「すいません、俊さん。調子にのってこんなことになって」 横に座っていたのりがしおらしく言う。だが俊はこの3人に何を言っても馬耳東風、 無意味だと思った。 そして俊は北京大学事務局長に事情を話し風紀を乱した非礼を丁重に謝った。
「これからはインターナショナルホテルで過ごしてください。もし退屈しているなら美 しい風景に恵まれ桂林にでもいかれたらどうですか。日本にはない自然があります」 運転しながら俊が言う。 「でも、俊さんは行かないんでしょう?」 のりが窓の外を見ながら言う。 「ええッ、わたしは大使館の仕事で忙しいので行けませんが良心的な旅行会社を紹介し ますよ」 「どうする。メグ、ナナ?」 のりは行く気が無いのか、そのまま外を見ながら呟くように言う。 「あたしは中国の田舎に行くならホテルにいたほうがいいわ」 ナナは単調に言う。 「そうですか、それもいいですね」
その後、3人からは連絡は無かった。パスポートが再発行されて無事に日本へ帰った と俊は安度した。 そして大騒ぎした北京オリンピックは幕を下ろし、いつもの平安が北京を包む。 とは言っても有毒物質メラミンの混入した粉ミルクで北京は大騒ぎだった。 毒入り餃子を凌駕する勢いで食の安全が人民を悩ませる。俊の住んでいる日本大使館 でも中国食材を使用しているので大使館でも話題になる。 しかし俊は気にすることなく中国食材を食べ勉強に勤しんでいた。
その年の秋が深まったころであった、妹の沙耶が通う日本語学校でピアノの発表会が あり父親と母親それと沙耶の3人が車に乗って日本語学校に向かう。俊は留守番で大使 館にいた。 矢来の雨が降り続き北京は雨に煙っていた。俊はインターネットの画面から目を離 し、壁時計を見た。 「うーん、もう日本学校の発表会が終わる頃かな」 と俊が呟いた。 「大変です、俊さん。大使が交通事故に遭われたと警察から電話が入っています」 甲高い職員の声が部屋中に響いた。 「何、何かの間違いじゃないか。いや、電話を代わります」 突然なことに俊の顔から血の気が引いていく。 「秋草孝一日本大使の息子、秋草俊です」 声が少し震えていた。 <<....>> 「ええッ」 俊は電話口で絶句する。
「分かりました。直ぐに病院に行きます」 力なく俊が言う。 「俊さん、大使は無事なんですか?」 「いや、石油輸送タンクローリ―車がセンターラインを越えて大使の車と表面衝突し た。そして石油に引火して爆発を起こした。黒焦げになり性別の判断もつかないと」 虚ろに俊が言った。 「分かりました、わたしは職員全員に連絡を取ります」 「お願いします。死体は北京の同仁病院に運ばれたのでわたしは病院に行ってきます」
翌日。中国新聞の三面に日本大使の車が居眠り運転の石油輸送タンクローリ―車と正 面衝突して炎上、と言うニュースが載っていた。 日本大使館は大使の死体を引き取り、形ばかりの通夜と葬儀を行なう。 「俊さん、本国から指示が来た。副大使のわたしが大使代理になり、俊さんは3日後に 本国に帰ることになった。今日、明日で本国に送る荷物をまとめてくれ。こちらで実家 の鎌倉に送るから」 「そうですか」 「3日後の航空券もここにある。成田行きだ。日本に着いたら霞ヶ関の外務省に顔を出 してくれ、外務省が面倒を見てくれる。北京大学は中退して東大の編入テストを受けて くれと指示もきている」 「東大ですか」 手続きは全て外務省がやると言っている。石油輸送タンクローリ―車との賠償問題は こちらが対応して本国に報告する」 「はい、よろしくお願いします」 覇気が無く別人のような俊が囁くように言う。
そして俊は荷物の整理を始める。本国に持って帰るのは3人の遺骨とパイプ、手鏡と 妹のお気に入りのキィティちゃんのハンカチであった。それ以外はチャリテーを開き俊 は全て処分した。 そして帰国する日、大使館の職員に挨拶をして俊は雨の北京首都国際空港に向かう。 「俊さん、元気を出してください」 運転をしている佐山が言う。 「うん」 辛そうに俊は頷く。 佐山も何て言っていいか分からず無口になった。上空は暗く豪雨が吹きつけている。
北京首都国際空港に着いたら豪雨のためフライトは足止めされていた。みんなバッ クを持ってロビーをうろついている。 「チェッ、ついてないな。3時間待ちかよ」 俊は10時の成田直行便で成田空港へ午後1時に着く予定だった。そして成田エクス プレス号で東京駅まで行く。 そして成田エクスプレスは約1時間かかるので乗り換え時間を考慮しなければ東京駅に は午後2時に着くはずだった。東京駅から霞ヶ関の外務省まで渋滞していても30分あ れば着く。成田空港で荷物受け取り、税関手続きを1時間と見て3時30分に外務省に 入れる予定だった。 それが3時間遅れなら6時30分になる。 「仕方がない、外務省は明日にするか。今日は実家の鎌倉に直行だ」 俊はあきらめ顔で北京首都国際空港の窓から暗い上空を眺めながら呟いた。
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