次の週の水曜の朝、僕はあのベンチにいた。この日まで学校に行ったり、行かなかったりを繰り返したが、行った日は必ず坂窓先生と話をした。先生は千鶴のことを色々話してくれた。本を読むのが好きで、週に1回は点字の本を読んでは年下の子ども達に聞かせてあげてたとか、先生の誕生日パーティーの企画をしてくれて、母親と一緒に苦手なはずの料理もしてくれたとか、先生の話す千鶴は誰かのために何かをするのが大好きなやさしい子だった。目が見えないコトを彼女は克服しているんだと僕は勝手に思っていた。
朝の10時から気づけば5時間も待っていた。僕は本気で落ち込んできた。今日はもう来ないのか、それともここには来ないで帰ったのか、でもまだ診察時間は終わってないし、もうちょっと待てば来るかも…僕は小さな期待を胸に彼女が来るのをひたすら待ち続けた。
「大野さん…?」
誰かが僕の名前を呼んだ。いつの間にかベンチで横になって寝ていた僕は、太陽の眩しさで目を眩ませながらもその人物を見た。
「あっ!」ドサッ
立っていたのは千鶴で、僕は焦ってベンチから転げ落ちた。
「?!どうしたんですか?大丈夫??」 「いや、大丈夫!動かないで!!」
僕は千鶴の足下に仰向けになって落ちたので千鶴が蹴躓くといけないと思って慌てて止めて、すぐさま立ち上がった。
「ごめん、寝てたからびっくりした」 「あっごめんなさい、起こしちゃって。寝息が聞こえたから誰かいるとは思ったんだけど、大野さんだとはわからなかったから声をかけたんです」 「いや、起こしてくれてよかった。千鶴ちゃんに会いに来たのに、気づかずスルーされてたら意味ないからさ。あっ座って、こっち」
僕は彼女の腕を取り、ゆっくりとベンチへと誘導した。
「ありがとう。本当にまた来てくれるとは思いませんでした」 「来るよ。約束したっしょ。会ったよ、坂窓先生に」 「本当?!」
その時、千鶴の目が輝いて見えた。本当にそんな小さなことが彼女にとっては最高にうれしいことだったんだ。その理由はもっとずっと先で知ることになるんだけど、この時はただ彼女がこんなことで喜んでくれたことに僕はただ暖かい気持ちになっていた。
「うん。千鶴ちゃんのこと心配してたよ。会いに行って見てくださいって言うたけど、待ってるってさ」 「先生、覚えててくれてるんだ」 「え?何を?」 「私ね、だめなんです。先生がいるとすぐ頼ってしまって…だから、卒業式の時に宣言したんです。いつか、絶対、本当に強くなったら会いに行きますって」
僕には彼女は十分強いように思えた。でもそれは、彼女が弱さを隠すため、必死で作っているものだったのだ。それなのに僕は呆けたセリフを口にした。
「千鶴ちゃんは強く見えるよ」
千鶴は少し苦笑いをした。それから少し考え込むように黙り込んだ後、僕の方へ体ごと向けた。僕は黙って彼女の行動を見ていた。
彼女は両手を伸ばし、その手は僕の胸に当たると、肩まで上り、そしてゆっくりと腕の方へと移動させ、僕の手まで下ろしていった。
「ほんとにありがとう」
彼女は僕の手まで辿り着くとしっかりと両手で握りしめ、頭を下げた。一瞬泣いているのかと思うほど、彼女の声は震えていた。
「いや、そんな…たいしたことじゃないから」
僕は感謝されていることに照れているのか手を握りしめられていることに照れているのかわからなかった。ただひとつ言えるのは彼女が僕のしたことを喜んでくれたように僕も彼女が喜んでくれたことがただうれしかった。 それから僕らは他愛もない話をした。
最近の女子高生の話とか、授業、教師、バイト、彼女は何を話しても興味を示した。うれしそうに頷いては、それはどんなの?その人はどういう人?などと聞いてきた。僕は彼女との数時間の会話が今までどんな女の子といた時間よりも有意義に感じた。
そしていざ別れるときになると、何故か聞かずにはいられなかった。
「あのさ、また会える?」
僕の言葉に千鶴は少し驚いたような顔をした。
「もちろんです。また、学校の話聞かせて下さい」 「あんなのでよかったら」 「明日からはちゃんと学校行って下さいね」 「え?」 「毎週水曜の夕方に来ます。大野さんが学校から帰って来るのを待ってますから」
僕はこの時から彼女の言うことなら何でも聞いてしまう男になってしまった。本当に、何でも。結婚するまではそんなこと感じなかったが、結婚してから思い出すと、そうに違いないと思えた。そして自分はこの時から尻に引かれていたなどと冗談めかして彼女に言って、笑い合っていた。
とにかく、それから僕は毎日学校に通うようになった。そして、この日から僕は卒業まで学校をさぼらなかった。
毎日学校へ行き、校長室で談話、課題、そして教室で授業を受けることが許させて、休み時間は真理子の作ったお弁当を一緒に食べる、放課後はバイト、土日はいつものメンツで集まる、そして水曜の放課後、千鶴と会う。毎日が繰り返しで、でも怒濤のように忙しく、それでも千鶴と会える日は体が軽くなる気がした。誰よりも何よりも、彼女と一緒にいる時間が大切だった。それは自分にとってなのに、僕は自分は千鶴のためにここに来ているんだ、と思っていた。それが大きな間違いだったことに、それから数ヶ月後の夏休みに気づくことになる。
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