「由美、退院してから私が伝えるから、愛明には言わないでね」 突然そのように言われて、由美はただあきれるしかなかった。 「あなた達」 祐子は由美から問いただされ、照れ笑いを浮かべながら 「戸隠に行った時よ」と答えた。 「まったく、あっけらかんと。でも、まあ、おめでとうと言うしか無いわよね」 しかし、祐子は暗い顔で心の内を語った。 「でも私の病気がこのまま直らなかったら、無理よね」 いつになく弱気な祐子だった。 「何を言っているの、早く治して、夏にはモスクワに行くんでしょ」 その時は祐子の戯言と聞きながし、早い回復を祈るしかなかった。
病室を出て廊下を歩いていると、思いがけず、看護婦姿の恵さんを見かけ声をかけた。私の従姉だ。 「恵さん、この病院だったんですか。何度か来てるんですけど、気がつきませんでした」 「あら、由美ちゃん。久しぶりね。誰かのお見舞い?大学は東山公園の向こうよね」 「はい。友達が、ここの看護学生なんですけど、入院しちゃって」 「お友達の看護学生?それってもしかして森本さん?」 「ええ、恵さんご存知なんですか?」 「入院している看護学生といえばね。そうなの由美ちゃんのお友達か。早く良くなるといいわね」 その時はそんな話をして別れ、私は病院を後にした。
そして、祐子から打ち明けられたのは、祐子の様態に変化が無いまま、年が明け、春の息吹きを感じはじめた頃だった。 「先生が言うにはね、この娘が私を守っているのかもしれないって」 やわらかな日差しに、春が近いことを感じ、東山公園の桜のつぼみを見ながら祐子を訪ねると、相変わらずの、ほんわかとした表情で、何でも無いことのように祐子が話し始めた。 「そういえば、最近祐子顔色いいもんね。よかったね。元気な子を産んでね」 私も普通に受け答えをした。でも祐子の伝えたかったのはそういうことでは無かった。 「この娘を産むということは、私の身体の内のウィルスを押え込んでくれるものがいなくなるっていうことなの」祐子がつぶやいた。 私は最初その本当の意味が理解できなかったが、すぐにそのことに気がつき愕然とした。そんな、この娘が生まれた後あなたは? そして祐子は続けた。 「私はこの娘(こ)を絶対にこの世界に迎え入れてあげたい」 そんなことよりあなたはどうするのよ。でもそんな言葉は口にできなかった。始めて見る祐子のすがるような眼差し。 「私のことは、もう覚悟している。ただね、そうなったら、愛明はどうすればいいの。愛明はまだ何も知らないの。愛明にそんな負担をかけたくない。でもこの娘は...」 祐子はそこで言葉をつまらせ、しばらく窓の外に視線を外し、やがてつぶやいた。 「先生は『人はそれぞれ神に守られているんだよ』って」
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恵さんが流産したというのは母親から聞かされていた。しかしそれが原因で子供を産めなくなっていたというのは知らなかった。そして恵さんが祐子の想いを受け止めてくれることになるとは思いもよらなかった。
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祐子は真理をこの世界に送り出し、愛明の選考会を見届け、帰らぬ人となった。 祐子は真理という名前についてこう教えてくれた。 「愛明ってねphilosophyの気持ちがこもった名前なんだって。哲学だけじゃなくて、語源には愛知という意味もあるんだって。そして真理(しんり)を意味することもあるの。でね、この娘(こ)は真理。愛明に込められた意味を受け継ぐの」
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