# 菊野弁護士の接見 #
東都拘置所正門脇の守衛室では壁に掛けられた「日捲りカレンダー」が1999年6月30日水曜日になっている。 菊野弁護士が拘置所入り口で守衛室の窓口を覗(のぞ)きこんだ。 「未決囚の石川流太郎と接見したいんですが」 「どうぞ」 守衛の返事を背にして菊野弁護士は塀のなかのタウンにはいってゆく。 塀のなかのタウンには、拘置所という暗い面影はどこにもみられない。塀の外の街並みとほとんど変わらない風景であった。 高くそそりたつ時計台では大時計の長針がぴくりとうごき午前11時になった。 チョコレート色のおおきな鞄を提げた菊野弁護士は未決囚の拘禁棟に吸い込まれてゆくのだった。
未決囚の拘禁棟では、特別接見室のドアが開いて菊野弁護士がはいってくる。 菊野弁護士は如雨露のあたまを拡大して展開図にしたような円く透明な穴あき窓のまえの椅子に腰かけ、カウンターのうえに鞄を載せた。 森閑(しんかん)として物音いとつしない接見室の奥のドアが開いた。すると係官に背中を押されるように石川流太郎があらわれた。 係官は奥のドアから消えてゆく。 蒼ざめてやつれた顔つきの石川は穴あき窓に近づき軽く頭をさげ椅子に掛けた。 「からだのほうはだいじょうぶですか」 菊野弁護士は俯(うつむ)いたままの石川に憐れみのまなざしを浴びせる。 「はい。娑婆(しゃば)から隔絶された塀のなかの暮らしは生まれてはじめての経験なんで、当初は戸惑いましたが、そのうちいくらか順応してきました」 石川は顔をあげて苦笑いをする。 「まあね。拘禁生活というものは、直接的には身体の拘束というかたちになりますが。実質的には精神的自由の拘束のほうが、より強く感じられるのでしょう。これまでわしが弁護してきた被告人のほとんどがそう漏らしているんですよ」 「はい。たしかに先生のおっしゃるとおりです」 「でも精神的な拘束状態というものは、自分自身のマインドコントロールによって緩和することができるはずです」 「はあ。いわれてみればたしかにそうかもしれません」 「自分自身の精神的自由、つまり精神的な拘束からの逃避というものは、自力で左右することができる筋合いのものですよ」 「はい。自分自身の心の在り方、気のもちようということでしょうか」 「まあ。そういうことでしょう。ですからここから先の塀のなかの暮らしには心理学上の法則を最大限に活用することが大切になります」 「はあ。心理学は大学の教養課程で履修しましたが、ただその履修に必要な単位を取得するためだけでしたから、心理学上の法則もほとんど身についていません。恥ずかしいことですけど。ほんとうに」 「それでは、のちほど心理学の教科書を一冊差し入れしましょう」 「ありがとうございます」 石川は菊野弁護士と視線をあわせた。 「わしは法律が専門ではあるが、自称心理学者のひとりなんだ。もう20年以上も心理学の研究をつづけているからね」 「そうですか。法律家のお仕事には心理学の習得が必要なんですか」 「ええまあ。法律家といわず、人の命をあずかる医師とか、死期を迎える人や死後の葬儀などを受け持つ宗教家など人間が限界状況にたたされたシチュエーションにおいて、そのクライアントを指導する立場にあるその途の専門家たちは、すべて心理学者でなければなりません。というのがわしの哲学でしてね」 「はあ。そうですか。でもそれはまたどうしてですか」 穴あき窓越しに石川は身をのりだした。 「それはですね。人間が限界状況にたたされたとき、手を差しのべてやるべき社会的使命を担うこれらの専門家は、なんといってもクライアントの心的活動状況つまりその人の内心の真相を理解する力がなければ、被告人を弁護したり、クランケの生命を救ったり、死期を迎えた生身の人間を一切の煩悩(ぼんのう)から離脱した不生不滅という涅槃(ねはん)の境地に誘(いざな)うことはできないからです」 「はあ。いわれてみれば、そうした社会的使命を担った人たちにとって心理学の習得が大切であることはよくわかりました。先生の哲学は素晴らしい」 「ええまあ。それで石川君がその気なら、さっき云ったように、あとでわしの蔵書のなかから心理学概論を1冊差し入れることにしましょう」 「ありがとうございます。ぜひ、おねがいします」 「ところで君の事件についてだが、聖橋事件およびお茶ノ水橋第二事件について起訴され、わしのところに起訴状が送達されたんだ。起訴状を読んでみるかね」 「いいえ。読みたくありません。起訴状を読めばそれこそ、もういちど動揺して心理学的にもよくありませんので。そして公判廷でも罪状を否認するつもりはありません」 「それもそうだね。ともかくこれらの2個の事件は併合審理されることになりますが、公判廷における態度や応答については、第一回公判期日の前の日に、もういちど打ち合わせに来ますから」 「よろしくおねがいします」 「ところで美枝子さんなんだがね」 「美枝子も起訴されたんでしょうか」 「それがね。"こんかいの事件の最大の被害者は松瀬教授や落合賢次課長や竹山茂太郎 事務長ではなく、多摩美枝子さんだ"というのが五十嵐検事の考え方でしてね」 「それは検事さんのおっしゃるとおりだと、ボクもおもいます」 「それで五十嵐検事としては、死体損壊遺棄罪について不起訴処分にすると主張したんだがね。部長検事がそれに反対してね。部長検事としては起訴したいといって、真っ向から五十嵐検事と対立して結論がだせなかった。そうこうしてるうちに、再逮捕した多摩美枝子さんについて起訴前の拘留期間が迫ってきた。そこで結局、検事正の判断に一任することになったんだ」 「それで、その後どうなったんですか」 「東都地検の最高責任者たる検事正としては、五十嵐検事の考え方を採用し、拘留期間 ぎりぎりで美枝子さんは釈放されたんだ」 「それで美枝ちゃんはマンションに住んでいますか」 石川被疑者は、ほっとしながらも一抹の不安を残した眼差しで菊野を見つめた。 「いや。マンションはひきはらった。精神的に落ち着くまでは心配だということで青梅の実家に帰り、お父さんの梅吉さんといっしょに暮らしている。しばらく静養することになった」 「そうですか。いろいろと情報をありがとうございます」 「そのうち美枝子さんが落ち着いたら、わしがこちらへ連れてきましょう」 「はあ。よろしくおねがいします。ところで弁護士費用のことなんですけど、菊野先生にはどの程度の費用額をお渡しすべきでしょうか」 「いや。費用の心配は要らない。刑事裁判が結審してからでいいから。当面は費用の心配は無用にしください」 「すみません。親父には費用の心配をかけたくないので、のちほどボクの定期預金を取り崩してお支払いいたします。預金通帳と印鑑は美枝子の銀行の貸金庫のなかに保管させてありますので。はい」 「わかりました。当面、費用の心配は要りません」 「ところで公判の見通しなんですけど」 「ああ、それはね。無罪を主張して検察側を吊るしあげるという作戦ももありえますが、君の事件では無罪の主張は困難だから、むしろ罪状はそまま素直に認めて、改悛の情を顕示して行為時の事情を重視した判決を求める作戦のほうが賢明でしょう」 「はい。美枝子を衛るためとはいえ遣ったことの責任だけは覚悟しなければなりません。松瀬教授と落合賢次課長の二人の命を奪った以上、死刑の判決は免れません」 「いいや。絶対に死刑の判決などでません。ふたりの男の殺害については、被害者である多摩美枝子さんを救うためになされた緊急行為たる正当防衛として違法性が阻却されるべきところだが、加害者の生命を断絶したという重い結果が生じているので過剰防衛ということになり、犯罪の不成立を主張することはむずかしい。そこで罪は認めながらも、行為時の情状を酌量し、この点を重視した判断によって"刑の免除"の申立てをする考えなんだ」 「そうですか。刑法の規定には、たしかそんな規定もあったような気がします」 「ええ。たしかに"刑の免除"に関する規定はありますよ。刑法第36条2項では"防衛の 程度を超えた行為は、その刑を減軽し又は免除することができる"と規定しているから」 「でも、ボクの場合、殺人だけではなく、松瀬教授や落合賢次課長の死体をあれほど痛めつけたことを考えると、"刑の免除"はむりではないでしょうか」 「まあね。松瀬教授や落合賢次課長の亡骸(なきがら)については、髪の毛を剃り落したり両眼を抉りとり、両耳まで切断し、ペニスまでちょん切ったり、陰毛もきれいさっぱり剃り落した。という遣り方は、いかにも派手すぎたが、その手法は一種の社会的効果があったとみられなくもない。性の乱脈を極めた男は、このように男の勲章ともいうべきペニスまで去勢されてしまうという警告ないし威嚇的効果はあったとみられよう。ただ、その遣り方があまりにも派手すぎたことで残酷だったとみる向きもあろう。このような視点にたつならば処断刑は重くすべきだという主張もありえよう。そうだとすれば "刑の免除"はむりだという帰結も想定されよう。しかし、そこはわしの弁護人としての腕の見せ所だな。なんとかやれるだけのことはやってみる。仮に"刑の免除"は認められなくても、"刑の減軽"に持ち込むだけの自信はある」 「はい。菊野先生の弁護手腕に縋(すが)るしかありません。実は死刑の判決は避けられないと思い、絞首台に起つまでに自分なりに心の整理をしておかなければならないと。そればかり考えていました」 「それはちょっと考えすぎですね。それほど深刻に考えるのはよくありません。仮に実刑判決がでたとしても、まだ若いんだから社会復帰を目指して、前向きの姿勢になることがたいせつだね。将来志向に起つことにしましょう」 菊野弁護士は噛んで含めるように語りかけた。 「よくわかりました」 石川はふうっと深いため息を吐いた。 「なにはともあれ社会復帰をするためには、まず健康を保持しなければならない。だから食べるものはきちんと食べ、開き直ってよく眠ることだね」 「はい。先生にいわれたように、心理学的に自分をマインドコントロールして、生き延びる努力をいたします。いろいろありがとうございました」 石川流太郎は起ちあがり、深く頭を垂れる。 「それでは、からだには気をつけてね。自分自身を自分で勇気づけることがたいせつだから」 菊野弁護士に励まされた石川は、もういちど頭を垂れ、接見室の奥のドアから消えてゆく。 ひとりだけ取り残された菊野弁護士は起ちあがり、おおきな鞄を引き寄せた。 菊野弁護士はゆっくりと接見室から廊下へ消えてゆく。
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