警視庁脇の桜田通りでは、濃緑になったマロニエの並木が一幅の絵 画のようにつづいている。 マロにエの並木通りの一角には、磨きあげられたインド黒石に刻み 込まれた検察庁という太い文字が浮かびあがる。
春山捜査一課長は白山の供述書に唯一の現場遺留品であるロープ を添え、凶器などの直接証拠が発見されないまま地検に書類送検し、 聖橋事件の捜査を検察庁にバトンタッチしてしまった。
東京地検・五十嵐検事室の白い壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が 黒く太い文字で1999年5月17日をしめしている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時になる。 どっしりとした検事デスクに厳然と構えた五十嵐検事と対峙している のは白山被疑者であった。 手錠をはずされた白山被疑者は検事デスクのまえで胸を張り、その 姿勢は検事デスクのまえに引き出された被疑者らしくはなかった。 オールバックに梳られた黒髪ながらその項に白いものがちらつき はじめた五十嵐検事は白山の供述書をあちこちと捲りつづける。 「それでは白山さん。いまから取り調べにはいります。白山さんが先 夜、留置所で」 五十嵐検事は被疑者に鋭い眼光を浴びせる。 「丹念に書かれた供述書を拝見しました。深夜の供述書の作成ご苦 労さまでした。さっそくおたずねしますが。この供述書に記載された 事実はすべて真実ですか」 「はい。客観的に実在した歴史的事実をそのまま記載しました」 「念をおしますが、ここに記載された事実に偽りはありませんか」 五十嵐検事は被疑者の額を射抜くような鋭い眼光を照射する。 「はい。偽りはございません」 白山被疑者は検事の額のあたりをじいっと見つめる。 「そうすると、この供述書に」 検事は被疑者の目を凝視して念を押す姿勢になった。 「記述されている内容はそのまま検察官面前調書に作成しても異議 はありませんね」 「はい。結構です」 「ところで、この供述書では」 五十嵐検事は供述書を閉じ、ぱんと平手でたたいた。 「明らかにされていない事項について糺しますから、偽りを述べずに 真実をそのまま述べてください」 「はい。わかりました」 「ええと。被害者の両方の手首を縛っていたロープですが。これは どこから、どのようにして入手されましたか」 五十嵐検事の目はきらりと光った。 「はい。そのロープは、顔見知りの桜門大学お茶の水病院の清掃員 の男に頼み込み、病院の倉庫から持ち出させました」 これまで胸を張っていた白山は肩を窄め俯いた。 「その清掃員の方と白山さんは、どういう関係にありましたか。できる だけ具体的に説明してください」 「はい。それはそのォ」 一瞬、ちらっと検事に視線をあわせた白山は、すぐ膝のうえに目を おとしてしまった。 「いうなれば飲み仲間です。ただそれだけの関係です」 「飲み仲間ね。ただそれだけの関係しかないのに」 検事の目は、底深く疑惑のまなざしに変わる。 「大学病院にとっては大切な備品である非常脱出用のロープをよく まあ持ち出してくれたもんですね」 「ええ。それはそのォ」 白山被疑者は戸惑った。 「その男に、云ってみれば鼻薬をかったからだとおもいます」 「鼻薬ですか。でもその鼻薬といいますのは」 「はい。それはそのォ」 白山被疑者は二の句をためらった。 「要するに鼻薬は鼻薬にすぎません」 「同義反復では説明になっていません。もっと具体的にはなしてく ださい。鼻薬としてなにをもちいたのですか」 追い詰められた野兎のように白山は逃げ場をうしなった。 「はい。具体的に云いますと。実は駿河台下のソバ屋の二階の和食 コーナーでいっしょに飲んでいたとき、その男が大学病院の清掃員 だと識り、お銚子を1本つけ、彼の耳元で3万円渡すからロープ を持ち出してくれと頼みました」 「つまり病院の大切な備品であるロープをもちだしの報酬として3万 円わたすという約束をとりつけたわけですね」 「はい。検事さんの仰言るとおりです」 「そのロープを受け取ってから清掃員に3万円をわたしましたか」 「いえ。まだ渡していません。渡さないうちに警視庁捜査一課から 出頭命令がきて、出頭したらば、逮捕状もでていないのにそのまま 地下室の簡易ホテルに放り込まれましたから」 「なるほど。地下室の簡易テルにね。それで」 途端に五十嵐検事のまなざしは厳しくなった。 「約束どおりそのロープを持ち出してくれた人の名は」 「はい。それは申しあげられません」 「どうしてですか。調べればすぐに判明しますが」 「検事さん。当然のことを訊かないでください」 「当然のことと云いますと」 「頼んだことの問題が問題だけに、こちらの頼みを聞いてくれた人 の名前を供述すると、その人に迷惑がかかります。よほどのことが ないかぎり、その名前を云えるわけがありません」 「なるほど。その点はこちらで探索しましょう。ところで」 五十嵐検事はいっそう厳しい姿勢になった。 「問題のロープのほかにも犯罪供用物件、つまり被害者の髪の毛を カットした鋏とか、被害者の頭を丸坊主にした剃刀などはどうされま したか」 「はい。鋏も剃刀もビニール袋に入れて神田川に棄てました」 「すると、両眼を抉り取り、両耳や被害者の陰茎とか睾丸を切断した 出刃包丁はどうされましたか」 五十嵐検事の追及はいっそう厳しくなってきた。 「ええと。その出刃包丁もスーパーの買い物袋に包んで神田川に投げ 込みました。はい」 「被害者の遺体の運搬に供用したワゴン車は、犯罪供用物件として 押収しましたが、屍体を入れた大型冷蔵庫用の段ボール箱はお宅の 家宅捜索でも発見されませんでした。それはどこにありますか」 「はい。その箱は切り刻んで町内のゴミ収集場に生ゴミといっしょに だしましたから、もう焼却されたことでしょう」 「そうでしたか。ところでそのォ」 五十嵐検事の目は穏やかになった。 「あなたの弁護人として選任できる弁護士はおりますか」 「はい。公判になりましたらば、菊野弁護士に弁護をおねがいする つもりです。沢井法夫殺害事件の弁護人だった先生です」 「そうですか。でしたら国選弁護の手続は要りませんね。きょうの 取調べはこれでおしまいにします。警視庁の地下室のホテルでゆっ くりとお寝みになってください」 杉山検察事務官が目配せすると待機していた係官は起ちあがった 白山被疑者にがちゃりと手錠を嵌めた。 係官と捕縄で繋がれた白山被疑者は五十嵐検事室から消えてゆく。
五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年5月 17日になっている。 黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。 昼食のあとで杉山検察事務官はコーヒーを炒れ五十嵐検事のデスク にはこんだ。 杉山検察事務官が自分のデスクで熱いコーヒーをひとくち啜り あげたところへ円筒形脱毛症紛いで脂ぎった顔の春山捜査一課長が はいってきた。 杉山検察事務官に勧められて春山課長がソファーに座りかけたとき 五十嵐検事がデスクを離れソファーに寄ってきた。 「白山の取調べはどうなりましたか」 春山は検事が摘んだタバコにライターで点火のサービスをした。 「ええ。大筋で供述書の内容はいちおうたしからしいが。凶器は神田川 に投棄したと供述している」 「そうですか。凶器は神田川に棄てましたか」 「この供述書の信憑性は低いが。直接証拠の凶器が発見されなけれ ば、起訴しても公訴の維持は困難だ。たいへんな作業になるかもしれ ないが、聖橋の周辺一帯を対象として神田川を捜索してくれないか」 「わかりました。もういちど丹念に捜索してみます」 「凶器の探索地域を前回よりも神田川の下流にまで拡大してみてく れませんか。凶器を発見できる可能性は薄いが、とにかく凶器の発見 に全力投球してください」 「それでは、いまからさっそく」 春山捜査一課長は、あたふたと検事室をでていった。
多摩鉄道幸福駅の長いプラットホームからオレンジ色をした郊外 電車がゆっくりと滑り出してゆく。
幸福駅前ビル8階の外壁に掲示された白い生地にグリーンの文字 で『菊野法律事務所』と刻み込まれた看板が蒼い空をバックにくっきり と浮かびあがる。
菊野法律事務所の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年 5月17日になっている。 壁時計の長針がぴくりとうごき午後4時30分になる。 事務コーナーの窓を背にしてデスクに向かった菊野弁護士が判例 集をひろげている。菊野はあちこちページを捲る。 机上で電話のベルが鳴り響く。 菊野弁護士は受話器をとりあげる。 「弁護士の菊野ですが」 「地検の五十嵐です」 「ああ。どうも。きょうは、なんでしょうか」 「実は白山被疑者の供述を録取した検察官調書を作成し白山を起訴 することになった」 「れっきとした証拠もなしに起訴するとはなにごとですか」 「いや。公判期日までには証拠を揃えるつもりだ」 「それで、白山君は、いまどこに拘留されているんですか」 「今夜は警視庁だが、あしたは東京拘置所に移送する予定だ」 「ずいぶん、手回しがいいんだね」 「まあね。それで弁護人には君を選任すると云ってるんで、国選はつ けないことになった。それでちょっと知らせたわけなんだ」 「ああ。どうも。できるだけはやく拘置所に顔をだします」 「それでは」 「どうも」 電話はそこできれた。 菊野文彦は受話器を置いて起ちあがりながらシガレットケースから タバコを引き抜き、くちに銜えて応接コーナーに向かう。 ライターでタバコをつけソファーに凭れ、天井に向け紫の煙を吐く。
菊野『五十嵐検事は、白山君の供述書内容の真偽について被疑者を 糺し、その結果、基本的にはその内容にしたがって検察官面前調書を 作成したのであろう。そもそも白山君の供述書の信憑性はきわめて低 いと見られる。信憑性の低い供述書を土台にして作成された検察官面 前調書の内容は、推して知るべしだ。五十嵐検事はその内容に疑問を 抱きつつも、白山が沢井検事殺害事件の前科があることをも考慮して 起訴にふみきったものだろう。五十嵐検事にしてみれば第1回の公判 期日までには、凶器など直接証拠は発見できると目論んでいるのかも しれない。しかしこの目算は、いかにも甘すぎる。白山君が虚偽の供述 をしているならば、凶器などはじめからあるはずがない。春山捜査一課 長も五十嵐検事もロウタケタ白山君に翻弄されてるにちがいない。とに かく、できるだけ早い機会に拘置所に顔をだすことにしよう』 菊野はソファーで腰を浮かせ、灰皿にタバコの吸いさしを磨り潰した。
春山捜査一課長は、聖橋の現場で陣頭指揮をとり、捜査陣を叱咤し て神田川周辺一帯にわたり、凶器の発見に全力投球した。だが、その 捜査は困難を極め、凶器の発見はできなかった。 それにもかかわらず五十嵐検事は、白山の供述にもとづいて作成し た検察官面前調書に、押収したワゴン車の写真および非常脱出用の ロープを物的証拠として白山被疑者に対する公訴を提起した。
五十嵐検事は、白山の供述を手掛かりにして、松瀬教授の愛人だと いわれる秘書の多摩美枝子について事情聴取をするよう春山捜査一 課長に命じた。
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