二十五日未明頃より市内各所に暴民が聚合徘徊して非常に危険な状態でありました。埠頭到着後人々の報告によって判明した事ですが、埠頭へ集合の途中に於いて暴民のために荷物を剥奪されたものも多数おりました。当日は勿論埠頭には民主連盟員の姿も見えず、亦一隻の引揚船も見当たらず邦人の総ては絶望的な引揚条件に暗然としました。前夜の状況急変によって当日の引揚予定者以外のもの、即ち重病人、残留を希望していたもの及び労工、看護婦、技術者要員として残留を強制させられていたもの等が集合して、その数は予想を突破して約三千名前後となってしまいました。 埠頭集合場は全くの混乱状態でありましたが、就中悲惨であったのは邦人の避難的な引揚に伴って不可避的に搬出させられて来た重病人の人々でありまして、埠頭集合の途中又は、乗船前に死亡したものもありました。勿論これら重病人の人々にとっては死は所詮時間の問題ではありましたが、故山を一葦帯水に望んで空しく異郷に眠った事に対しては一縷の涙を禁じ得ないのであります。 私は集合場の混乱を収拾するために積極的に全般の指揮を取り、各県の代表団の集合を求め、夫々必要な処置について努力するよう要請しました。各県代表団中遭難船に乗った福岡県代表団には貴兄も存知の米山源作君(家族共全員死亡)小田部繁実氏(鹿毛正則君の家族も含めて十三名全員死亡)金崎達雄君(家族共全員死亡)及び海路引揚の手段について私と貴兄とに対立していた神崎丙午氏(死亡)等がおりました。 私以下代表団は船舶の呼集に努力した結果、帆船十隻、機械船一隻計十一隻を呼集し得ました。次に船賃の交渉を開始しましたが、船主は八路票は無効であり、鮮銀券のみを収受すると主張し、私達は八路票の無効は止むを得ないとしても日銀券と満州国幣の有効を主張しましたが当時の条件下では状況は私達に不利でありました。 前記の如く全市に拡大の兆しある暴民の襲来も予想され、一刻も早く危険な状態にある埠頭集合場から避難しようとする焦燥感もあり約二時間に亘る接渉の結果船賃は北鮮三十八度線潮浦まで一人当たり九百六十円と決定し、もし船賃に不足を生じた場合には携行荷物を分与するという条件で規約しました。
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