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作品名:目には目を歯には歯を 作者:藤田耕太郎

第8回   塀のなかの街
 高い塀にかこまれた東京拘置所の正門からチョコレート色のおお
きなカバンを提げた菊野弁護士がその構内にはいってゆく。
菊野『一般の社会から隔絶された拘置所のなかに普通の街と変わら
ないひとつの街が形成されていることは、塀の外で暮らしてる者には
あまり識られていない。隔絶された高い塀のなかでは拘禁された囚人
とは別に、多くの善良な市民が市民生活をおくっているのだ。この仕組
みによってこそ、はじめて塀のなかの人間生活が成り立つのである。
その昔、わしが弁護士に成り立ての当時、国選弁護の被告人と接見
するためこの拘置所にはいったとき、わしは、あらためてこの光景に
興味をおぼえたことだった』
 そんな想いを胸にしながら菊野文彦は、ゆっくり塀のなかの街路
を歩き、未決囚の拘禁棟の方向へすすんでいった。

 拘禁棟のなかの接見室では、ドラマのシーンによく見られる接見室
特有の透明な如雨露のあたまのような穴の開いた窓の手前で菊野弁護士
が待機している。
 透明な穴あき窓で隔てられた接見室の奥のドアが開いて、係官に
付き添われた白山咲一があらわれた。
 白山を接見室におしだした刑務官はドアの奥へ吸い込まれてゆく。

 穴あき窓にアクセスした白山は窓越しで深々と頭をさげ、椅子に腰
をおろした。
「白山さん。おからだのほうはだいじょうぶですか」
 菊野弁護士は、鼈甲造りの眼鏡をかけた温厚な顔を白山に向けた。
「はい。ようやくその」
 白山は拘禁されている被告人らしくもなく胸を張り菊野弁護士の額の
あたりに視線を据えた。
「塀のなかの食事にも慣れてきました。このたびも菊野先生のお世話
になる羽目になりました。よろしくおねがいいたします」
 白山は苦笑いしながら白髪が増えてきた頭を掻いた。
「白山君が松瀬病院長殺しとは、ちょっと」
菊野『この男は公判にかけられた被告人としては泰然としすぎている。
この男は、松瀬病院長殺害の真犯人ではないらしい。検察を愚弄す
るため、虚偽の供述をし、虚偽の供述によって検察官面前調書を
作成させ五十嵐検事に起訴させたものだろう。この老人の胸のなか
を炙りださなければならない。なんとか策はないものか』
「信じられないのだが。ほんとうに松瀬教授を殺ったんですか」
「はい。わしが松瀬を殺りました」
「もしかすると、検事に提出した供述書は巧みな演技によるパフォー
マンスではありませんか」
「とんでもありません。パフォーマンスなどではありません。わしが
書いて五十嵐検事に提出した供述書は歴史的に実在した真実を偽り
もなくそのまま述べたものです」
「あくまで松瀬教授殺しの真犯人は自分だと、押し通すつもりのよう
ですが、白山さんの供述の内容が真実だとは考えにくい」
 菊野弁護士の鼈甲造りのメガネをかけた顔は厳しい表情に変わった。
「いま述べたことは、ほんとうに真実なんですね。偽りではないんですね」
「はい。偽りではありません。松瀬を殺ったのは、あいつの傲慢な態度が
許せなかったからです」
 白山は菊野弁護士の視線を避けて俯いた。
菊野『真犯人として起訴された被告人は、この接見室ではしょげこん
でしまうものだ。いま、俯いたのは白山のパフォーマンスだろう。
拘禁されている白山君の姿勢は、被告人らしくない。やつれもみせず
泰然自若としている。いまの俯きのポーズは、おそらく自作自演の
猿芝居だ。そうだとすれば、この男、起訴までされて、いったいなに
を企んでいるのだろうか。松瀬事件に関する事情聴取を受けたこと
を勿怪の幸いにして、なにかこう隠された目的のために、真犯人とし
ての立場を演じようとしているにちがいない。検察側から被告人と
しての処遇を受け、司法記者クラブを通じてマスコミを騒がせ、なに
かを実現しようという魂胆なのかもしれない』
「しかしながら、松瀬教授がいかに傲慢だからといって、なにも殺す
ことはなかったでしょう。なにも殺さなくても、ほかに採り得る手段は
あったはずです。どうしてまた」
 菊野弁護士は身を乗りだし白山の真意を探ろうとした。
「松瀬教授を殺る気になったんですか。そんな所為にでたならば、
辛うじて獲得した執行猶予が取り消されることも承知のはずだが」
「はい。わしも司法試験受験のベテランですから」
 白山は俯いたままぽそりと語りだした。
「刑法第25条以下の執行猶予に関する規定はよく理解している
つもりです」
「それなのに、どうしてまた。いかにも君らしい独特の正義派とし
ての激しい気性を爆発させてしまったんですか」
「はい。大学病院という巨大な組織のうえに胡坐をかいてクランケ
の人権を無視するような医事課職員の不法行為を黙認し、被害者
からの損害賠償の請求を握り潰している、松瀬の傲慢というか不遜
な態度が許せなかったのです」
「君の気持ちはよくわかるが。だからといって全地球よりも重いとい
われる人の生命を奪い取ることは決して許されません」
「しかし正当な権利行使では埒があかない傲慢な相手ですから非常
手段に訴えるしか手はありません。誰かが憎まれ役になって、とことん
責任を厳しく追及しなければ、乱された大学病院内の秩序を回復する
ことはできません」
「たしかに、乱された大学病院内の秩序を回復することも社会秩序を
維持する一環として重要ですが。だからといって非常手段に訴えて、
乱された秩序の回復をはかることは、法治国家のもとでは許されま
せん。そのような規範意識としては、司法試験受験のベテランである
君には十分わかっているはずですが」
「しかし先生。法治国家のもとで」
 白山は胸を張り菊野弁護士と視線をあわせ反駁のポーズになった。
「制度として保障されているルールによっては、なんらの効果が期待
できない以上、緊急避難的に闇捌きするしかありません。そうなると、
これはもはや法治国家体制の限界を超えた問題でしょう」
「そういう立論も可能ですが、それは屁理屈というものです。法的な
手続保障を経ないで人を処断したのでは、かえって社会秩序の混乱
を招くことになりかねない。相手方を抹殺する以外にも、乱された
大学病院内の秩序を回復する手段はあったはずです」
「いえ。手続保障の余地がなかったから、いわば緊急避難的に非常
手段にでたのです。ともかく人の生命を断絶してしまった以上、犯行
についての責任を回避することはできません。第1回公判期日にお
ける冒頭の罪状認否手続では犯行をそのまま認めるつもりです」
「いや。それは」
 穏やかだった菊野弁護士の表情は途端に厳しくなった。
「よくない。当面は犯行を否認する作戦でゆきましょう。まだ非常
脱出用のロープ以外の凶器としての出刃包丁とかカミソリその他の
犯罪供用物件も発見されていないらしい。公訴を維持できるだけの
直接証拠は不十分な状態なんだから犯行否認の線でいきましょう」
 白山は俯いたまま黙り込んでしまった。
「さて、それでは」
 菊野弁護士はカバンを引き寄せ腰を浮かせた。
「第1回の公判期日までに、もういちど来ますから。塀のなかの人間
になった以上、プライドは棄てて、食べるものは食べ、よく眠ることが
肝心です。いいですね」
 白山は起ちあがり、黙って深く頭をさげた。
 接見室の奥のドアが開いた。
 刑務官に付き添われ白山はその奥へ消えていった。
 接見室の入り口のドアを開けた菊野弁護士は廊下へ消えてゆく。

 東京拘置所の正門から菊野弁護士がでてくる。
 菊野弁護士は高い塀の脇を歩き、街路にでてゆく。

 街路にあらわれた菊野弁護士は、ながしてきたタクシーを拾う。
「東京駅の八重洲口まで」 
 菊野はドライバーに命ずる。
「かしこまりました」
 タクシーは滑りだす。
 滑りだしたタクシーは車の流れのなかに吸い込まれてゆく。


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