公園池に女の変死体浮上
玉川上水の水源地にあたる羽村堰では人影もなく緑風が爽(さわ)やかでった。 羽村堰にほど近いブナの林のなかに瓦葺二階建てのモダンな菊野邸が浮かびあがる。
菊野邸のキッチンでは木彫風(もくちょうふう)でセピアの縁取りをした壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時30分になった。 パーコレーターでコーヒーを炒れた菊野弁護士はコーヒーカップにコーヒーをそそぎ蓋(ふた)をしてお盆に載せ二階の書斎にあがっていった。 ガウンを羽織ったままの文彦は書斎のソファーに身をしずめコーヒーをすすった。 文彦はソファーの脇の新聞立てから朝刊を摘みあげた。新聞は毎朝、佐保子が新聞立 てにはここぶことになっていた。 文彦は朝刊をひろげてぎくりとした。 朝刊の題字脇には黒色の地に白い大活字の[ エリート検察官の女検事殺害]という キャッチフレーズでショッキングな報道がされていた。 文彦はその活字にくらいついた。
[ 朝陽新聞の記事]
エリート検察官の女:検事殺害 井の頭公園池「ひょうたん橋」で
東京都三鷹市に所在する井の頭公園池に女の水死体があがった。 5月9日午後10時35分ごろ110番通報を受けた警視庁捜査一課では、北多摩警察署の 案内により三鷹市に所在する井の頭公園池の「ひょうたん橋」周辺を捜索したところ、 女の変死体が発見された。被害者の両眼は鋭利な刃物でえぐり取られ、その両耳も 切断されていた。そのうえ残酷にも左右の乳房まで切断されていた。 醜(みにく)くなった被害者の顔は白い木綿の手拭で覆(おお)われていた。その手拭には紅(あか)い日の丸印の下に「法曹夢未実現革命軍」という黒い文字が染め込まれていた。しかも被害者の首にはなにかで締めつけられたような痕跡(こんせき)が残されていた。このため被害者はどこか別の場所で殺害されたのち井の頭公園池に遺棄されたものではないかとの見方が強くなっている。 被害者のスーツの内ポケットからは6万円あまりがはいった財布が発見されているし、 その名刺入れからは「法務司法省 検察官検事 剣山切子」名義の名詞がでてきた。 この名刺を身分証明書と照合すると、この被害者は剣山切子検事ではないかとみられ ている。凶器はまだ発見されておらず、現場に残された唯一(ゆいいつ)の物的証拠と しての手拭を手掛かりに警視庁捜査一課では殺人事件として捜査を開始した。 この事件現場は平成9年11月28日に発覚した法務司法省事務次官で司法試験管理 委員会委員長の花園威一郎氏殺害事件の現場でもあった。 文彦は新聞を開いたままテーブルのうえにおきコーヒーをすすりあげた。 「この花園委員長事件では、法曹夢未実現革命軍の総司令官だった黒井雄太が被疑者 として逮捕され、殺人被告事件として公判にかけられたが、その公判審理の途中でこの わしが弁護人として事件当夜における被告人のアリバイを証明した結果、検察側としては公訴の維持が困難となり公訴は取り下げられ、黒井雄太は釈放された。その後も検察 当局は法務司法省の高級官僚の殺害という事件の重大性から重点的に捜査をつづけて いるが、事件解決の目途がたたないまま未解決の状態なんだ」 文彦は独り言をいいながら、ふたたび新聞をとりあげた。
[ 朝陽新聞の記事]
その花園委員長事件が未解決の状態下で法務司法省直属のエリート検察官が殺害 されたわけだが、剣山切子殺害事件の犯行の手口が花園委員長事件と同一であるし、 唯一の現場遺留品が「法曹夢未実現革命軍」の名入りの手拭だけであることから同一 犯人による連続殺人事件ではないかとの見方が強くなっている。
菊野弁護士は新聞をひろげたままテープルのうえにおき、冷めかけたコーヒーカップ をひきよせた。 文彦はコーヒーをひとくちすすると、ふたたび新聞をもちあげた。 文彦は、ショッキングな新聞記事のあとにはコラム欄として解説の記事が載せられて いるのに気づいた。 文彦はコラム欄に視線をながした。
[ コラム欄の記事]
この「法曹夢未実現革命軍」は平成9年7月20日の司法試験「論文式試験」の初日に 試験会場だった稲門大学の正門前に突如として出現したデモ隊として姿を現したのが 最初であった。1000人あまりのデモ隊は法曹夢未実現革命軍という名入りの手拭で ハチマキを締め、 「違法な管理は止めろ!!」 「実力者のオレたちにも論文答案を書かせろ!!」 というシュプレヒコールを繰り返した。 その後、デモ隊はあらかじめチャーターしたバスに分乗し、報道陣のフラッシュを浴びながら新宿区から中央区を経て千代田区へと都心を縦断し日比谷公園に至り、公園 寄りの道路から新築された高層ビルの法務司法省の庁舎に向け同じようなシュプレヒ コールを繰り返し喚声をあげたことで日本列島を震撼(しんかん)させている。 この「法曹夢未実現革命軍」というネーミングのなかの「法曹夢」というのは、法曹になりたいというドリームを意味する。それは年に1度しか実施されない司法試験に最終 合格して法曹になりたいという願望である。この「司法試験」に最終合格するためには、まず5月の第2日曜日に実施される「短答式試験」に合格したのち、7月に実施される 「論文式試験」をクリアーしてから、最後に10月の「口述試験」を突破しなければなら ない。ところが法務司法省は、若手検事の員数の不足というニーズを充たす目的で 第一関門である「短答式試験」につき、その受験結果の評価に「年齢差」をつけて、 若手には、その年の最低合格点を採りさえすれば「論文式試験」を受験させる。これ に対し中高年齢者には最低合格点を採っても、これを不合格者扱いにし、「論文式 試験」を受験させないという政策をうちだしていた。つまり成績優秀な中高年齢者の 犠牲において、成績はそれ以下の若手を優遇するという政策を強行ている。このよう な「年齢による差別」は憲法14条の保障する法の下の平等原則に反するおそれがある として黒井雄太氏を中心とする成績優秀な中高年齢者によって結成されたのが「法曹 夢未実現革命軍」なのである。この組織は改革が要請されている法曹界への登竜門 たる司法試験管理の適正化を促進することを目的とした、政治学上のプレッシャー グループつまり圧力団体とみられているだけに今後の動向が注目されることになろう。
菊野弁護士は新聞を折りたたんで新聞立てにもどした。 文彦は冷たくなった飲み残りのコーヒーをすすり、ライターでタバコをつけ、天井に 向け紫の煙を噴きあげると、ソファーに凭(もた)れ回想に耽った。
[ 菊野文彦の回想]
このコラム欄に解説された法務司法省の司法試験政策は問題だ。一般市民に司法 のエリアの実態はあまりしられていない。だが5月の母の日に実施されてきた「短答式 試験」の評価において年齢差をつけていることは、司法の世界では公然の秘密だ。 現にこの措置を憲法違反だとして、合格決定の取り消しを求める「行政訴訟」を提起し た勇気ある受験者もでてきた。しかし東都地裁は、この稀有(けう)の訴訟について原告 敗訴の判決をだしている。もし判決で司法試験管理委員会の合格決定を取り消した ならば、その年の司法試験合格者について、合格者としての身分は遡及的(そきゅう てき)に剥奪(はくだつ)されてしまう。仮にこのような取消判決の論理を徹底させるなら ば、すでに任官された裁判官や検察官はもとより、弁護士の資格まで剥奪されてしま うことになりかねない。より具体的には長年にわたり弁護士活動をつづけてきたわしも、弁護士としての資格を返上しなければならない。そうだとすれば司法の世界は大混乱を招くことになろう。だからこそ東都地裁の裁判官も胸のうちでは違憲の措置だと考えながらも、事件処理の技術としては合格決定を取り消すことなく、原告敗訴の判決を するしかなかったのであろう。それはそれなりに理解することができる。だが司法試験 管理委員会のこのような措置が年齢による差別として憲法違反であることも否定する わけにはいかない。そうだとすれば訴訟以外のなんらかの手段に訴えて、法務司法省 の合格決定という違法な「行政処分」を是正するしか手はない。 黒井雄太の率(ひき)いる「法曹夢未実現革命軍」は、こうした背景のもとで出現した いわゆるプレッシャーグループなのだ。革命軍の最高責任者たる黒井君の運動方針 にはわしも賛同できる。だがその手段として現職の検察官を殺害してみても法務司法 省の誤った政策を是正することはできまい。剣山切子検事殺害事件現場では「法曹夢 未実現革命軍」の名入りの手拭が発見されたという。そうなると黒井雄太がふたたび 逮捕されることは避けられない。黒井雄太が逮捕されれば、結局、わしがめんどうを みるしかない。先の花園委員長殺害事件では、わしが被告人のアリバイ捜しをした あげく、辛(かろ)うじて被告人のアリバイ証明に成功した。こんかいの剣山切子検事 殺害の犯行の手口は、花園委員長殺害事件のときとまったくおなじだ。犯行の手口を 判断基準とすれば、これらふたつの事件は同一犯人の所為(しょい)とみるのが自然 であろう。花園委員長殺害の動機は新聞のコラム欄で解説されていたような司法試験 政策の違法を是正するために、司法試験管理の最高責任者たる委員長を槍玉にあげ たということで説明がつく。そうした動機が考えられるのは、年齢差をつけられて不利な取り扱いを受けている中高年齢者である。だからその動機の可能性は革命軍の隊員 だけではなく、3万人あまりの受験者のうち中高年齢者の全員について考えられよう。 だから犯行の決め手となるような直接証拠でもでてこないかぎり、真犯人の割り出しは 至難の業である。花園委員長事件の捜査が暗礁に乗りあげられている最大の要因は この点にあるのだ。平成9年の秋に井の頭公園池の「ひょうたん橋」で発覚された司法 試験管理委員会委員長殺害事件の被害者たる花園威一郎氏は、わしの学友である 花園正義の従兄にあたるエリートだった。威一郎氏はその当時、法務司法省のの事務 次官であるとともに司法試験管理委員会委員長の要職にあった。花園家は高名な法律 家一族としてマスコミでもしられていた。しかし花園正義の叔父や父も他界し、現在は 花園正義が井の頭公園にほど近い豪邸で一人暮らしをしているらしい。その花園正義 の誕生祝いの帰りに吉祥寺まで歩くといって花園家をでたのが威一郎氏の最後であっ たという。 花園委員長が花園家を訪れるという情報を事前にキャッチした真犯人は犯行の当夜、 花園家周辺に張り込み、花園家をでた被害者を尾行し、井の頭公園のどこかで被害者 を殺害し、死体を井の頭公園池の「ひょうたん橋」から池のなかに投棄したのだろう。 この事件でも被害者の両眼と両耳は鋭利な刃物で切断され、醜くなった被害者の顔は 紅い日の丸印の下に法曹夢未実現革命軍という黒い文字が染め込まれた木綿の手拭 で覆われていたのだ。その事件の現場遺留品は、この手拭だけであった。そこで警視庁 捜査一課は、これを手掛かりに法曹夢未実現革命軍の総司令官だった黒井雄太を重要 参考人として事情聴取したところ、黒井雄太は犯行を自供したため公訴を提起されたの であった。そもそも花園正義とは筆門大学法学部の同期生だった黒井雄太は花園正義 から彼の誕生祝いの宴席に花園威一郎氏が出席するとの情報をキャッチし、委員長の 帰り道を待ち伏せし、酔いがまわっていた花園威一郎氏が「ひょうたん橋」近くで立ち 小便をはじめたので、このときとばかり委員長の背後から襲いかかり、太いポリ縄で 被害者の首を締めて窒息死させ、その直後に鋭利なナイフで被害者の両眼と両耳を 切断し、醜くなった被害者の顔を法曹夢未実現革命軍の名入りの手拭で覆い「ひょう たん橋」のうえから池のなかに投棄したというのだ。 これが黒井雄太の供述内容である。 犯行に用いたナイフとポリ縄は公園内にある公衆便所脇のゴミ収集場に捨てたと黒井 雄太は供述している。しかしその後の捜索で凶器はどこにも発見されなかった。それに 黒井雄太の供述による犯行現場には、血痕らしい痕跡はまったくみられなかった。そこ で東都地検の捜査担当検事であった竹中輝夫検事は、犯行を証明できる直接証拠 としての物的証拠がないまま、黒井雄太の供述を録取した検察官面前調書を唯一の 証拠として強引に黒井雄太を起訴したのだった。おそらく竹中検事は、公判手続きの 進行中に物的証拠は確保することができると踏んでいたのであろう。 わしはその当時、黒井雄太が逮捕されたと聞いて、いちはやく竹中輝夫検事室にかけ こんだ。検事室では、ちょうと黒井の取り調べ中だった。わしは検察事務官の拒絶を 撥ね退けて検事室に押し入った。竹中検事はわしと司法修習生時代の同期だった。 だから黒井の取り調べにおけるわしの立会いを拒否できなかったのだ。「おまえなにし にきたんだ。オレのことなどほっといてくれ」と、黒井はいきりたち、わしに食ってかかったのだった。その当時、黒井は竹中検事室で検事デスクのまえに座らされ、鋭い目つきで竹中検事を睨(にら)みつけていた。検事室に押し入ったわしを見るなり黒井は、額に青筋をたて、骨の太いプロレスラーのような体格に力を込めて猛然とたちがり、わしに食ってかかったのであった。
行動派で全身鋼鉄の塊りような黒井の浅黒い顔が文彦の瞼(まぶた)に浮かんだ。 文彦は、苦笑いをしながら、ライターでもう1本タバコをつけた。
[ 菊野弁護士の回想]
あの検事室で黒井がわしに食ってかかったとき、わしにはあいつの魂胆が手に取る ように読めた。筆門大学の幼稚舎から大学付属の小学部、中等部、高等部そして大学 の法学部に進学するまで黒井も花園正義も、ずうっと、わしと一緒だった。わしら3人は 金魚のウンコのようにいつもつながっていた。 それがのちに疎遠になってしまった。疎遠になった分岐点は、わしが3度めの受験で 司法試験に最終合格したときだった。答案練習会での成績は花園正義と黒井が優秀賞 をとり、わしはその当時、努力賞しかとれなかった。答案練習が終わったその日、御茶ノ水駅近くのレストランでカツライスにフォークをつけながら3人は、「ことしこそ3人一緒に合格しよう」と誓い合った。5月の母の日に実施された「短答式試験」は3人そろってクリアーした。7月にはおなじ試験場で「論文式試験」の答案を書いてきた。その秋の合格発表の日になった。法務司法省の合格発表の会場では、わしの名は黒々とした文字で掲示されていた。しかしわしよりも実力がうえのはずだった黒井と花園正義の名はなかった。 黒井と花園正義がわしから離れていったのはその瞬間からであった。 竹中検事の面前における黒井の供述は虚偽であることをわしは、当初から察知して いた。それはなにかを狙った黒井の巧みな演技によるパフォーマンスだった。 黒井は総司令官として自分が率いる法曹夢未実現革命軍の存在感をアピールする ためにマスコミを活用しようと企んだのかもしれない。花園威一郎殺害事件の重要参考 人にされたのをもっけの幸いとして竹中検事を愚弄(ぐろう)し、でっちあげのシナリオでパフォーマンスをみごとに演じ切ったのかもしれない。
菊野弁護士は、タバコの吸いさしを灰皿にすり潰(つぶ)した。
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