警視庁東側の並木道では街路樹として植え込まれたマロニエの緑葉 が初夏の風に揺れている。 警視庁の正門から水色のスーツに鰐皮のハンドバッグという爽やか な装いの多摩美枝子がはいってゆく。
警視庁捜査一課の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い 文字で1999年5月20日木曜日になっている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。 開け放たれたドアから多摩美枝子がはいってくる。 「呼び出しを受けました多摩美枝子ともうします」 「あ、どうも。こちらへどうぞ」 若い係官は美枝子を窓側のソファーに案内した。 「ここでお待ちください」 「失礼します」 美枝子はソファーに浅く掛けた。 課長デスクで腰を浮かせた春山捜査一課長がそそくさとソファー に寄ってきた。 「課長の春山です。きょうは」 春山課長は名刺をテーブルのうえにさしだしソファーに背中を擦り つけ瓜実顔の美枝子に蕩れる。 「お忙しいところをお呼びたてしまして」 春山課長はライターでタバコをつける。 「多摩さんのプライバシーに触れることになるかもしれませんが・・。 あなたと松瀬病院長とのご関係についておうかがいします」 紫の煙を噴きあげた春山課長はおだやかにきりだした。 「はい。松瀬教授はもともと、その」 美枝子は瓜実顔の愛狂しいまなざしで春山と視線をあわせる。 「心臓外科の教授でしたが、前任の病院長が定年退職したあと を受け、先輩の教授らを追い抜いて病院長に就任なさいました。 その就任と同時に、あたしは病院長秘書に抜擢されました」 「なるほど。あなたと松瀬教授とのご関係が病院長とその秘書と いう関係であることはわかっていますが、あなたは病院長室の 秘書に抜擢されるまでは、桜門大学お茶の水病院では、どの ポジションに配属されていましたか」 春山課長は灰皿にタバコの吸いさしをすりつぶした。 「はい。あたしは桜門大学付属の第二高等学校を卒業してから桜門 大学お茶の水病院の医事課職員として採用されました。当初は眼科 外来で受付事務を担当していましたが、その後、整形外科、内科を 経て皮膚科に移りました。最後に外科の受付事務に配属されました」 「ほう。それで松瀬教授との出逢いはいつごろからでしたか」 「はい。それは、あたしが外科の外来受付事務に配属されたときから です。外科の外来受付は、心臓外科、脳外科、消化器外科とも、おな じひとつの窓口で一手に事務を処理してましたから、ときおり教授とも 顔をあわせていました。はい」 「そうでしたか。ところがそのォ」 春山課長は突然、ポーズを変え、勘ぐりのまなざしになった。 「松瀬教授が心臓外科の部長教授から先輩の教授らを追い抜き、一気 に病院長にしあがると、あなたは、いわば3段跳びで一挙に病院長室の 秘書に抜擢された。この間の事情からみて、おふたりの間には、なにか こう特別の関係があったのではないでしょうか」 「いいえ。特別の関係などありません。ただその」 多摩美枝子は愛狂しい瓜実顔を澄ませたままである。 「特別の関係といえるかどうかわかりませんけど。あたしの高校時代の 学級主任の先生がたまたま松瀬教授の実弟であったことが、あとで 判明しました。社会科担当の先生でしたが、この恩師からの働きかけが あったのかもしれません」 「なるほど。ところでその」 春山課長はライターでタバコをつけた。 「多摩さんのご実家はどちらになっていますか」 「あたしの実家ですか。あたしの実家は東京の西部にあたる小京都 といわれる梅林市になっています」 「小京都ね。たしかにあそこには京都の面影がありますね。裏通り には小阪があったり、神社仏閣が散在していたり、わしにとっても 大好きな郊外都市になっています。その梅林市でしたか。そうする と郊外からの通勤はたいへんでしょう」 春山課長は、ソファーに背筋をすりつけ紫の煙を噴きあげた。 「はい。通勤快速などあしの速い電車もありますが、あたしは勤務先 の大学病院から10分ほどの賃貸マンションにひとりで住んでいます から、通勤の不便は感じていません」 「そうでしたか。すると」 春山課長はタバコのすいさしを灰皿の縁に載せた。 「そのマンションはお父さんのの名義で賃借されているんですか」 「いいえ。あたしの名義つまり多摩美枝子の名義ですけど」 「そうですか。あなたのお住まいは千代田マンション3階の350号 室にまちがいありませんか」 春山課長は瓜実顔を覗き込んだ。 「どうしてまた」 多摩美枝子の瓜実顔に動揺がはしった。 「そんなことまで、おわかりなんですか」 「実は、松瀬病院長を殺害したと自供して公訴を提起された白山 咲一被告人が、あなたのマンションの浴室で松瀬教授を殺害した と言ってるんですがね」 「まさか。そんなあ・・・。もしかして」 白く愛狂しい瓜実顔はおおきくひきつった。 「白山さんというと司法書士の白山先生ですか」 「そうですよ。司法書士の白山咲一ですよ。あなたは白山被告人を ご存じでしたか。白山さんは殺人事件の被告人として公判にかけら れているのですよ。ご存じなかったんですか」 春山課長は、灰皿に載せていたタバコのすいさしを摘みあげた。 「はい。松瀬教授の事件があってからは気が動転して新聞もテレビ もみていないもんですから」 「むりもありません。あなたは松瀬病院長の秘書でしたからね」 「でも課長さん。あの」 多摩美枝子は愛狂しい瓜実顔のくちを尖らせた。 「白山先生が、あたしのマンションにはいれるはずがありません。 あたしが千代田マンションに居住してることを白山先生はご存じ ないはずですし、それに鍵がなければマンションにはいることは できません」 「ところが、あなたのマンションに侵入したというんですよ」 「まさか。そんなあ。鍵はちゃんといつもの場所にありましたし、 窓もドアも壊された形跡はありません。白山先生は、いったいどう やってマンションに侵入したというんですか」 「それがですね。実は、その」 タバコのすいさしを指に挟んだまま春山課長は瓜実顔に惚れる。 「千代田マンション350号室の入り口のドアの脇におかれていた 南天の植木鉢の陰から鍵を持ちだして侵入したらしいんですよ。 マンションに侵入して、遣るだけのことをやってから、電灯も消し、 ドアもちゃんとロックして鍵は元の場所にもどしたと、白山は供述 しているんですがね」 「どうしてまた、その」 多摩美枝子の瓜実顔は信じられないという表情になった。 「あたしの鍵の在りかがわかったんでしょうか」 「それはですね。ええと、その」 春山課長は、いくらか栃りぎみですいさしを灰皿にすりつぶした。 「それは現段階では言えませんが。とにかく南天の鉢の陰からキー をとりだして350号室にはいり、マンションの浴室で松瀬教授を殺害 したと白山は供述しているんですがね」 「そんなはずはありません。絶対に」 多摩美枝子の瓜実顔に緊張がはしった。 「白山先生は、そんなことができる人ではありません。なにかのまち がい、いや、白山先生は、なにかの訳があって虚偽の供述をなさって いらっしゃるにちがいありません」 瓜実顔は、気性の激しさを露わにして反発した。 「どうしてまた、その」 春山課長はシガレットケースからタバコをひきぬいた。 「そんな断定的なことがいえるのですか」 ライターでタバコをつけた春山課長は紫の煙を噴きあげた。 「はい。あたしの父は多摩梅吉ともうしまして、古くからの植木職人と して、庭木の手入れで永年にわたり白山先生のお宅に出入りして、お 世話になってきました。あたしも高校生のころ、父を手伝って白山先生 のお宅にうかがっております。白山先生は、膨大な法律の知識をおも ちで、滅多に人を殺めるような方では決してありません。あたしは、そう 信じております」 「しかし現に白山被告人は沢井法夫検事を殺害して、執行猶予付きと はいえ有罪判決がでているでしょう。このことは、あなたもご存じの はずですが」 「はい。たしかにそうです。しかしそれは」 男を魅きつける愛狂しい瓜実顔が憤りの表情にかわった。 「そもそも沢井検事さんに、職務怠慢という特別の事情があったこと から、『公益の代表者たる検察官がなんたることだ』と、白山先生の 正義派としての激しいご気性が爆発したものと聞いています」 「ほう。どうしてまた」 春山課長は首を捻った。 「そんなことまで、ご存じなんですか」 「はい。その事件当時、白山先生の弁護人だった弁護士の菊野先生 から聞きました。白山先生の過激なアクションは、無能検察官を排除 するため、無能検察官に俸給を支給するのは税金の無駄遣いだとし て、当局に対して警告なさったものと教わっております」 「それにしても、菊野弁護士と多摩さんとは、そもそも」 春山課長はソファーに身を乗りだした。 「どういうご関係ですか」 「はい。菊野邸の庭木の手入れも父が請け負っておりましたから、 あたしも父が刈り込んだ庭木の枝の整理など父のお手伝いで、 菊野邸にうかがったことがあります。その日の仕事がおわると、 応接室にまであげていただき、父は好物のビールをご馳走になり ました。あたしに小型トラックの運転をさせるため、父はあたしを 連れて菊野邸に出入りしていたのでした」 「なるほど。そうでしたか。ところで多摩さんは、なぜマンションの 鍵を南天の鉢の陰などに保管しておくのですか」 春山課長の脂ぎった顔は、怪訝な表情にかわった。 「はい。実は千代田マンションのオーナーは、日弁連の会長まで 努めあげた大物弁護士さんで、賃貸借契約の条件が厳しく、鍵は 1個しか交付しないが、合鍵を複製してはならないという特約がつ いていたからです」 春山『この女がマンションの鍵を南天の鉢の陰に保管しておくのに は、人には云えないなにか特別の事情があるからだろう。その特別 の事情とは、松瀬との特別な男と女の関係ではあるまいか』 春山課長は、胸のうちでそう勘ぐった。 「そいうわけでしたか。しかし、だからといって、あなたはおひとりで マンションにお住まいのはずですから、わざわざ、ひとつしかない、 貴重なキーをそんなところに保管しておく必要はないとも考えられ ますが。これは、どうみても、おかしいんじゃないかね」 「はい。それは、その」 多摩美枝子は春山課長の視線を避けて目を逸らしてしまう。 春山『この女は、あと一押しで松瀬との愛人関係を認めるだろう』 胸のうちで呟いた春山課長は鋭い視線を瓜実顔に浴びせる。 「どうしてですか。多摩さん」 「はい。それは」 美枝子は戸惑いを隠しきれず俯いてしまう。 美枝子『ここは、でっちあげでゆくしかない』 腹を決め込んだ美枝子はでっちあげの理由を模索する。 「実は、高校時代のクラスメートが出入りすることもありますので ごく親密な友人にだけ鍵の在りかを知らせ、あたしが留守のとき でもマンションにはいれるようにしておいたからです」 「なるほど。そういう」 春山『この瓜実顔の女は出鱈目なはなしをでっちあげているのだ』 春山課長は胸のうちで多摩美枝子のパフォーマンスを勘ぐった。 「ご事情がおありでしたか。ところで5月13日の夜、あなたが千代田 マンションにお帰りになったとき、鍵はいつものように南天の鉢の陰 にありましたか」 「はい。鍵はいつもの場所にちゃんとありました。例の」 美枝子はいくらか気をとりなおし、春山課長の脂ぎった額のあたり に視線をおいて、胸のうちの動揺を押さえ込んだ。 「南天の鉢のうしろの土のなかに牛乳瓶を埋めまして、ビンの底には キッチンペーパーを押し込んで底上げし、そのうえに鍵をいれ、造花 の椿の枝でカバーしてあるのです」 「なるほど。それで当夜、あなたがお帰りになったとき、その鍵の保管 の仕方に変化はみられませんでしたか」 「はい。鍵はいつもの状態できちんとされていました」 「その当夜、あなたがお帰りになってマンションにはいられたとき、 部屋のようすとか、とくに浴室などに、なにかこう変わったことは、 感じられませんでしたか」 「はい。その夜も別にこれといった変化は感じられませんでした。 浴室のようすも、たとえばプラスチック製の浴用椅子とか洗面器など も、いつもの場所にちゃんとありました。なにも気がつくような変化は みられませんでした」 「そうですか。きょうは」 春山捜査一課長はソファーのうえで腰を浮かせた。 「いろいろと、ご事情をお聞かせいただき、ありがとうございました。 また、おうかがいしたいことが起こりましたら、そのときにもういちど お越しいただくことになりますので、よろしくおねがいします」 「わかりました。お役にたちませんで。失礼いたします」 多摩美枝子は起ちあがり、軽く会釈して鰐皮のハンドバグを引き 寄せ、捜査一課から廊下へ消えてゆく。
春山課長は、自分のデスクにもどり、回転椅子をぐるりとまわした。 砂山警部が課デスクに寄ってきて、折畳み式椅子をひろげた。 「課長。多摩美枝子は、女優並の稀にみる美形ですな」 「まあね。なんとなく男に好かれるタイプの女という感じだな」 「ところで、聖橋周辺の凶器の探索結果ですが、残念ながらいまの ところ、お手あげの状態です」 「神田川に投棄したと白山が供述している凶器としての出刃包丁や ハサミに剃刀、それに屍体の運搬にもちいた大型冷蔵庫用のダン ボール箱など、いずれも発見するこができなかったかね」 「はい。まったく、どれひとつとして発見できませんでした」 「とにかく、第一回の公判期日までに直接証拠としての凶器を発見 できなければ、公訴の維持は困難になってしまう。そうなると五十嵐 検事から叱責されることは避けられない」 「たしかに。課長の仰言るとおりです」 砂山警部は起ちあがった。 「いますぐ、お茶を炒れますから」 砂山警部はお茶の準備にとりかかる。
菊野邸は玉川上水縁に静かな佇まいをみせている。 その周辺は、ブナの新緑で初夏の緑風が爽やかだった。
菊野邸の書斎は、すべての窓が開け放たれ、ときおり爽やかな 玉川上水の川風が舞い込んでくる。 壁に掛けられた『日捲りカレンダー』は1999年5月20日の木曜日 になっている。 デスクのうえのおおきな置時計は、午後7時30分をしめしている。 どっしりとしたおおきなデスクに向かい菊野文彦がパソコンのキーを たたいている。 机上で電話のベルが鳴り響く。 文彦は受話器をとあげる。 「弁護士の菊野ですが」 「あたし、梅吉の娘の美枝子です」 「ああ。美枝子さんかね。すこしは元気を取りもどしましたか」 「はい。実は、警視庁捜査一課から呼び出しを受けまして、事情聴取を うけましたが、春山捜査一課長のくちから、白山先生が公訴を提起され たと聞かされました」 「ええまあ。いま東京拘置所に未決囚として拘禁されています」 「そうですか。ちょっと信じられなかったもんですから、お電話させていた だきました」 「それで、春山課長には、なにを聞かれましたか」 「はい。あたしが住んでいる千代田マンションのことや松瀬教授との関係 を根掘り葉掘り問い質されました」 「おそらく白山君の供述の真否を確認するために、そのウラをとりたかっ たのでしょう」 「そうかもしれません。それで白山先生が松瀬教授を殺ったなど、あたし には信じられません」 「白山君は、虚偽の供述をしてるものとみています」 「やっぱりそうですか。なんでまた、そんなことを」 「白山君は沢井検事殺害事件で警察や検察に吊るしあげられたので、 松瀬事件で逮捕されたのをもっけの幸いとして、警察や検察を愚弄する 魂胆なんでしょう」 「そうですか。なにかの企てがあるかもしれないとは、おもってましたが。 それで、今回も菊野先生が弁護なさっていらっしゃるのですか」 「ええ。白山君には松瀬を殺害する動機はあるかもしれないが、実行犯で はないと見てます。現に凶器その他の直接証拠は発見されていないし、 今回は誤認逮捕による違法な起訴として、無罪を主張し、できれば、第1 回の公判期日まえに公訴を取り下げるよう五十嵐検事と駆け引きする考 えなんだがね」 「そうですか。白山先生のこと、よろしくおねがいいたします」 「ああ。白山君のことは心配しないでいい」 「わかりました。ありがとうございました。失礼いたします」 「ああ。君もからだに気をつけて」 「はい。ありがとうございます」 「それでは。また」 電話はそこできれた。 文彦はふたたびパソコンのキーをたたきはじめる。 北日本大学の女教授から依頼された離婚訴訟の答弁書を作成している ところであった。 廊下で足音がして佐保子が書斎を覗いた。 「あなた。お食事ができました」 「ああ。それじゃ、飯にするか」 菊野文彦は回転椅子をぐるりとまわし、腰を浮かせた。
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