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作品名:君がいた夏 〜思い出に君を置く〜 作者:全充

第11回   充実した日々
 Yoはラストで抜かたのがよほど悔しかったのか、競技場から下宿に帰るまで一言も口を利かなかった。
 下宿に帰り着き、汗を流した後、僕に一言だけ声を掛けて眠りに就いた。
「コウちゃん、明日からお願い」
 Yoは東海選手権に向けて期するものがあるのだろうと思い僕は「ああ、わかった」とだけ返事を返すにとどめた。

 翌日から僕はYoとラストまで走りきる筋力をつけるための練習を始めた。
 Yoは二百mスタート付近からのコーナ走を経て直線に出てゴールする練習が今迄で一番長い距離のようだった。
 僕は三百m走の意味を説明した。三百m走は三百を走るのが目的ではなく、二百を全力で走り切るつもりで走り、残り百は腹筋のさらに下の筋力を使って脚を運ぶことを頭に置いて走ることを意識するための練習だ。四百の選手はどう考えているか知らないが、僕の三百の練習はそういう考えでやってきた。
 Yoは長い距離はきらいだといいながらも、ふらふらになりながら僕の後ろを懸命に追いかけてきた。
「足が上がらなくなってからが練習だからね。そこからどれだけ意識して脚を運ぶかがこの練習の意味あるところだから」
 そんな言葉を何度もYoにかけた。
「コウちゃん、よくこんな練習考えるよね。鬼だね」
 ぶつぶついいながらもYoは得るものがあると感じたのか、途中で投げ出すことはなかった。

 それからというもの一日置きに三百m走とコーナー走に別け、交互に実施した。コーナー走では光一がYoの二レーン外を並んで走った。リラックスした走りで、脚の運びを考えながら光一と並んでコーナを抜けることを繰り返す。コーナを抜け直線ではキックしたらすぐに脚の付け根から腿の筋力を使って脚を上げ、ひざから下を伸ばして振り下ろすイメージを描きながら、身体を前へ運ぶことを意識する。
 光一の後姿を見ながら追いかけるように走る三百、並んで走るコーナ走。陽子は苦しさよりも、光一と一緒に走る楽しさを味わっていた。

 ある日、スタート練習をしていた時、Yoが言った。
「コウちゃん、スタートあまり速くないよね」
 確かに、一緒にダッシュしているとほとんど差が無かった。
「コウちゃん五十mダッシュのタイムは?」
「ベストは六秒二」
「あれま、Yoのベストは六秒四ですけど」
「スタートはあまり力使わないようにしてるから。っていうかスタートは苦手だって意識があって、中盤の加速を重視してるからかな。でも五十の加速走は四秒七だよ、Yoは五秒六ぐらいだろ」
「うん、そこで十m近い差がつくってことね」
「そういうこと。加速走なら八mぐらいのハンディがあってもゴールで追いつくことになる」
「そんな勝負はしない」
 僕は冗談で言ったのに、Yoはきっぱり言い切り、いつものように僕のこころを打ち砕く笑顔を見せた。

 雨の日は山の上にある大学のグランドは使えない。農学部前から山の上合宿所脇に出る坂道を使って坂上りダッシュを繰り返す。坂の長さははおよそ二百m。
 つらくなっても身体を起こすことなく、膝を持ち上げることを意識して坂を駆け上がる。走れなくなった時に身体全体で脚を運ぶことを身体に教え込ませるにはもってこいの練習だと僕は思っている。
「やっぱり、コウちゃんは鬼だよ。雨の日ぐらい休めばいいのに」

 気分転換に鉄棒での懸垂も取り入れるように教えた。Yoは逆手で持っていたが、順手にするように注意した。顎を鉄棒の上に持っていくのと、鉄棒の向こう側に頭を入れて首筋を鉄棒に近づけるのを交互に行う、しかもすばやく、ゆっくりでは意味が無い。最初は懸垂苦手と言いながら一週間もするとYoは十回程度なら続けることが可能になった。

 あるとき蹴上がりの話になり、Yoが言った。
「蹴上がりって、結局できないのよね。中学や高校の体育の先生は、力なんかいらない、グランドを十周して疲れ果てた状態でやってみろ。なんていいかげんな教え方しかしてくれないし」
 僕も同じだった。でも大学に入って元体操部だった陸上部の先輩に教えてもらって、本当に力なんていらないことを身を持って体験したことをYoに話した。
「本当タイミングだけなんだよ。教えてやるよ」
「本当に?」半信半疑でYoは鉄棒にぶらさがった。
「身体をスイングさせて」
 Yoは一度下半身を持ち上げ前方に振り出し身体を揺らしはじめる。
「大きく揺れはじめたら、前に進む時、へそを突き出す感じにして、体がスイングの頂点から戻る瞬間のタイミングを覚えるんだ」
 Yoは僕の言う通りに身体を泳がせる。
「これでいい?」
「ああ、それで頂点から降りる瞬間があるだろ」そう言いながら、Yoの身体がすっぅと落ちる瞬間のタイミングを教える。
「ここかな」そう言いながらYoは何度も身体を揺らす。
「そう、今」そんなことを数回繰り返し、Yoが「だいたい判った、ここね」と答える。
「じゃぁ、今度は、そのタイミングで、足首をひょいっと鉄棒に近づける」
「わかった、やってみる。見ていて」Yoは楽しそうに言って、身体をもう一度大きく振り出した。
 僕が教えたとおり、身体が下がる瞬間、Yoは足首を鉄棒に近づける。
 Yoが大きな声で叫ぶ。
「なにこれ、私の身体が勝手に鉄棒にひきつけられちゃったよ!コウちゃん、体育の先生よりすごい!ってか、体育教師はいったい何を教えてきたんだ?」
 Yoは蹴上がりができたのがよほど嬉しかったのか、その日はしばらく鉄棒から離れなかった。


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