陽子は何の変化もない書棚を見つめていた。なにかなつかしさに似た空気を感じつつも、目の前に広がる空間が自分の戻るべき世界のものなのかどうか確証がもてなかった。 光につつまれた瞬間、コウちゃんの声を聞いたような気がした。でもまわりは、いつもの静けさが漂い、陽子以外の人の気配は無かった。陽子が手にする本の最後のページは破り割かれていた。しかしその紙片はどこにも見当たらなかった。無事コウちゃんの手に届いたのだろうか。そんなことを考えながら、今にも光一が本を持って駆け込んで来るのでは無いかという思いに、その場に座り込み、ぼんやりと時を過した。 外は夕日も落ち、差し込む日差しはその姿を消し、窓の外は闇に包まれようとしていた。 陽子はゆっくり立ち上がり、本を書棚に戻し、そっと閉架を出た。 壁に掛けられた時計の針は二十時を示そうとしていた。カウンタに置かれたカレンダは二○○五年九月五日と表示され、最後に光一と来た時と同じ日付であることを示していた。 何人かの顔見知りの学生とすれ違い、南部生協の脇を通り、南門を出た。
五分ほど歩き、西条と表札のかかる下宿の前に立った。窓から明かりが漏れていた。 『コウちゃん?』結局自分の世界に戻ることはできなかったのではないかという思いの中にコウちゃんに会えるかもしれないという期待感のようなものに、おそるおそる玄関の鍵を開け「ただいま」と小さくつぶやいた。 「Yoちゃん?」というなつかしい声とともに姿を現したのは姉の由紀だった。 「お姉ちゃん、どうしたの?」陽子は思わずそう言った。 陽子はYoと呼ぶ姉の姿を目にして、間違い無く戻ってきたんだと思った。コウちゃんではなかったという失望とも違うなにか靄のようなものを心に感じながら。 「Yoちゃん、あなたいったいどこにいっていたの?心配したのよ。 お盆前になっても連絡なくて、様子を見に来たの。そうしたら案の定留守で、陸上部の人に聞いたんだけど、皆さんもずっと会ってないっておっしゃるし、だから私、ここでYoちゃんの帰りを待っていたのよ。 今日帰らなければ捜索願いを出そうかって思っていたのよ。でもよかった、こうしてあなたの元気な姿を見る事が出来たから」 姉の一方的な話に、戻ってきたという現実を感じつつ、コウちゃんの姿が遠ざかっていく寂しさを感じていた。 陽子は何から話せばいいのかわからなかったが、姉に心配をかけたという思いから 「連絡もせず、留守にしてごめんなさい」と謝った。 由紀も「あなたはあいかわらずね。でもまぁ無事な姿を見ることができたからいいわ。とにかく中に入りなさいよ。疲れているみたいね」と陽子をいざなった。 応接に入り陽子の目は自然とキャビネの棚に向かった。当然そこに光一の映った写真立ては置かれてはいない。 由紀は陽子の前にお茶を置き、対面のソファーにゆっくり腰をおろし、 「で、いったいどこにいっていたの?」ときりだした。 陽子はどう説明すればいいのか迷ったが、姉にはそのまま話してみようと思った。 「あのね、お姉ちゃん、信じられないと思うけど」と切り出し、図書館で別の世界に迷い込み、山下光一と出会い、実は彼がその世界では自分自身であり、岐阜の実家に姉の洋服を取りに行ったこと等を続けて話した。
由紀は陽子の話を黙って聞き終え、目を瞑り頭の中を整理しているようだった。「ふぅ」と一息つき 「陽子ちゃんらしいというか、別に話をつくらなくてもいいのよ」と呟いた。 陽子は光一の姉からもらったワンピースがあることに気がつき、バックから取り出し、テーブルにひろげた。 「お姉ちゃん、これを見て」 それを見ると、由紀は「あら、どうして」と驚いた表情で、思い出したように奥の部屋に入っていった。 由紀は、陽子との前からの約束を守ろうと、実家に立ち寄って、同じ服を持ってきていたのだった。 同じワンピースを抱えて戻ってくると、代わる代わる確かめた。確かに見た目は同じ物であった。そして互いの服の裏地を見て納得するように 「どう見ても同じものね」そういって、陽子にも裏地を見せた。 「このワンピースは、私がおかあさんに手ほどきを受けながらはじめて自分で仕立てたものなの。ここ同じまつりかたがしてあるでしょ」 陽子は、だから同じものなんだって、と思いながら 「納得した?」と聞くと、由紀はおっとりとした口調でつぶやいた。 「Yoちゃん、とんでもない体験しちゃったのね」 陽子は、姉の口調に、現実を受け入れるちゃったんだ、なんかコウちゃんと似てるなと思った。
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由紀は、陽子の無事な姿を確認できれば十分と、翌日早々と東京に戻っていった。 名古屋駅で姉を見送った陽子は、『サンセット』に立ち寄った。 マスタは「おや、久しぶり。しばらく見かけなかったね。岐阜に返っていたか」と笑顔で迎えてくれた。 陽子はコウちゃんの世界とどこまで同じなのか知りたくて、マスタに聞いてみた。 「愛明先輩と由美先輩が来たんでしょ?」 マスタは「うん?どうして?由美さんが日本に戻ったなんて聞いてないな。戻れば連絡があるよ」そう言って水の入ったコップを陽子に差し出した。 細かいところでは違うのだと思い、もう少し聞いてみた。 「愛明先輩も来てませんか?」
* グランドではクラブの皆が心配していたと迎えてくれた。梓は陽子の練習方法がまったく変わったことに驚いていた。 「いったいどこの合宿に参加してきたの?全日本の合宿にでも招集されていた?」
陽子はグランドに立っても、何か物足りなさを感じている自分に苛立った。そんな気持ちを男子部員にまじって走ることで紛らした。 頭を上げない我慢するスタート、好んで男子部員と一緒に長い距離のスピード練習に参加し最後まで粘る陽子の変わりように皆が驚いていた。
陽子は予めエントリしてあった九月初旬の全日本学生チャンピオンシップ大会に出場した。 予選の走りはダークホースとしての陽子の存在を関係者に知らしめることになった。 注目の中決勝のスタートラインに並んだ陽子はYou&Iのネックレスを握り締め心を鎮めた。 全日本候補の北迫さんと互角の走りを見せ、十一秒五六で優勝を飾る。 最初の飛び出しこそスタート抜群の北迫さんにはかなわないものの、後半の伸びで追い込み一気に抜き去るレース展開は、多くの関係者の注目を浴びた。 『太陽の女神降臨』陸上競技専門雑誌にはそんな見出しがつけられた。
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戻る瞬間フラッシュバックのように脳裏によぎった映像は間違いなく京西大学のグランドだった。第五十五回総合体育大会を成功させようという立て看板が見えた。そこに見えた二人の光一の姿、そして傍らに立つ女性の姿。それはきっと向こうの世界の陽子に違いないという予感のようなものがあった。
秋の大会も終わり、シーズンオフ、とりあえず京西大学の陸上部を訪ねてみることにした。
「あれ、名和大の山下さんやないの。聞いたよ、あんたすごいねぇ。北迫さんに勝っちゃうなんて。後半置き去りにしたって話やない。夏休み過ぎて、また速ようなったんね」
陽子は入鹿池をバックに移した光一との写真を見せ、一緒に映っている人物がこの大学の生徒かどうか聞いた。 「こんなツーショットの写真とっといて、なんで彼を探さなあかんの?あれ?いきずりの恋ってやつ?」 「ちがうの。ちょっとね」陽子は説明するのが億劫に感じた。 「何か知らんけどなぁ。怪しいわ」そんな風に陽子をからかいながら 「ねえ、知ってる?」近くを通った男子部員をつかまえて聞いてくれた。 「あれ、これ剣道部の清宮だよ?」
「あいつは育ちが違うよ。夏でも袴はいて室内でお遊戯や」 陽子が怪訝な顔をすると 「冗談。いいやつだよ。鞍馬の剣道場尚武館の後継者なんだ」と手を横に振り訂正しながら 「それに妹の詩音ちゃんがまた綺麗でな。彼女は祇園の置屋『清宮』の跡取りで舞妓さんや。かわいいで」
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