四月、日本では春の息吹きとともに、陸上競技もロードレース中心から、トラック、フィールドに舞台を移す。四月末からは各地を転戦するサーキットも始まる。 ヨーロッパでは室内競技も一段落して、四月には多くのロードレースが開催される。
『裕さん、踏み切り脚をやってしまいました。ジャンプの後、痛みで歩けません。医者は腱鞘炎だろうって。何やってるんだろう』
そんな悲痛ともあっけらかんとも思えるメールが裕一のもとに届いた。
やはり春には日本に戻るように伝えるべきだったと思ったが、とにかく真理の様子が気になり、由美さんに電話を入れ、真理を呼び出してもらう。
「跳べるには跳べるんだけど、しばらく立ち上がれないくらい痛いの」 「医者は腱鞘炎だって言っているの?骨折とかはしてないんだね?」 「うん、おそらくそうだろうって。四月に暖かいからと思って、外で跳びはじめたのが原因みたい。何やってるんだろうね、大事な年の春先に」 真理は裕一の声を聞いたことで、それまで我慢していた感情を押さえられなくなり、それ以上会話にならなかった。
しばらくの沈黙の後、裕一は 「意地をはってないで、戻ってきたら」と切り出した。
真理からの返事は無かった。考え込んでいるようであった。そして再び真理の声が聞こえてきた。 「戻ったら、また裕さんに頼ることになるね」 「練習では頼ればいいさ、試合は独りかもしれないけど」 真理の安堵した様子が伝わってきた。 「日本選手権まで一ヶ月しかないけど、跳べるようになるかな」 いつもの真理の調子に戻り、裕一も少し安心した。
「おれ、前から思っていたんだけど、高跳びってどうして低いバーから順に跳ぶのさ?」 裕一は昔から抱いていた疑問を口にした。 「どうしてって、そうね」 真理は考えこんでいた。 「だって幅跳びや三段跳びは最初から思いっきり最高記録を狙うじゃない。真理もいつも言ってるじゃない、なるべく少ない跳躍回数で試合を進めたいって」 「そうね、自己記録に挑むのはだいたい六回目ぐらいの跳躍になるのが理想だけど」 「だろ、一回目から最高の高さに挑めばいいじゃない。三回もチャンスがあるんだぜ」 「裕さんなに考えてるの?」 「だから、日本選手権は最後までパスすればいいんだよ。うまくすれば一m八十七か九十あたりで決まると思うんだ」 「その高さなら三回あればなんとかなるかもしれない。元気なときなら自信はあるよ。ただ、一回目に跳べないときついかな、脚の痛みが影響するかも。でもそうだね、裕さんそうだよ、九十跳べばなんとかなるよね。後は脚しだいだ」 「大丈夫、おれがテーピングで固定して送り出してやるよ。昔から得意なんだ」 「本当? テーピングすれば少しは痛みが押さえられるかな。かえって外側に無理な力がかからなくていいかな」 再び真理が考え込んでいる様子が伝わってきた。そして真理の元気な声が返ってきた。 「裕さん、明日の飛行機で日本に帰るよ。帰ったら走り込む。走る時は全然痛まないの。裕さんまた付き合ってね」 「ああ、空港から到着時間を連絡してよ、成田に迎えに行く」
元気を取り戻した真理の声に裕一は安堵するとともに、嬉しさがこみ上げてくる自分を感じていた。
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