのか。玄関の横のボタン入力式装置は警備会社 のバッテリーか」 俊は荷物を置いて、湘南モノレールの片瀬山駅前のコンビ二で飲み物と弁当を買いに 行く。そして懐中電灯を上から吊るして照らしながら埃っぽく、黴臭い部屋で食事をし て湿った布団に包まれた。 眠ろうとしても新たな悲しみが俊を襲う。ついに溜まりに溜まった悲しみに耐え切れ ず声を上げた。しかし暫くすると悲しみが去り先の不安が黒雲のようにわいてきた。そ して俊は奈落の底に突き落とされ眠りについた。
翌日は快晴だった。寝不足の俊は久々に湘南の海を見てから東京に向かう。 そして何故だか霞ヶ関より先に元麻布の中国大使館に行く。 「あの、秋草俊と言いますが大使はいますか?」 白い建物の中国大使館の前の鉄格子に屈強な警備員が3人厳しい顔で立っていた。 「あなたは予約していますか?」 警備員が大きな声で言う。その警備員は日本人か中国人か俊には分からない。 「いえ、予約していません」 「駄目、駄目。大使は忙しいので会えません。お帰りください」 警備員はラフな姿に肩からカバンを提げた俊を一瞥して再び表面を向いた。 「わたしは中国の元日本大使・秋草孝一の息子、秋草俊です。大使に会いたい」 「駄目です、予約してください」 警備員は訝るように俊を見詰る。 「そうですか、中国共産党から大使に会うように言われましたが、あきらめましょう」 と言うと俊は踵を返し六本木に向かって歩き出した。
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