弥助は、言葉を発する余裕も無く、緊張した面持ちで目の前の狐を凝視している。狐は隠密装束に身を固め、弥助の出方を警戒しているような構えを取っていた。
(6) 角左衛門屋敷に国家老・斉藤頼母がお忍びで訪れたのはそれから一月後のことである。頼母は供侍に扮した弥助と女中姿のお富を従えてやってきた。それを迎えた角左衛門の脇には八重と尾由がいる。驚いたのは弥助である。 角左衛門が丁重に頼母と挨拶を交わしている間中、弥助は隣のお富と向かいの尾由を目に穴の開くほどに見比べている。二人は全く同一人物に見えるのだ。先般、弥助がお富と見たのは尾由である。弥助の様子を見てお富と尾由はクスクスと笑っていた。 上座に据えられた頼母は、落ち着かない様子で、何から話を切り出してよいのか迷っているようである。角左衛門は、八重と尾由を引き下がらせ、神妙に控えていた。 「今日伺ったのは他でもない。藩財政が逼迫し、このままでは士分の俸禄も支払えぬ。そこで、年貢をこれまでの倍に上げることに致した。貴殿の了承を得たいのだが」 「倍とは無体なことをおっしゃる。押し付ければ一揆になるは必定、幕府に上訴されれば大事に至ろう。頼母殿とて無事では済まぬと思うが」 「庄屋を務めるそなたの意見としては尤もじゃが、他に手段が無ければ致し方ない。農民が一揆を起こせば捕縛せねばならぬ、そうなれば庄屋であるそなたも一揆を唆した罪で処断されよう。たとえ制止したとしても一揆が起これば責任は負わねばならぬ。それをまぬかれる為のそなたの唯一つの道は拙者の命に従って行動することじゃ。さすれば一揆が起きても罪は問われまい。そのことは老中・但馬守殿がわれ等に約束されておる。ここまで明かした以上は、そなたはわれ等と行動をともにせねばなるまい。存念を聞かせてもらいたいものじゃ」 頼母は言い終わると額の汗を拭いている。よほどに意を決したことであったらしい。但馬守の名を出したことは自らが幕府と通じていることを明かしたも同然であるから、角左衛門が味方であるとわかっていなければ出来ないことである。しかし、頼母にはその確信が無い。そこで、一揆が起これば庄屋である角左衛門も処断せねばならぬと脅しながら、自分たちに従っておれば一揆が起きても罪は免れると従順を求めたのであろう。 「「頼母殿の仰せは庄屋である拙者に一揆を唆せよと言っておられるとしか聞こえぬ。一揆が死罪であることを承知の上でのご発言は、領民を守るべき立場に居られる国家老の言葉とは思える。ましてや、一揆の責任を逃れようとの算段が見られるのはまことに遺憾。その上、老中・但馬守殿が一揆を事前に了承されているがごときご発言はもってのほかでござろう。公儀に聞こえでもすれば貴殿の首は刎ねられましょう。何事も軽々に口外なさらぬが賢明と存ずるが」 角左衛門は頼母を押さえ込むように話した。弥助は頼母が但馬守の名を挙げたことに驚愕し両手を固く握り締めている。お富は唖然としたような顔だった。頼母の命脈はこれで切れたと思ってよい。それに気付いていないのか頼母は平然としていた。 「但馬守のことはここだけの話じゃ。おぬしも幕府隠密を勤め居るのなら承知のことではないか。ところで、この屋敷に旅役者が投宿していると聞き及んでいるが、身元は確かなのか」 頼母は角左衛門に突っ込まれて顔をしかめると、反撃するように旅役者のことを持ち出した。このとき、お富が緊張する。 「旅役者のことなら安心されたい、彼等は狐でござる。われ等の仲間と心得られていい」 弥助が頼母の詮索に止めをさすように言った。弥助はすでに頼母を排除する思いを抱いているらしい。弥助がお富に目配せすると、お富は口笛を吹いた。すると狐が現われる。 「頼母殿を案内せい」 弥助の口調は厳しい。狼狽する頼母を狐たちが抱え込んで運び去る。それは瞬間の出来事であった。
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