病院に着くと、ロックチェーンもせずに、あの場所まで走った。毎週水曜、あの日から行けば必ず彼女がいた。僕が近づくとこっちが声をかける前になぜか気づいてくれた。何でわかるの?って聞くと、彼女は決まってこう言う。
「だってそんな走って来るの大野さんぐらいだから」
そう、彼女は足音で見分けていたんだ。僕が彼女を姿を見つけるたびついつい走り出していることなんて見えなくてもバレバレだったと言うわけだ。 今日もどうかいて欲しい。そして、この数週間のことを謝りたい。僕の心は決まっていた。真理子とは別れる。今の自分には恋人なんて必要ないと思った。やりたいことはひとつ。千鶴の友達でいたい。誰よりも彼女の近い存在になりたかった。
ベンチが見えるとそこにいたのは千鶴ではなく、まったく知らない老夫婦だった。診察の帰りだろうか。僕の焦る気持ちとは裏腹にそこだけ穏やかに時間が流れてるようだった。
「…いない」
僕は呆然とするしかなかった。僕は彼女の名前以外何も知らなかったのだ。彼女と話をする時、決まって話題は僕のこと。彼女はそれを楽しそうに聞いては、話を広げるので彼女の話を聞く暇などなかった。というより、彼女は自分の話をするのを避けていたような気がする。そして僕も坂窓先生から彼女が学生だった頃の話を聞いていたので、彼女のことを知った気でいた。だけど実際はどうだろう。僕は彼女の電話番号も住所も親も友達も知らない。それは彼女も同じだった。お互いにこの場所に来ることだけが僕らが会う方法だったのに、僕は自らそれを捨ててしまったんだ。彼女はどんな気持ちであのトンネルを通ったんだろう。どんな気持ちで武達に声をかけたんだろう。どんな気持ちでありがとうと言ったのだろう。僕が自分から彼女に会うことを望んだのに、なんであんな簡単にあきらめたんだ。頭の中でもぉ会えないかもしれない恐怖と自分のした過ちの大きさに押しつぶされそうだった。
コンッ
その時、僕の足首に固いモノがぶつかってきた。
「すみません」
透き通るその声を聞いて僕は振り返った。立っていたのは千鶴だった。
「千鶴!」 「大野…さん?どうしてここに?」 「ごめんっほんとにゴメン!!俺っ」 「あっ大丈夫ですよ。わかってますから。私のことは気にしないで下さい。彼女の方が優先なのは当たり前ですよ。わざわざ謝りに来てくれたんですか?」
僕は声が出なくなった。彼女は淡々と話しているけど、明らかにあせっているようだった。何も言わない僕に彼女は続けて言った。
「ありがとうございます。でも、私、気にしてないですし、心配しなくてもいいですよ」 「良くないだろ?!あいつ…来たんだよな?千鶴ちゃんに会いに。ホントにゴメン。全部俺が悪いのに千鶴ちゃんに迷惑かけて」 「知ってるんですか…。でもかわいい彼女じゃないですか。大野さんのこと本当に好きなんだってわかりました。私とはもう会うべきじゃないです。大野さんが親切で会いに来てくれるのはわかるけど彼女だったら、やっぱり嫌だと思う」
彼女の言いたいことはわかった。それでも僕の気持ちは変わらなかった。
「…俺もどうすべきかわかったんだ」 「どうすべきか…?」 「あいつとは別れる。で、千鶴ちゃんが幸せになるまで彼女は作らない!!」 「ええ??何言ってるんですか?!」 「あいつとはたぶん、前からもぉ終わってたんだ。でも始めて真面目になろうって決めた証みたいなもんだったから無理矢理足掻こうとしてた…でももう終わり!」 「でも、なんで私なんですか?」 「俺、初めてなんだよ、こんなに人に執着したの。千鶴ちゃんを笑わせようって必死で思ってた。千鶴ちゃんの夢って何?」 「どうしたんですか?いきなり…」
千鶴は困ったように笑った。
「いいから!言って」 「ええ〜と…何だろ」 「何でもいいよ。つまんないことでも、あほなことでも」
千鶴は顔を両手で覆うと、小さな声で言った。
「ほんとにつまらなくてもいいですか」 「もちろん!」 「お嫁さんになって、いいお母さんになりたいんです」
一瞬ちょっと固まってしまった僕。別につまらないわけでも変だと思ったわけでもない。ただ千鶴がそういうことを言うとは思わなかった。
「お嫁さん!!いいじゃんか」 「本当ですか?」 「うんうん!そっか…嫁…っよし!!決めた」 「?何をですか」 「俺が千鶴ちゃんの素敵な結婚相手を探してやるよ!んで千鶴ちゃんが強くなって先生に会うまで、俺は彼女なんていらない!!」 「だからさっきからどうしてそうなるんですか???」 「俺じゃ頼りないかな?でも絶対もうこんなことしないって誓うんで、千鶴ちゃんの幸せ探しに貢献させて下さい」
僕は頭を下げた。千鶴には見えないけど、でもそうする以外わからなかった。少し顔を傾け、黙ったままの彼女の様子を伺った。
そこには顔を横に向け、今にも泣き出しそうな千鶴がいた。
「あ…私…本当に思ってたんです」
「大野さんが彼女と仲良くしてくれたらいいって…」
「たった一週間に一度会うのも…もうできなくても」
「だって元々ここで会えたのだって偶然だからって」
千鶴は震える声でとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。
「でも…やっぱり、寂しかった」
「初めて…自分から私に話しかけてくれた人だったから」
「初めて…私の目を気にしない人に会えたから」
彼女の言葉は僕の胸に強く強く突き刺さった。本当の僕は彼女の思っているような人間じゃない。自分勝手に千鶴を振り回し、傷つけた。強くなりたいと願う彼女を弱くさせてしまったのも自分のせいだった。
「初めて…できた友達だから…」
僕は自分自身に誓った。二度と彼女を裏切らないと。傷つけないと。
「うん…ごめん」
「俺はまだ千鶴の友達でいれる?」
千鶴は声が出ないのか、何度も頷いた。 その姿が何よりも愛おしく思えた。それでも僕はまだ彼女に恋してる自分に気づきはしなかった。
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