僕が彼女を見つけたのは、二年前の夏。あれは暑さを避けた夕方のスピード練習を終え、何故か明かりにつられてめずらしく図書館に立ち寄った日だった。 大阪で開催された国公立の陸上競技大会を終え、陸上部は夏休み後半、大半の部員は故郷に帰り、残って大学のグランドで練習するのは地元の部員と、僕だけだった。 親父が海外赴任中で、僕の大学入学とともに、母は実家を親父の甥夫婦に預け、親父の下に居る。だから俺は下宿が自分の居場所だった。 あの日ふと古い物理の本を読みたくなって、閉架に足を踏み入れたのだった。 『一般力学』という難解といわれ絶版になっている本を見つけ、カウンタに向かおうとした時、左目に物陰で動くなにかが飛び込んできた。それは暗いすみでごそごそと蠢いていた。よく見るとシュラフのようだった。 『誰か寝ているやつがいる』 皆からは天然と言われているが、僕は後でゆっくり考えれば不思議だと思う出来事も、一旦は日常の起こりうる出来事として受け止めてしまう。だから不信に思うことなく、普通に声をかけた。 「もうすぐ閉館だよ」 返事は無く、ただ「しっ」という声が聞こえてきた。 僕はその意味を理解したが、それはだめでしょうという常識がめずらしく働いた。 それになんとなくそれは女性の声に感じた。 「いや、見つかるでしょ、普通。だいたい怪しいって」僕はもう一度声をかけた。 「見逃してくれない」 小声で答える声。それは間違いなく女性の声だった。 女性と判り益々捨て置けなく、興味も手伝い、ゆっくり訳を聞いてみたくなった。 「何してるの。住んでるの?」 やはり、僕の思考は全てを受け入れるようにできている。でも一応小声で話すだけの状況把握はしていた。 「そんなとこかな」同じく小さな声で答えが返ってきた。 いや、そんなわけないでしょう。さすがに冷静に考えれば、からかわれていると思えてきた。 館内から閉館の音楽が流れ出し、本を借りる人は、貸し出し手続き早く済ませるようにとアナウンスされた。 「閉めたいんですけど、まだお探しですか」 そんな声とともに司書さんが現れた。僕はとっさに彼の目線からシュラフを遮る位置に移動した。しかしそれがかえって興味を引いてしまった。 「うん?あれは」そういって彼はシュラフに近づき、無造作にファスナーを下ろした。 先ほどの声の主が僕をうらめしそうににらみながら、顔を出した。 司書さんは驚くわけでもなく、淡々と 「あなた、こんなところでふざけてないでください。閉内で寝ているのはかまいませんが、もう閉めますので、早々に片づけてくださいね」そんな言葉を残し戻っていった。 「せっかく見つけたのに」彼女はそういって僕をにらみつけ、シュラフをたたみだした。そしてスポーツバックとたたまれたシュラフを手にもち「昨日はうまくここで過すことができたのに。今日はどうすればいいの」そうつぶやいた。 普通に考えておかしい。が僕はまた違うことを考えた。 「もしかして夏休みで旅行でもしていて野宿?」そんな質問が口から勝手に飛び出した。 「まさか」しばらく間を置いて「私はここの学生よ。っていうかそのはずなんだけど」彼女は悲しげな表情で答えた。
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