# 石川被疑者の自白 #
五十嵐検事室では検事デスクのまえで石川流太郎が俯(うつむ)いている。 重苦しく黒い霧が検事室の床に沈殿してゆく。 しばらく沈黙がつづく。
杉山検察事務官は自分のデスクで録音していたテレコの作動をそのままにして起ち あがり麦茶の準備にとりかかる。 ふたつのグラスに麦茶をそそぎ氷をおとし、そのひとつを検事デスクにさしだした。 「緊張すると喉(のど)が渇きますから、冷たいものをどうぞ」 杉山は石川に微笑みかけながらグラスをさしだし自分のデスクにもどる。 「さあ、石川さん。冷たいものをどうぞ」 五十嵐検事は石川に麦茶を勧め自分でもグラスをひきよせる。 「はい。ありがとうございます。それではいただきます」 石川被疑者は、すなおにグラスをひきよせ麦茶をすする。 ふたたび沈黙がつづく。
空回りするテープレコーダーの回転音だけが床に淀んでゆく。 「いかがですか。喉が潤ったところで、ひとつありのままの真実を聞かせて もらえませんか」 五十嵐検事の口調はおだやかになっていた。 「はい。実は法哲学の教科書を読みはじめまして。疑問が湧きました。本来、 国民の利益を擁護するはずの国家制度が、かえって国民の法益を侵害する という側面があることに気づきました。そのような矛盾には抵抗を感じます。 そんな精神状態で、高飛車な発言をしてもうしわけありませんでした。ほんとに 失礼いたしました。このとおりお詫びいたします」 石川被疑者は両手をついてデスクのうえに額をすりつけた。 「まあ、その点は検事としても同感です」 五十嵐検事は石川の顔を凝視する。 「はあ。検事さんもですか」 石川は検事に驚きの視線をかえす。 「まあね。国家制度というものは、どこかに矛盾を内包してるんですよ。多かれ 少なかれどこかに矛盾を孕(はら)んでいるもんなんです。その矛盾は別として 石川さん。この辺で歴史的に実在した真実をはなしてくれませんか」 「はい。あれこれ考えすぎて、生意気なことまでずけずけ吐いて胸のうちがすっきり しました。黙秘権はここで放棄します」 「そうですか。それでは黙秘権を放棄したところで、事件当夜の状況をはなして くださいませんか。そうすれば、胸のうちはもっとすっきりするでしょう」 「はい。もう隠しだてはいたしません。すべての真実をありのままに告白させていた だきます。例の6月10日木曜日の夜、2時間目の債権総論の講義が休講になった ので、ちょっと儲(もう)けたような気分になると、急に空腹になりました。そこで法学部の近くの朝日食堂に飛び込みました。夕食を食べる時間はその日によってちがいます が、ほとんど夕食は朝日食堂で済ませていました。その夜はカツ丼を食べおわると、 そのまま裏通りにでて、明治大学の脇をとおり、つま先登りの道を登りつめ、丘のうえ の千代田マンションに向かいました」 「ほう。それで」 「美枝ちゃんの350号室のまえに起つと、煌々(こうこう)と電灯が灯っていたので、 <美枝やんは帰っているな>とおもい、ドアを開けた瞬間、その場に起ちつくしてしまい ました。はい」 「どうしてまた」 「ええとその。350号室にはいったところが応接間になっているんですが。応接間の 絨毯(じゅうたん)のうえに美枝子は押し倒され、美枝子のおなかのうえには男が のさばり、ふたつの肉体が絡み合い縺(もつ)れあっていました」 「なるほど。たいへんなシチュエーションでしたね。それでどうされましたか」 「はい。わたしは、美枝子を救わなければと、土足のまま飛び込み、美枝子のおなか のうえにのさばっていた男をうしろから羽交い絞めにして美枝子から引き離そうとしま した。けど、いくら引き離そうとしても、ふたつの肉体はなかなか離れませんでした。 これはおかしい、と力いっぱい男の体を持ちあげました。すると持ちあげるたびに 美枝子が悲鳴をあげるだけで、ふたつのからだは離れません。<これはたいへんなこと になった。美枝子をを救うためには、この男を殺(や)るしかない>と判断しました」 「それでどうされましたか」 「はい。そこで一旦、男を放りだし、自分の首からネクタイを引き抜き、背後から男の 首にネクタイを巻きつけ、体重をうしろにかけ力の限り締めあげました。ここで手を 抜いてはいけないと、そのまま数分間締めつづけました」 「そのあと、どうなりましたか」 「ええ。男はげんなりして美枝子のおなかのうえでぐったりしました。そこで男の肩に 手をかけ引っ張ったところ、男は美枝子の体からすんなり離れました。あんなに離れ なかったのに、どうしてすんなり離れたのか、よくわかりません。松瀬の首を絞めた ときとおなじ状況でした」 「それはおそらく、その男が窒息死したため男のペニスが弛緩して美枝子の膣の 異常な痙攣(けいれん)で、それまでその男のペニスを食いしばっていたバギナから するっとペニスが脱去したからでしょう」 「そうですか。女の膣もときにはハブのように食らいつくこともあるんでしょうか。 ともかく美枝子から男を引き離した瞬間、丸裸の美枝子は応接間から逃げるように 浴室へ向かいました」 「なるほど。松瀬教授のときと、まったくおなじような状況でしたね」 「はい。そうなんです。それで美枝子のことが気になって、浴室のドアに近づいて 聞き耳をたてると、美枝子はシャワーを浴びているもようでした。ひとまずほっとして 応接間に引き返しました。そして男の首からネクタイを引き抜き、脱ぎ棄てられた スーツの上着をとりあげてみると、洋服の胸の部分には医事課長落合賢次と書かれ たネームプレートがついていました。それで、この男は美枝子が病院長室の秘書に なるまで勤務していた医事課の上司であることが判明しました。喉が渇いていたので キッチンにゆき冷蔵庫を開けてみると、キリンの缶ビールの淡麗が冷えていたので それを取りだし、テーブルでビールを飲みながら、これからどうするかと、あれこれ 考えました」 「それで、具体的にはどんなことを考えましたか」 「はい。こんども松瀬殺害のときとおなじように、見せしめのため、この男も丸裸にして、性に関する男にとって一番肝心な部分を切り落とし、お茶の水橋の欄干から川の水面すれすれにまで吊るしてやろうと考えました。そこでまず朝日食堂に電話をいれワゴン車を貸してもらうことになりました」 「なるほど。それでワゴン車を借りることはできましたか」 「はい。<友人の引越しの手伝いで車を一晩貸して欲しい>と頼んだところ、<出前は7時 でおわったから、あすの朝までならいいよ>ということでした。そこで朝日食堂まで走ってゆき、ワゴン車を借り千代田マンションまで運転して帰りました」 「そのあと、どういうことになりましたか」 「はい。マンションに帰りましたら、美枝子はベッドに潜っていました。美枝子はかわいそうなのでそのままそっとしてあげることにしました。それでまずキッチンにゆき、 文化包丁を研ぎあげてから、応接間にもどり、落合賢次課長の亡骸(なきがら)を浴室 まで引きずっていきました」 「ほう。それからどうされましたか」 「はい。課長の衣類をすべて剥ぎとり、丸裸になった課長のからだを引きあげて浴槽の 縁を枕にさせました。浴槽には前の日の残り湯が縁きりになっていました。よく研いだ 文化包丁でまず落合課長の両眼を抉(えぐ)りとりました。そして両耳も切断しました。 抉りとった両眼と両耳はピンクの洗面器の中に放り込みました。屍体処理の手順は 松瀬殺害のときとほとんどおなじくなりました。そこで頭髪と陰毛を剃り落すことになりました。美枝子の寝室へはいってゆき、鏡台の抽斗のなかから和式の剃刀をとりだし 浴室にもどりました。剃刀は3本セットになっていたはずですが、1本だけ残っていました。そして押入れのなかからは段ボールの空き箱と非常脱出用のロープを捜しだし、 物音をたてないように摺り足差し足で寝室をでて浴室にもどりました。こんどは課長の 髪の毛を剃刀で剃り落しました。さらに課長のペニスのあたまを左指で引っ張りながら 陰毛をきれいに剃り落し、そしてしょぼくれたペニスを付け根から切断しました。 これで美枝子の仇をとったとおもいました。 こんどは荷造りの作業になりました。まず丸裸にされて両眼と両耳がなくなった 落合賢次医事課長の両手首をロープで縛りました。このロープは松瀬のときにも 用いたものでしたから、長さの気遣いは無用でした。落合課長の頭からおおきなビニ ール袋を被せ、クーラー用のおおきな段ボールの空き箱に袋を被った落合課長の亡骸 を入れました。その箱の蓋をして箱をポリ縄で結わえました。落合課長が着ていた衣類 は、寝室の押し入れから捜しだした愛媛ミカンの空き箱に収納して封をしました。その 封をするまえに、切断した両耳および抉りとった両眼、それに切り取った落合課長の しょぼくれたペニスや陰毛、髪の毛などはビニール袋に詰めてミカン箱の隅に押し込み ました。これで主な作業はおわりに近づきました」 石川被疑者は五十嵐検事と視線をあわせる。 「なるほど。それで、石川さんがそのような作業をしている間、多摩美枝子さんはどうされていましたか」 「はい。ええと。美枝子は自分のベッドに潜ったまま、起きてはきませんでした。美枝子が眠っていたかどうかはよくわかりません」 「そうすると、落合課長の死体損壊行為および死体遺棄の準備行為は、すべて石川さん おひとりで遣ったわけですか」 「はい。検事さんのおっしゃるとおりです。すべてわたしがひとりで遣りました」 「なるほど。そのあとの状況をはなしてください」 「はい。そのあと、落合課長を入れた段ボール箱をマンションの入り口のドアのところまではこび、次いで衣類の入ったミカン箱もはこびました。そしてマンションの廊下の奥から手押し車を押してきて、まず亡骸の入った箱を手押し車に載せマンションの外に停めておいたワゴン車まではこびました。すぐに引き返して、こんどは衣類の入ったミカン箱もワゴン車まではこびました。急いで車のエンジンをかけ発車しました」 「そのままはしりつづけてお茶の水橋に到着したわけですね」 「はい。深夜でしたから人目につくこともなく到着することができました」 「そのあとは、松瀬教授の遺体を橋の欄干から吊るしたときの遣り方で落合課長の 死体を川の水面すれすれにまで吊るしたわけですか」 「はい。検事さんのおっしゃるとおりです。そのあと素早く橋のうえから脱出して千代田マンションに帰りました」 「それで朝日食堂から借りてきたワゴン車はどうしましたか」 「はい。ワゴン車は翌朝になって出勤するときに朝日食堂まで運転し返還しました」 「ところで被害者の髪の毛や陰毛まで剃り落したという和式の剃刀はどうしましたか」 「あっ、忘れてました。その剃刀は曰(いわ)くつきの剃刀になってしまったので、愛媛 ミカンの空き箱のなかに衣類といっしょにいれました。このミカン箱は、橋の欄干から 遺体を吊るした直後に、その川に放り込みました」 「なるほど。石川さんの供述にもとづいて、そのウラをとることになります。そのうえで、石川さんの供述は検察官面前調書に記載されることになります。この調書の作成には時間がかかりますので、きょうの取り調べはこれでおひらきにします」 「検事さん。もはやすべての真実を供述したんですからできるだけ早く美枝子を釈放 してください。おねがいします」 「ええ。石川さんの供述によれば、こんかいの落合課長の死体損壊・遺棄について、 多摩美枝子さんは関与していなかったもようですから、松瀬の死体損壊については 不起訴処分にしましょう」 「そうですか。それで安心しました。よろしくおねがいします」 「なんといっても、こんかいの一連の事件の最大の被害者は多摩美枝子さんということ になりますからね」 「はい。検事さんのおっしゃるとおりです」 「きょうからは、石川さんは未決囚として小菅の東京拘置所にほうに移送されます。 今夜からは拘置所の個室でゆっくり休養してください」 「弁護人には菊野弁護士を選任したいとおもいますんで、よろしくおねがいします」 石川は両手をついてデスクにひたいを擦りつけた。
警視庁近くの並木道では、街路樹のマロニエの葉が夏風にそよいでいる。 桜田通りをひとつ隔てたマロニエの並木道に検察庁という太い文字が刻みこまれた 検察庁の正門が浮かびあがる。 検察庁の正門の背後には白っぽい検察庁の庁舎がそそりたっている。
検察庁の裏門にカーテンをおろした一台の護送車が到着する。 庁舎のなかから手錠を嵌(は)められ、捕縄(ほじょう)で数珠繋(じゅずつな)ぎにされ た数人の未決囚が押しだされてくる。未決囚らは羊飼いに追われる羊のように護送車 のなかに追い込まれてゆく。 そのなかに石川流太郎の姿があった。
|
|