翌朝、織田フィールドに真理と裕一が並んで走る姿があった。 ウォーミングアップを済まし、軽く百mを流して走る。 ゆっくり動きを確認しながら走り、スタート地点まで歩いて戻ってまた走り出す、その繰り返しを五本。 身体を慣らすための準備運動だが、ひさしぶりの裕一には連続しての走りは無理と思い一本置きに走った。 休んでいるとき真理の走りを見ていたが、確かにスピードが出る走りではない。 「真理さん走るフォームがかたいというか、走り慣れてないね。親父の言うとおり走り込みが足りないんだよ。ただ走ればいいってものでもないけど」 「走っているだけじゃだめなの?」 きちんとした足の運び、腕振りのトレーニングを取り入れることを薦め、実演する。 裕一は中学時代愛明の薦めで、身体能力を高めるべく陸上競技のトレーニングを取り入れ、百十mハードルを得意としていた。 その時の練習で短距離走の基本知識は身に着けている。
裕一も仕事は基本的に午後からということもあり、当面真理のトレーニングにつきあって、自分も走ってみようと思った。 真理も跳ぶのは封印して、二ヶ月間徹底的に走った。
こうして夏も終わりを告げる八月末、二ヶ月間のトレーニングの成果を試すべく都民大会の百mに挑戦することにした。
驚くことに真理は予選を十一秒九一で駆け抜けた。 タイムを聞いてはしゃぐ真理。 裕一にしてみればそれぐらい当然という自信はあった。 「基本の走りを二ヶ月もみっちり行えば、身体が覚え込むんだよ」 真理ならそれぐらいで走れて不思議ではない。もともとトレーニングを続けきた均整の取れた身体なのだから。 「私にも短距離の素質あるのかな」 真理にしてみれば百mを十一秒台で走るなんて考えたことも無い出来事だった。 「百を専門に練習すればもしかしたら十一秒前半ぐらいは行くかも。でもそのスピードを高跳びの跳躍に結び付ければ頭上三十cmの抜きだって不可能じゃないかもね。そしたら二m五だよ。世界を狙えるよ」 裕一は真理なら本当にそれぐらいの可能性があるように思った。 おそらく以前の助走は跳躍のリズムをとるだけのためのものだったのだろう。 今は少しスピードを利用して跳ぶようになったが、さらにスピードを生かした跳躍ができればもっと高さが出る。 今日のような走りをうまく助走に結び付けることができれば...裕一は他人事ながら血が騒ぐのを感じた。 後は遠心力を如何に垂直方向の力に切り替えるか。 「世界?」 真理はそこまでは考えていなかった。 「でも、うまく踏み切ることができるかな。ここ二ヶ月は走ることしかやっていない」 遠心力を利用した跳躍は裕一が大学時代に考え出したブロード攻撃のジャンプに似ていると思っていた。 ブロードはセンターが対角に走り込んで横にスライドしながら相手のブロックを巧みにかわしスパイクする攻撃だ。大学時代裕一は高さを得るために遠心力を利用する方式を採用し、一時話題にもなった。 身体を円弧の中心方向に傾けてスピードをつけ踏み切る際に身体を起こし上方向に引っ張り上げる。回り込みのスピードをつければそれだけ高く跳ぶことができ、さらにネット際を横方向にスライドさせることも可能だった。 真理は裕一の説明を聞きなんとなく理解したが、踏み切るリズムが今までと全然違ってくると思った。
真理はそれ以上考えられなくなり、裕一の百mの結果に話題を向けた。 「そういえば、裕さんも十一秒三一、思ったより走れたじゃない」 「だね、真理さんの結果に刺激受けて結構走れた。僕はこれで終わりだけど、真理さんはどうする?決勝走る?せっかくだから走ってみたら」
さすがに決勝は記録を意識してスタートは出遅れ、後半の走りも固く十二秒を切ることはできなかった。 「固くなったね」 ゴールして呼吸を整えている時に裕一が声を掛けた。 「もう一度十一秒台って考えたらスタートで力が入って、ぐらついたからフライング取られるって思った瞬間にスタートの合図が鳴って、出遅れちゃった。後は覚えてない、なんか予選と違ってすごく力んだ走りになっちゃった」 真理はショートスプリントは難しいと思った。自分の自由にできないスタートの緊張感は高跳びでは感じたことの無い、何とも表現できないものだった。 「スタート前の緊張感は無かった?俺なんか何度逃げだしたいと思ったことか。今日も自分の前の組のスタートを見ながらやっぱり止めようかなんて考えていた。でもスタートラインに立って、またこの緊張感に戻って来たって懐かしく感じたよ」
真理はしばらく考え込んで、決意したように語った。 「横浜国際はキャンセルして助走スピードを生かした踏み切りを確実なものにして国体に出ることにする。祐さん悪いけどそれまで付き合ってくれない?」 「そうだね、横浜国際に合せて調整したら中途半端だし、未完成のまま出ても得るものないよね。いいよ、うぅん、なんか自分のことのようにわくわくしてきたな」
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