警視庁捜査一課では、黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりと うごき午後6時になる。 地下留置場で白山が壁に寄りかかり目を瞑っていたところへこつ こつと留置係官の靴音が響いてきた。 「すみません。あのォ」 白山は鉄格子に手をかけ係官を呼び止めた。 「ワープロと感熱紙をさしいれてください」 「わかりました」 薄暗い地下留置場に係官の靴音が遠のいていった。
壁に寄りかかった白山がうとうとしていると、こつこつと靴音がして 係官が近づいてきた。 「はい。シャープの書院と感熱紙です」 係官は鉄格子を開けた。 「なにを書くんですか」 「はい。供述書を書きます」 「できるところまででいいですから、むりしないほうがいいですよ。お宅 は高齢者なんだから」 やさしいことばをのこして、係官はこつこつと靴音をさせ立ち去った。 「はい。お気遣いありがとうございます」 ひとりごとを云いながら白山は起ちあがった。 個室の片隅の粗末なデスクに向かい書院の蓋を開けた。 白山は背筋を延ばしワープロののキーをたたきはじめた。
あっというまに2時間が経った。 白山は個室の片隅で白い陶器の水洗トイレにたった。 デスクにもどった白山は、最後の1枚を印刷した。印刷さ れた数枚の感熱紙を両手でもちあげ、デスクの表面でとん とん軽くたたき、感熱紙のミミを揃えた。 「これでよし。あとはミスプリの点検だけだ」 ひとりごとを云いながら、うっと背伸びをした白山は、まだ 手をつけていなかった夕食に箸をつけながらできあがった 供述書をよみはじめる。
◇ 白山咲一の供述書 ◇
確定日付ある正式の文書によるわしの損害賠償請求を無視し、 握り潰されたままの日々が続いた。松瀬教授の傲慢な態度に対し 憤りの炎が燃え盛ってきた。そもそも確定日付ある正式の文書に よって損害賠償を請求された場合、法律事務所に弁護士を訪ね、 回答書を作成してもらうのが常識だろう。それにもかかわらず、 これを握り潰すとはもってのほかだ。松瀬病院長は一流の大学 教授という肩書きを傘にして傲慢にもわしの請求を無視してきた。 このような不遜な態度を黙認することはできない。もしこれを黙認 するならば、社会秩序維持の要請に反することになる。乱れた 大学病院内の秩序を不問に付し温存することは許されない。クラ ンケの人権を無視したような医事課職員の違法行為を見逃すわけ にはいかない。本来其の相手方が任意に其の責任を履行しない場合 には、裁判上の手続によって、原告の請求の当否について裁判所 の公権的判断を仰ぐべきである。しかし松瀬病院長のように傲慢な 者に対しては、裁判上の手続きなど迂遠な手段では埒があかない。 そこでわしは、思い切って強硬手段に出る決意をした。松瀬病院長 のような男を大学病院のトップの座に留めおくことは、多数の患者 のためにならない。なんとしてもこの男をトップの座から引きずり降ろ さなければならない。そのための最たる手段は松瀬病院長を消し去 ることだ。わしは、すでに沢井法夫検事を殺害している。あんな無能 な検察官に俸給を支給することは、税金の無駄遣いになるからだ。 人をひとり殺すもふたり殺すことも、要するに殺しは殺しだ。そう思った 瞬間、松瀬病院長に対する殺意が、むらむらと湧いてきた。あの男 は心臓外科の教授に昇格して間もないというのに大学内部の権力 闘争で勝利し、一挙に病院長にのしあがったのだ。わしも永年にわた り循環器科で受診してきたので、人をくったような、あの傲慢な松瀬 の態度には以前から腹がたっていた。松瀬は教授の風上にもおけな い強か者だ。あいつの傲慢な遣り方で被害を被っている多数のクラ ンケのためにも、わしが、あいつを始末するしかない。わしが決行 する以上、失敗は許されない。そこでまず松瀬教授の行動調査か らはじめた。その結果、毎週のように判で押したように木曜日と、 土曜日の夜は、千代田マンションに出入りしていることを突き止 めた。千代田マンションは明治大学校舎の脇から爪先のぼりに なっている小高い丘のうえに建っていた。松瀬教授は、千代田マン ションの3階にある305号室にはいってゆくことがわかった。この 部屋は多摩美枝子名義で賃借されていることも判明した。その後 の調査で多摩美枝子は、桜門大学お茶水の病院の医事科職員 であったが、松瀬が病院長に就任してから、美枝子は病院長秘書 に抜擢されていた。美枝子は植木職人の娘で顔は以前から知って いた。それは、とある木曜日の夜のことだった。千代田マンションか ら100メートルほど離れた向い側に建っている「丘の上マンション」 の3階の露出された廊下から双眼鏡で千代田マンションの305号 室のドア付近を監視していたところ案の定、松瀬教授が現れた。 松瀬教授は、ドアの脇におかれていた、かなりおおきな南天の植木 鉢の後ろに手を入れてマンションの鍵を摘みあげ、そのキーを使っ て305号室に入っていった。それから30分後には、スーパーの白 い買い物袋を提げた多摩美枝子らしい女が帰って来た。同夜は松瀬教授 と美枝子は同衾したにちがいない。 そして土曜日にも木曜日のときとおなじ要領で「丘の上マンション」 の露出した廊下で張り込んでいたら、木曜日のときとおなじ光景が 見られた。人目を避けるためか、ふたりで肩を並べてマンションに 入ることはしないようだった。マンションへの出入りには時差を設け ているらしかった。ということは多摩美枝子と松瀬とは、秘書と病院 長という関係を乗超えて、男と女という親密な関係になっていたのだ と想いました。 時間をかけて周到な下調が完了しましたので、あとは決行を待つ ばかりになった。いよいよ決行の日が来た。平成11年5月13日の 夜のことであった。わしは、早めに千代田マンションの305号室を 訪れた。かねて目撃していた南天の植木鉢の後ろから鍵を摘みあ げてマンションの305号室に侵入した。ドアの上の外灯を点灯し、 マンションの部屋の中の電灯もつけ、美枝子が帰宅しているふうに 装った。その後、マンションの浴室に隠れていた。 しばらくして人の気配がした。 「美枝子、美枝子」 と男の呼び声がした。 わしは5年ほど前に松瀬の執刀で心臓に近い部分に発症した脂肪 腫摘出のオペを受けていたので、松瀬の声には聞き覚えがあった。 「美枝子、美枝子」 と、怒鳴りながら男は浴室のドアを開けた。その瞬間、咄嗟に足蹴り をくらわせた。わしは柔道で鍛えていたので、咄嗟の場合には体が自 然に動いてしまうのだ。不意打ちを食わされた松瀬は、その場に卒倒 した。わしは、予め用意していたロープで松瀬の首を絞め上げた。わし は準備していた大型冷蔵庫用段ボールの空き箱を組み立てた。その箱 の中に松瀬の屍体を入れ、見せ掛けの荷造りをした。如何にも冷蔵庫 らしい荷物をマンションの露出廊下に運び出した。電灯はすべて消した。 ドアをロックし、鍵はドア脇の南天の植木鉢の後ろの元の場所に戻した。 冷蔵庫らしき荷物をエレベーターホール迄引きずり、急いで下降した。 マンション脇の木陰に停めておいたワゴン車に段ボール箱を押し込み、 何食わぬ顔で車を発進した。 そのまま新青梅街道に出て多摩方面にひた走り自宅に戻った。 自宅の浴室に段ボール箱を引きずり込んだ。キッチンに入りビールを ぐいと煽った。その後、浴室に戻り、箱の蓋を開けて松瀬の亡骸を洗い 場に横たえた。松瀬の衣類を剥ぎ取った。あの傲慢な男は丸裸になった。 鋏で松瀬の頭髪をバサバサ切り落とした。剃刀で頭を丸坊主にした。出刃 包丁で両眼を抉り取り、両耳を切断した。それでも飽き足らず松瀬の陰毛 を剃り落とし、睾丸ごと陰茎をカットした。もはや松瀬は性の区別がつかな い屍になった。 わしはキッチンに入りビールを煽った。ビールは控えめにしておいた。まだ 作業が残されていた。これから都心に引き返し、聖橋の欄干から松瀬を吊り 下げることにしていたのだ。腹拵えだけはしようと、取り敢えず札幌ラーメン を鍋で煮立て、生卵を落とし、海苔を刻み込んですすりあげた。そのあとで、 30分ほど仮眠を取った。深夜の交通量が少ない時間帯に松瀬を聖橋まで 運ぶことにした。 わしは浴室に入り、水で松瀬の亡骸を洗浄してからバスタオルで拭き、おお きな黒いビニール袋を被せ段ボール箱に収納し、仕立てた荷物をワゴン車ま で運び、エンジンをかけて発車した。 深夜の国道16号線から新青梅街道経由で都心に出た。やがて誰にも疑わ れずに聖橋の近くに到達した。聖橋から10メートルほど離れた道路脇で車を 停め周辺を警戒した。時間は良く覚えていないが、車の流れはなくなり、人通 りもなくなった。聖橋の上に出た。急いで荷物を降ろし、既に松瀬の両手首を 緊縛していたロープを欄干に沿って放置されていたクレーンに掛けた。ロープ の端をクレーンの運転台に縛りつけ、松瀬の亡骸からビニール袋を剥ぎ取り、 欄干まで持ち上げ、クレーンの運転台に縛り付けていたロープを握り締めた。 全裸の松瀬を欄干から滑らせた。クレーンにロープを掛けていたので負担は それだけ軽減された。ゆっくりロープのを握った両手を緩め、全裸の松瀬を吊 るした。一度、ロープをクレーンの運転台に縛りなおし、欄干から川を見下ろし た。あと数メートルで川の水面だと判った。もう一度ロープを緩めた。そしてそ の端をクレーンの運転台に緊縛した。 素早く車に戻り、その場から立ち去った。 以上が、わしの松瀬殺害に関する実行行為のあらましである。 平成11年5月15日 白 山 咲 一
白山は供述書の推敲をおわった。 起ちあがり片隅の水洗トイレにたった。 白山が両足を投げだし壁に寄りかかっていると、こつこつと靴音 が床に伝わってきた。 「できあがりましたか」 靴音がぴたりと止み巡回の係官が鉄格子から覗き込んだ。 「はい。これを」 白山は鉄格子の隙間から供述書をさしだした。 「春山捜査一課長にわたしてください」 「わかりました。そのワープロも返却してください」 扉を開けた係官に白山はワープロと感熱紙をわたした。 「もう遅いですから、朝食の時間まで寝んでください」 鉄格子の扉を閉めた係官は扉をロックした。 壁に寄りかかった白山の耳に、こつこつという靴音だけが浸み込ん でいった。
多摩鉄道幸福駅のプラットホームからオレンジ色の郊外電車が滑り だした。 駅前ビルの8階になっている菊野法律事務所に文彦がはいってくる。 室内には生温い空気が淀んでいた。文彦は窓側のデスクのうえにカ バンを載せた。すぐ事務所の窓を開け放った。ふだんならアシスタント の足立淑子が室内を清掃し、換気をすませているはずだった。足立は 司法試験の『短答式試験』がおわった直後でバテタため、休暇をとって いて留守だった。 文彦がデスクに向かったとき机上で電話のベルが鳴り響いた。 菊野は受話器をとりあげた」 「弁護士の菊野ですが」 「警視庁捜査一課の春山ですが」 「しばらくでございます」 「こちらこそ。実は」 春山課長はいくらか間を置いた。 「沢井検事殺害事件で弁護された白山が松瀬教授殺害を自供したの で、地検に送致することになりました」 「まさかそんな。自白を強要したんじゃないですか」 「とんでもない。白山は、すすんで供述書を書いたんですよ」 「おそらく、その供述書は虚偽の内容でしょう」 「いや。信憑性は高いと見てます。それでこのまま五十嵐検事のもと に送致します」 「それは賛成できませんね。白山は警察・検察を愚弄する魂胆なん でしょう。そうに違いありません。白山に踊らされるとあとで検察が恥 をかくことになりますよ」 「そんなことはありません。とにかく、一応ご報告しておきます。あと で菊野先生にお叱りをいただきたくないんで、お電話をしました」 「お知らせありがとうございました。それでは」 菊野弁護士はデスクから応接コーナーのソファーに移りライター でタバコをつけた。
菊野『春山課長は白山の自供をとりつけ、鬼の首をとったつもりだ が、おそらく白山に踊らされてしまうのがオチだろう。白山は警察と 検察を愚弄する魂胆にちがいない。彼の供述書は、いかにも真実 らしく書きあげた作文にすぎないだろう。白山の供述書の信憑性には 疑問を抱かざるをえない。いずれにしても白山は、五十嵐検事に吊る しあげられることになる。できるだけ早く地検に顔をだすことにしよう』
ソファーに凭れた菊野文彦は、天井に向けて紫の煙を噴きあげた。
|
|