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作品名:目には目を歯には歯を 作者:藤田耕太郎

第43回   入念な弁護作戦
            # 入念な弁護作戦 #

 1999年7月上旬の夕刻には、多摩西部一帯では激しい雷雨になった。
 NHkの気象情報を担当する気象予報士が梅雨明けもまじかになったと
コメントした。
 その翌朝は梅雨の中休みで爽やかな晴天になった。
 激しい雷雨に洗われたせいか多摩鉄道幸福駅前通りでは街路樹の
柳の緑葉がひときわ鮮やかになっていた。

 多摩鉄道の線路を跨ぐように架橋された自由橋を渡ってきた菊野
弁護士が幸福駅の東口に降りてくる。
 菊野弁護士は柳の並木道をゆっくり歩き、10階建ての駅前ビルに
吸い込まれてゆく。

 幸福駅前ビルの8階では、廊下の一番奥に金文字で菊野法律事務所
と刻みこまれた重いドアが浮かびああがる。
 エレベーターから降りてきた菊野弁護士はドアに手をかけ事務所のなか
に消えてゆく。
「おはようございます」
 デスクに向かってパソコンのキーをたたいていた足立淑子は起ちあがり
お茶の準備にとりかかる。
 白い壁に掛けられた「日捲りカレンダー」は1999年7月12日月曜日を
しめしている。
 壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時になった。
「お茶がはいりました」
 足立淑子は麦茶のグラスを菊野のデスクのうえにさしだす。
「これから小菅にゆき石川君に接見してくるから。あと頼む」
 菊野は麦茶をすする。
「はい。かしこまりました」
 足立淑子はにこりとする。
「それでは」
 菊野弁護士はチョコレート色のおきな鞄を引き寄せる。
「わかりました。多摩美枝子さんもごいっしょですか」
 足立淑子はパソコンの手をやすめ起ちあがる。
「そうなんだ。幸福駅のホームで待ち合わせて東京ゆきの特別快速電車に
乗ることになってるのだ」
「行ってらっしゃい」
 足立淑子の声を背にしながら菊野弁護士はドアを押した。
 
 多摩鉄道幸福駅のプラットホームで、ブルーのスーツに鰐(わに)皮のハンド
バッグを提げた多摩美枝子が電車を待っている。
 菊野弁護士がプラットホームに降りてくる。
「先生。おはようございます」
 多摩美枝子は小走りに菊野弁護士に近づいてゆく。
「だいぶ待ちましたか」
「いいえ。いまホームに降りてきたばかりです」
「そうでしたか。プライオリテーシートに座ることにしましょう」
「はい。ちょうどここが特別席の乗り場になってます」
「そうだね。電車がきたようだ」
 オレンジ色をした10輛連結の電車が滑り込んでくる。
 かなり多数の乗降客に混じって菊野弁護士が電車に乗り込む。多摩美枝子が
そのあとにつづいて電車に乗り込む。
 ドアが閉まり、電車は発車する。
 菊野弁護士は優先席に腰をおろす。その脇に多摩美枝子も掛ける。
 オレンジ色の電車はしだいにスピードをあげてゆく。
 10輌連結の郊外電車は武蔵野をはしりつづける。

 東都拘置所正門脇の守衛室を菊野弁護士が覗きこむ。
「未決囚の石川流太郎に接見したいんですが」
「わかりました。未決棟のほうへどうぞ」
 菊野弁護士は拘置所の構内のタウンににはいってゆく。多摩美枝子が
菊野弁護士のあとを追う。
 背高ノッポの時計台では大時計の長針がぴくりとうごき正午になる。

 菊野弁護士らは塀の中のタウンを歩き未決棟のまえに辿りつく。
「こちらが未決の囚人の拘禁棟なんですよ」
 菊野はあとについてきた多摩美枝子を振り向く。
「はい。そうなんですか」
 多摩美枝子はぐるりと周囲を見まわす。
 菊野弁護士は拘禁棟に吸い込まれてゆく。美枝子はそのあとを追う。

 未決囚の拘禁棟では接見室のドアが開いて菊野弁護士と多摩美枝子が
あらわれる。
 人影はなく、ひっそりと鎮まりかえっている。
 穴のあいた如雨露(じょうろ)のあたまを拡大して展開図にしたような透明
で円い穴あき窓に向かって菊野弁護士は腰をおろした。
「こちらに掛けてください」
 菊野に勧められて多摩美枝子もその脇の椅子に座る。
 まもなく接見室の奥のドアが開いて係官に背中を押されて石川流太郎が
あらわれる。
 穴あき窓に近づいてきた石川は深く頭をさげカウンター越しの椅子に腰
をおろした。
「からだのほうは大丈夫ですか」
 菊野弁護士は石川をみつめる。
「はい。塀の中の生活にもかなり順応しましたから」
 そう云いながらちらっと美枝子に視線をながした石川は肩を窄(すぼ)める
ように俯いてしまう。
「流ちゃん ! ごめんなさい。あたしのために。こんな・・・」
 穴あき窓に掌をあてて叫ぶように云った美枝子はカウンターのうえで泣き
伏してしまう。
「泣くなよ。美枝ちゃん。なにも美枝ちゃんのせいじゃないんだから」
 石川は目の前の美枝子に手が届かないじれったさを堪え、からだを乗りだ
して穴あき窓に手の平を押しつけた。
 しばらく美枝子は泣きじゃくる。
 
 菊野弁護士は美枝子の嗚咽(おえつ)が鎮まるのを待った。
「それでは、あしたの公判について打ち合わせをしておきましょう」
 菊野はおもむろにきりだした。
「はい。おねがいします」
 石川は菊野弁護士と視線をあわせた。
「まず、裁判長の人定尋問に対しては素直にこたえてください」
「はい。わかりました」
「次に検察官の起訴状朗読のときには、決して反発したような態度を
とらないで、神妙なポーズをとってください」
「はい。わかりました。神妙にしていることですね」
「そして罪状認否手続きでは、"すべて起訴状のとおりです"と、そのまま
罪状を認めることにしましょう」
「はい。わかりました」
「証拠調べについても、いっさい争わないことにしましょう」
「はい」
「証拠調べをいっさい争わないからといって、決して下手な防御方法という
ことにはなりません。争わないということは、ひとつの作戦なんです。これは
裁判官の心証をよくし、ひいては刑の免除ないしは、少なくとも刑の軽減に
持ち込むための作戦ですからね」
「はい。わかりました」
「このような態度で押してゆけば、公判は1回だけで完了するはずです。そう
だとすれば順調にゆけば、遅くとも8月下旬には判決がでることになります」
「はい」
「もし刑の免除の判決がでたり、刑の執行猶予の判決がでたときには釈放
されます。それでなるべく早く判決をだしてもらったほうが、拘禁生活の期間
を短縮することができますからね」
「はい。よくわかりました」
「美枝子さん。石川君になにか話すことがありましたらどうぞ」
 菊野弁護士は多摩美枝子ほうに向き直る。
「はい。ありがとうございます」
 多摩美枝子は穴あき窓越しの石川流太郎を凝視する。
「あのね。流ちゃん。あたしね。病院は辞(や)めることにしたの。それで父の
仕事を手伝って植木職人の仕事を覚えることにしたの」
 美枝子は石川に微笑みかける。
「そう。そのほうがいいかもしれない」
 石川は美枝子を見つめ、はじめて顔を綻(ほころ)ばせた。
「それでは、あしたの法廷で・・・。例の心理学概論は係りのほうに差し入れて
おきましたから」
「ありがとうございます」
 石川は起ちあがり深く頭を垂れる。
「あっ ! 美枝ちゃん。親父は戸惑っているかもしれないから、"流ちゃんには
菊野先生がついてるから心配ない"と親父のところへ顔をだしといて。頼む」
 石川は美枝子をみつめる。
「お父さんの身の回りのことはあたしがやるから、安心してね。流ちゃんが
自由になれる日をみんで待ってるから」
 美枝子は石川に向かって微笑(ほほえ)む。
「菊野先生、ありがとうございました」
 石川はもういちど頭をさげ、接見室の奥のドアから消えていった。
 多摩美枝子は深い溜息を吐いた。
「それではひきあげましょう」
 菊野弁護士はチョコレート色のおおきな鞄を引き寄せた。
 起ちあがった菊野弁護士は接見室の入口に向かった。
 多摩美枝子はそのあとにしたがい、接見室から消えていった。


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