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作品名:秋霜烈日 作者:藤田耕太郎

第1回   緑風の季節
              緑風の季節 

 玉川上水の水源地にあたる羽村堰では葉桜の緑がさわやかであった。
 羽村堰に連なるブナの林のなかに水色をした瓦葺二階建ての菊野弁護士邸が
静かな佇(たたず)まいをみせている。
 
 菊野文彦は、その朝10時までベッドに潜っていた。
 昨夜は、法律雑誌の原稿の締め切りに追われ、文彦は黎明まで書斎に籠もり、
ワープロのキーをたたきつづけていた。ベッドにはいったのは庭に放し飼いの鶏が
高々と一番鬨(どき)をあげたころだった。
 起きあがった文彦は両手で天井を突きあげるようにうっと背伸びをした。ガウンの
ままで文彦は目をこすりながら二階の寝室から階下に降りていった。
 菊野邸の邸内は人気もなく、物音ひとつしない静寂が澱(よど)んでいた。
 その朝、妻の佐保子は茶道の友人と連れ添い、中村梅之助で知られる前進座の
演劇を観覧するといって9時すぎにはでかけていた。
長男の法彦は司法試験の第一関門にあたる「短答式試験」を受験するため、朝の
7時ころ家をでて都心の本試験場にむかっていた。長女の法子も都心の予備校の
講座を受講するといって法彦のあとを追うようにして玉川上水縁のブナの林のなかの
自宅をあとにしていた。

 文彦はまだ眠りの世界の妖気(ようき)につきまとわれ、ふらふらとした足取りで
キッチンにはいっていった。
 キッチンの壁に掛けられた大型の日捲りカレンダーは、赤く太い文字で平成10年
5月10日の日曜日になっていた。
 文彦はちらっとそのカレンダーに視線を流した。
「あ、そうか。法彦のやつ、きょうは短答式の本番なんだ」
 独り言をいいながら文彦はパーコレーターでコーヒーを炒れる準備にとりかかった。
「わしも30年以上の昔、司法試験を受けていたころ、5月の第2日曜日といえば、大型
連休ではしゃぎたっている市民の馬鹿さ加減を軽蔑(けいべつ)しながら、われわれの
ような司法試験族は、はしゃぎたっている巷(ちまた)の連中とはまったく異なる人種なんだと屁理屈をつけ、唇を噛みしめながら司法試験の第一関門といわれる短答式試験の
本番に取り組んだものだ。法彦にしてみれば今がその時期なんだ。あいつもそろそろ
短答式くらいには合格してもおかしくはない。あいつも3度目の受験だ。このわしも、
その昔、3度目には司法試験に最終合格していたのだ」
 文彦は戸棚からコーヒーカップをとりだした。
「あ、きょうは大相撲夏場所の初日だ。それに佐保子にとって母の日でもあるんだ」
 文彦はパーコレーターで炒れたコーヒーをカップにそそいだ。

 それはオリンピック聖火が日本列島を一周した年でった。暖冬で春の訪れも例年より
はやかった。その年の5月には桜前線も札幌にまで北上していた。
 東京の郊外の多摩丘陵地帯では、燃えるような新緑で緑風もさわやかであった。
 玉川上水の水源地帯にあたる羽村堰の桜も葉桜になっていた。
 羽村堰に連なるブナの林のなかに菊野弁護士邸が浮かびあがる。
 
 その朝、7すぎに菊野法子は、二人の学友と郊外電車のプライオリティー・シートに座り、参考書と睨(にら)めっこをしていた。
 電車が幸福駅を発車したとき、ひとりの老弁護士が法子のまえに起った。
 爽快感を振りまくオーデコロンの香りに絆(ほだ)されて法子がおもわずみあげると、法子の父とおなじ円い花型の中央に天秤(てんびん)のデザインを刻みこんだ向日葵(ひまわり)の花のよような弁護士バッジを佩用(はいよう)した白髪の紳士が法子をみおろしにこりとした。
「先生、どうぞ」
 法子は微笑みながら起ちあがり座席をゆずった。すると法子の両脇で参考書と首っ引きをしていた学友の桜子も奈々枝も法子に釣られて起ちあがった。
「どうも、ありがとう」
 弁護士はにこりとしてシートに座った。
「日曜日だというのに、みんなたいへんだね」
 自分の孫娘のような高校生を見比べながら白髪の老弁護士は艶(つや)のいい細い
頬で上品に微笑んだ。

 郊外電車は鉄路をはしりつづける。
 まもなく電車は乗り換え駅のプラットホームに滑り込む。
 法子たちは、いつものように駅構内の陸橋をわたり東京ゆきの電車に乗り換えた。
 日曜日だというのに電車の座席は塞がっていた。法子たちは、車輛のいちばん後部
の吊革にぶらさがった。
「あのさあ。さっきのいい匂いがするおじいちゃま、えらいんだって」
 桜子がきりだした。
「どうして、そんなことわかるの」
 奈々枝は怪訝(けげん)な眼差しを桜子に向けた。
「だって、あの金ぴかのバッジつけてる人、えらいんだって、うちのパパいってた」
「そうぉ・・・」
 奈々枝は納得できないという顔で首を傾げる。
「それ、弁護士バッジを佩用してるからでしょ」
 法子は単刀直入に理由づけをして桜子を代弁した。
「だから、法子のパパも、ああいうバッジをもってるんじゃない。ねえ、法子?」
 桜子は法子の顔を覗きこんだ。
「うん。うちのパパ」
 法子はすなおに頷(うなづ)いた。
「もってるけど。天の邪鬼(あまのじゃく)だから、ふだんは佩用してないの。でも法廷にでるときだけは佩用してるみたい」
「そっか。あたい、しらなかった。あれ弁護士バッジなんだ。金ぴかで素敵なバッジだね。まるで黄金の胸章だ」
 奈々枝は法子の父を絶賛した。
「たしかに黄金の胸章といえそうだね」
 桜子が相槌をうった。
 郊外電車は武蔵野をはしりつづける。

 法彦の腕時計は5月10日午前11時30分になっていた。
 その時刻に法彦は、東京湾が陽炎(かげろう)のように霞んでみえる筆門義塾大学の
キャンパス三田の丘に起っていた。このキャンパスがその年の司法試験短答式試験の
本試験場のひとつになっていた。
 このキャンパスには、黒い蟻の大群のように数千人の受験者が殺到し、犇(ひし)めき
あっていた。
「この筆門大学法学部は父の母校だった。このオレは父の一存(いちぞん)で、この大学の法学部に進学させられ法学部法律学科を卒業したのだ」
 法彦は、東京湾に視線を移しながら独り言を云う。
「今年の司法試験短答式試験は、筆問大学はじめ日本列島で有力な大学数か所を試験会場として一斉に施行されることになった。受験会場は勝手知った自分の母校だけに気分は楽になった。試験開始の午後1時30分までには、まだかなりの時間がある。そうだと
したら精神的な動揺を避けるためリラックスできるエリアで休息することにしよう」
 法彦は独り言をいいながら、人目を避けてキャンパスの西側方向に歩きだした。
「そうだ。あそこにしよう」
 法彦はキャンパスの西側の緩やかな斜面を降りていった。
「ここがいい」
 法彦は濃緑の滴る常緑樹の陰のベンチにすわった。
 この周辺には人影はなかった。
 法彦は目を瞑(つぶ)った。

[ 法彦の瞑想]
 
 きょうの短答式試験は法律科目の憲法・民法・刑法と3科目にすぎない。だが決して
油断は許されないのだ。なにしろその問題文は32頁という1冊のブックに編集されているのだ。そのブックには隙間もなく、難解な問題がびっしりと詰め込まれているのだ。
 その難解な問題は全部で60問だから、試験時間からみて1問を3分以内に解かないと時間が不足してしまう。まともにじっくり考えるならば1問で20分もかかる問題さえでてくるのだ。
 なにはともあれ60問のうち80パーセントの正解をださなければ合格通知は来ない。
 オレは昨年度の本番で、わずか1点の不足で苦杯を嘗(な)めさせられた。勝負の世界の
厳しさは7勝8敗で負け越しとなる相撲の世界とおなじだ。ちなみに父の話によれば、あの司法試験「論文式試験」では7科目の平均点が0.01不足すると不合格とされるという。
ことしはなんとしても最低合格点を4・5点うわまわる得点つまり安全圏まで漕ぎつけな
ければはなしにならない。だから本試験は無茶な試験というしかないが、この第一関門をクリアーしなければ7月の「論文式試験」を受験させてはもらえないのだ。5月の母の日に実施される「短答式試験」の試験時間は3時間30分とされている。通常の試験はせいぜい2時間そこそこだから、ほかの国家試験にくらべれば試験時間の長い過酷な試験だ。
だが別の見方をすれば、たった3時間30分の試験にすぎない。わずかこれだけの試験で
3万人の受験者のうち2万5000人は振り落とされてしまうのだ。1年に1度しか実施され
ないこの試験を目指してだれもが必死で1年間は努力してきたはずだ。そうだとすれば、
わずか3時間30分の本番でこれだけ多数の受験者を振り落とすというのは、どうみても
無茶な試験というしかない。現職の裁判官でさえ「短答式は無茶な試験だ」とマスコミに向かって発言しているのだ。たしかに無茶な試験だし、前代未聞の過酷な試験だが、
ことしこそは、なんとしても5000人の合格者のなかに割り込むしかない。ことしもこの
試験に落ちたならば、恥ずかしくて親父の法律事務所に顔をだすこともできない。
 けど冷静に対処すれば、なんとかクリアーできるはずだ。自分の実力をそのまま十分
に発揮さえすれば、なんとか合格点は採れるだろう。きょうは相撲の世界では夏場所の
初日だ。若乃花や貴乃花に負けてたまるか。ともかく全力投球でゆこう。もう、それしかない。

 法彦は、かっと目を開いて起ちあがった。
 うっと背伸びをして爽(さわ)やかな空気を胸いっぱいに吸いこんだ。

 そのとき、がらんがらんと鐘の音が伝わってきた。
「あの鐘の音は、本番の開始に向け、試験場の教室に入場せよという懐かしいシグナルの鐘の音だ」
 独り言をいいながら法彦は、ゆっくり鐘の音の鳴る方向にむかってあるきだした。


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