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作品名:君がいた夏 〜思い出に君を置く〜 作者:全充

第10回   愛知県選手権
 Yoは愛知県選手権という目標に向かうことで、異なる世界にいるという一切の雑音を遮断しているようだった。
 大会まで数日、しっかり調整しようと、夏休みで閑散としたグランドに、二人は毎日足を運んだ。
 彼女のスタートの反応はすばらしかった。でも上体を起こすのが早すぎると思った。
 彼女には、とにかくスタートして二十mほどは身体を起こさないないで、がまんして地面を押すように、前へ前へ脚を運ぶように伝えた。
 前半の速さに比べ後半は結構スピードが落ちる。スタミナというより、百mを走りきるための筋力不足だと感じた。
 いろいろな筋力を調整するには時間が必要で、それは愛知県選手権が終わってからじっくり教えればいいと思った。

 試合当日、僕はサブトラックでのウォーミングアップにつきあった。Yoは言葉少なに黙々と身体をほぐした。僕が「調子はどう」と話し掛けても、「うん」と肯くだけだった。
 緊張というより集中しているのだと思った。僕とは全然違う、すごい集中力だ。
 僕はスタートにつくまでの緊張感が苦手だった。いつも逃げ出したくなるのだ。どちらかというと集中するのが苦手だ。
 Yoはその点落ち着いているようだった。よほどスタートには自信があるのだろう。

 午前一で行われる女子百mの予選、Yoは最後の十組目。去年の国体代表島本さんと同じ組。スターティングブロックを調整して、軽いダッシュをするYoを見て、島本さんの様子が変わったのがわかった。島本さんは二百を得意としていてスタートはそれほど得意ではない。Yoを見て「ほう!」という顔をした。
「位置について」の声に、Yoはスターティングブロックに足をかける。左足を前に添え、右足を上に跳ね上げ刺激を入れる。一度ゴールを見据え、頭を下げる。
 スタート前の静けさがスタンドを包む。
「ヨーイ」の声に選手の神経が研ぎ澄まされる。
 “ズドン”という響きに、Yoがいち早く反応した。
 島本さんも鋭く飛び出したが、スタブロがすこしずれた。すこしふらついたけれどすぐに立て直しYoを追う。さすがに中間疾走から七十mではスムーズにスピードに乗りYoを追い詰める。
 Yoのスピードががくっと落ち、ラスト十m島本さんがスーッと前に出てそのままゴールした。
 島本さんがYoに向かって何か話しかけた。
 ちょっと島本さんを本気にさせちゃったかなと思った。
 ゲート近くで待つ僕のところにYoが来た。
「島本さんに何言われたの?」僕は気になってYoに聞いた。
「『決勝で会うのを楽しみにしてる』だって」とYoは応えた。
「島本さんに本気出させちゃったからな。本当は軽く流すつもりだったんだろうけどね。島本さんの後半気合入ってたよ」
 Yoのタイムは十一秒九九だった。島本さんは十一秒九一。予選で十一秒台は二人だけだった。これで正式に準決勝進出が認められた。

 準決勝も好調に十一秒九三で走り、決勝進出を決めた。
 まだ筋力が付いてきた訳ではないのでそれほど記録に変化は見られないが、確実に走りは変わってきていた。
 頭を下げ我慢して地面を押し続けるスタート。状態を急に立てないで我慢して地面をしっかり捕らえてスムースな加速に切り替える中間走。スピードに乗ってきたら無理な力を加えないで自然に地面をひっかくように身体を流していく。脚の付け根から腿へかけての筋力で脚を引き上げ振り下ろす。最後はへその下あたりの筋肉がたよりだ。まだ彼女にそこまでは無理で、ラストは極端にスピードが落ちていく。

 決勝では島本さんが四レーン、Yoは隣の五レーン。好調を自覚し集中したYoの顔が凛として美しいと思った。

 決勝のスタートは二人とも互角の反応で飛び出した。
 しかし決勝でのYoのダッシュは予選の時よりさらに速かった。スタート三十m、Yoが一m前に出た。中間疾走でもうまく流れをつかみ、六十m地点で三mものリードを奪う。
 スタンドから驚きに似たどよめきの声が上がる。
「速!」「おおーっ!」
 ラスト二十m、Yoのスピードが落ち、島本さんがYoに迫る。最後五mでYoをとらえるとあっさり抜き去りゴールした。
 掲示板の速報は“十一秒八〇”で止まっていた。島本さんが振り返り、Yoに近寄り肩をたたきスタンドで応援する人達に手を振った。
 Yoのタイムは十一秒八三。自己ベストだった。

 ゴール際スタンドで見守っていた僕のところにYoが近寄りつぶやいた。
「コウちゃん、結構くやしい。勝ったと思ったのに」


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