今年で彼女と出会って十年目の春を迎える。今では彼女と一緒に暮らした時間より彼女と僕の娘の年の方が上になってしまった。娘はこれからどんどんと大きくなり、いつしか彼女の年を越し、彼女が見られなかったものを見て、聞けなかったものを聞き、経験できなかった事を経験して、僕の元から去っていくのだろう。そう思うととても寂しくなってしまい、彼女がいれば、と思ってしまう。でもこれが彼女が望んだことだからと自分に言い聞かせては、娘に彼女ができなかったこと、したかったことをさせてあげ、周囲からは甘やかせすぎなんじゃないかと反論されてしまう毎日だ。
「パパっ」 小高い丘の上に桜の木が一本立っている。ここは彼女が幼いときから家族で花見に来ていた場所だった。毎年、僕は娘とふたりでここへ来る。最初は彼女と彼女の記憶の中にある景色を分かち合うためだった。今では彼女を思い出すために来ているようなものだった。 「パパ?聞いてるー?」 「えっああ、聞いてるよ」 先ほどから娘は学校での話をひっきりなしにしている。まだ入学して二週間しか経っていないが、娘は学校が大好きになったようだ。友達は何人できたとか、休み時間は何するとか、あいうえおが書けるようになったとか。僕は相槌を打ちながら、彼女もこれぐらいの年の頃は娘のように無邪気に笑っていたのだろうなどと考えていた。 六年経った今でも彼女のことばかり考えてしまう僕は愚かなのかもしれない。娘が育っていくたびに自分の罪のような気がしてならない。彼女はそんな僕のそばに今でもいてくれているのだろうか。 「ねぇ、パパ〜?おにぎりおいしいよ!食べないのぉ?」 娘は作ってきたお弁当のおにぎりを頬ばっている。 「そうだな。何がいいかな?」 「あのねぇ、この三角のはパパが作ったので〜この丸いのは未来が作ったのだよ」 未来のおにぎりは僕の作ったのに比べて一回り小さく、形も歪だった。今朝の惨事を思い出して思わず吹き出しそうになった。僕がお弁当を作っていると、未来が隣にやってきて手伝うと言い出した。未来は何でも僕の真似をしたがって、おにぎりも頑張って握るのだけど力が弱いからうまくまとまらず、ボロボロとテーブルに落としては拾ってまた握るのだった。頑張ってやっているので注意することもできず、僕はこぼれたのは置いときな、としか言えなかった。 「未来のは何が入ってるんだっけ?」 「未来のはねぇ、シャケマヨと〜梅干し!」 「未来はどっち食べたい?」 未来はう〜んと首をかしげた後、満面の笑みを向けて言った。 「シャケマヨ!」 「じゃあパパは梅干しにしよ〜っと」 僕はおにぎりとひとつ取り、半分に割って中身を確かめて、半分を口の中に放り込んだ。未来が作ったおにぎりはちょっとしょっぱくて、でもおいしかった。 未来がキラキラした目で僕を見るので、よくテレビで見る料理評論家の真似をして点をつけてあげた。未来はたぶんよくわかっていないだろうが、きゃっきゃと喜んでいた。 この子だけは幸せにしよう、彼女の分も。僕は娘が生まれてから、もう何度となくしてきた誓いを心の中でまた誓った。
今から十年前、僕は彼女に出会った。それも運命的に。僕は十七で、彼女は十六だった。あのころの僕は学校にはほとんど行かず、中学からつるんでいた仲間と遊んでばかりだった。溜まる場所は一人暮らししている先輩のアパートで、先輩が帰ってない時は決まって近くのトンネルで座り込んだりして待っていた。トンネルは大して長くもないが、暗くて、壁にはどっかの暴走族が書いたであろうラクガキがやたらとあった。痴漢注意の看板もたっていて、女一人では歩きにくいような場所だった。 ある雨の日、アパートに行くと先輩は留守で、仕方なく雨の中トンネルまで戻り、待っていた。今のように携帯電話が充実していたらこんなことはならないだろうが、当時はピッチが普及してきたぐらいで、まだ何人かはポケベルを使っていた。 「あ〜先輩さっさとピッチ買わねぇかな〜?」 仲間の武はしゃがみ込み文句を言った。 「おまえも持ってないじゃん」 隣でピッチをいじっていた聡春が突っこむ。 「ベル買った時はめちゃ便利って思ったけどさ〜、やっぱソレ以上のが出ると欲しくなるよな」 この日一緒にいたのは特に仲のいいメンバーだった。チビのくせに威勢はいい武と頭のいい学校に行ってるくせになぜか気が合う聡春。基本的に遊ぶときはこの三人に先輩のツレと元同中の奴らがいたり、いなかったりという感じだった。 「てか俺らの中でピッチ持ってないのお前と池中先輩ダケじゃね?」
そこに傘をさしたままの女が歩いて来た。コツコツと杖を振るい、僕たちの一メートル手前で止まった。 武が彼女を見上げ、睨んだ。 「何?あんた」 彼女は傘をさしたままで顔がよく見えなかった。 「どいてください」 透き通るような声がはっきりと聞こえた。 僕は彼女の様子から目が見えないのだと気づいていたので武に軽く蹴りを入れた。 「ばっか!邪魔なんだよ、どけ」 「いって!」 武は舌打ちし、不満げに避けた。 「すみません。こいつバカで。もう通れますよ」 彼女は傘をたたみ、僕を見据えた。 「ありがとう」 彼女はまるで僕が見えているみたいに笑みを向けた。
これが僕と彼女のファーストコンタクトだった。残念ながらこの後すぐに彼女は僕たちの前を通り過ぎ行き、話すことは無かった。ちなみに運命的なのはこの数日後に再会を果たすからだ。この時再会しなければ、僕らは結婚することもなかったかもしれない。だいたい僕は彼女のことを好きと気づくまでこれから長をい月日を費やすことになるんだ。もっと早く気づけば、周りの人間を傷つけることも、彼女を悲しませることもなかったかもしれない。今更こんなこと言ってもしょうがないのはわかっている。でも昔の僕を振り返るとどう考えても彼女に惚れていたとわかるのに何で昔の僕はこんな簡単なことに気づかない馬鹿だったんだろう。
五日後、僕は姉の入院する総合病院にいた。姉は二日前に子供を出産したばかりで、難産のだったため一週間の入院を余儀なくされた。僕はあいかわらず学校へ行く気が起きず、と言ってもその日は仲間も捕まらず、何となく姉の子供でも見に行ってみようと思った。だけど病室に入るとそうそうに姉に説教されることになった。 「あんた!学校はどうしたのよ!!」 「姉ちゃんが死にかけたって聞いたから見舞いに来たんじゃん」 「よく言うわよ!お母さんから聞いてるんだからね!あんた家にほとんど帰ってない上に学校も行ってないんだって?」 「帰ってるよ?寝に。学校だって出席日数ギリで行ってるし」 「ギリじゃダメだろ!あんた頭悪いんだから単位落とすよ」 「大丈夫だって。テストん時は勉強しとる」 「どうせ聡くんに手伝わせてんでしょ」 「お〜そう!姉ちゃんよく分かってんなぁ」 「あんたの考えることなんて虫でもわかるわよ」 「言うねぇ、あっ」 「何?」 僕は窓に手をかけた。外に見えるのは病院の中庭。そしてベンチに座る女の子。帽子をかぶっていて、髪は肩より長く、後ろ姿なので顔はわからなかった。でも頭の中でアラームが鳴った。行けと。 「姉ちゃん、俺もう行くわ。またな」 「え〜!ちゃんと学校行きなよ!」 急いでエルベーターの前まで行った。ここは五階、エルベーターはまだ一階だった。何を思った僕は気づいたときには階段を駆け下りていた。途中、看護士さんに走らないでください。と叫ばれてしまったが、とにかく急いだ。一階に着くと中庭へと続く廊下を探した。こういう時大病院は面倒だ。いちいち人に聞かないとわからない。歩いていた白衣の人間を捕まえて聞き出すと、また急いだ。まだいる。きっと!中庭に出るガラス戸をあけるとちょうどあのベンチが見えた。彼女はいた。 「あのっ!こんにちは!」 気づいたら声を掛けていた。しかもこんにちは。彼女は自分が声を掛けられたのに気づいたようでこっちを向いたが、僕はうっかりしていた。彼女は目が見えないんだった。僕の事なんて覚えているはずないのに。固まって次の言葉が出なかった。 「こんにちは。また、お会いしましたね」 彼女は迷いなく言った。 「わかるの?てか覚えてるの?」 「はい。私一度聞いた声は忘れないんです」 「マジ?凄いね」 「そうですか?」 「いや!凄いよ、ソレは!俺のことちょっとは見える?」 今思えば失礼なセリフかもしれないがその時の俺はとにかく必死だった。 「ううん。調子イイ日は明暗ぐらいはわかるかな」 「めい…あん?」 「ここで何しているんですか?」 「あっ俺?姉貴がここで出産して入院してんの」 「そうなんですか。赤ちゃんかわいかったですか?」 「あっそういやまだ見てないや」 「なんだぁ」 「…あのさ、ここに通院してんの?」 「そうですけど」 「ふ〜ん…あっ俺さ、市内の高校に行ってるんだけど」 「市内?どこですか?」 「天草高校」 「本当っ!坂窓先生って知ってます?」 「坂窓?さぁ〜俺あんま学校行ってないんだよね〜」 「そっか」 その時、彼女があまりに寂しそうにうつむいたのでつい言ってしまった。 「じゃあさ、俺、明日行って探して来るわ。」 「えっ」 「いい加減行かなきゃヤバイし」 「ありがとう」 「いいよ、あっ連絡先…ピッチ持ってない?」 彼女は首を振る。 「あ〜じゃ、どうしよ」 「雪田千鶴」 「は?」 「名前。毎週水曜にこの病院に来ています」 彼女は言い終わると杖を持ち、ゆっくり立ち上がった。 「あっ俺!大野辰己」 彼女は最初と同じ笑顔を向けた。
今考えると、僕はこの時すでに彼女を好きになっていた。嫌いなはずの学校に行って彼女のために坂窓先生を探して、もう一度彼女に会いに行く理由が欲しかった。でも僕はそんなことにも気づかずにただ思うままに行動していただけだった。
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