「お富を追っていたのだ。狐を捕まえて、お富とともに旅籠に帰るつもりでいた。そうしなければ、清兵衛さんに迷惑がかかるし、こちらの素性もばれるやも知れぬとおもってのう。だが、帰ってくると、清兵衛さんが、隠密の嫌疑で捕縛される直前に逃亡したと聞いた。まさかであった、彼が里隠れであったとは」 弥助は、不覚だったと反省していた。 「尾由に会われますか」 角左衛門は、話題を変えるように言った。 屋敷の外は秋の夕暮れ時で、庭のすすきは銀色の穂を風に揺らせ、西には茜の空が広がってたなびく雲を染めていた。 「尾由と言ったな、お富のことを。旅役者の芸名にしておるのか」 弥助が突っ込んだ。 「わたしは、尾由としか聞いていませんが」 角左衛門は、とぼけたように答えている。 「旅役者は何人いるのだ、まさか、狐六人衆じゃないだろうな」 弥助は、角左衛門の顔を覗き込むように言った。その目は、角左衛門が何かを隠しているという疑いを浮かべている。 このとき、中庭の踏石を渡って、この部屋に近づいて来る女の姿が夕日の中に浮かぶ。弥助はそれを目ざとく見つけた。 「誰か来るぞ、女だ」 角左衛門は、すでに尾由だと知っている。 「尾由が来ます」 角左衛門は庭の夕日に浮かぶ尾由の姿を見ていた。紺の袴に黒格子が斜めに入った白地の稽古着を身につけ、右手に木刀を提げた女が、男髷も凛々しく近づいて来ると、角左衛門に会釈した。右手に木刀を提げているのは戦意のない証拠だった。 「尾由、客人がお前を訪ねて来られた」 角左衛門が、隣に座っている弥助を見て言った。 「左様で、どなたでしょうか」 尾由といわれた若武者姿の女は、まじまじと弥助を見た。 「お富ではないか、お富であろうが」 弥助は、半信半疑であったが、お富だという見当をつけている。 「さて、お富とはどなたのことで」 尾由は、丁寧に問い返しながら縁側に腰を下ろした。 「わたしの目に狂いはないはずだが」 「尾由という旅役者ですよ」 角左衛門は、弥助の疑念を打ち払うように言った。 「初めておめもじします。尾由です」 「お富ではないか」 弥助はなお執拗に疑った。 「調べられますか、お富であるかないか。あなたなら、お富の体臭を知っていなさるはず。尾由を抱かれて、お確かめになりますか」 角左衛門が、意外なことを言った。この突然の話しに、弥助はたじろいだ。尾由は、角左衛門の左斜め後ろに座りながら笑っていた。このとき床下にはお富が、角左衛門の右斜め後ろにあたる位置に潜んでいたのである。 「それほどせずとも、お富ではないと言われることを信じよう」 弥助は、遂にあきらめた。角左衛門の言葉を信じないで、お富改めをやれば、何かよからぬことが起きる予感がしたのである。 角左衛門は、弥助を幕府方の隠密と承知の上で付き合っている。弥助が隠密であることを角左衛門に告げたのは清兵衛であった。弥助は自分の身分を隠し、渡世人だと偽っていたが、清兵衛宿の女中に扮していたお富が、弥助の素性を掴んで清兵衛に知らせていたのである。弥助が、お富を隠密だと知ったのは狐狩りの山中でのことだった。弥助は、山中で忽然と消えたお富とその仲間の狐を追って探索したが、その行方は知れないままに、この里に戻ってきたのである。 そのお富がいま目の前に居る。弥助はその確信を持ったが、角左衛門が彼の前に壁のように立ちふさがっている。何故だ。弥助は、角左衛門の真意を計りかねている。この屋敷に、狐六人衆が投宿していることも解せないことだった。しかし、それを角左衛門に問い質すこともはばかられた。そのとき、 「明日は、此処をお発ちになるか」 角左衛門が、暗に出立を促すように言った。角左衛門の言葉は丁寧であったが、その眼光は鋭く、有無を言わせない気迫を漂わせている。弥助は出立を承知するしかないと思った。 「狐六人衆に弥助がよろしくと言っていたとお伝えくだされ。あの山での不覚をお返しするのを愉しみにしていると」 弥助は、これ以上此処に投宿しても何も探り出せないだろうと、この際は引き下がる決心をする。
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