【検察官面前調書の作成】
石川流太郎は供述書の点検をおえると、そのままうしろに寝転んで うっと背伸びをした。
石川の供述書は1999年6月25日午前9時30分ごろ五十嵐検事に 提出された。 警視庁近くの並木道では濃緑に染まったマロニエの葉が夏風に揺れている。 検察庁という太い文字が刻み込まれて検察庁の正門から黄金の胸章と呼ば れる弁護士バッジを佩用(はいよう)した数人の弁護士がその構内にはいってゆく。 その背後には白っぽい検察庁の高層ビルがそそりたつ。
検察庁の裏門から車窓にカーテンをおろした一台の護送車がはいってくる。 護送車のドアが開き、手錠を嵌(は)められ、捕縄で数珠繋(じゅずつな)ぎにされた 8人の未決囚がおろされる。 羊飼いに追われる羊のように未決囚は検察庁の庁舎に追い込まれてゆく。 そのなかに石川流太郎の姿があった。
五十嵐検事室では、検事デスクに向かった五十嵐検事が書類を点検している。 五十嵐検事が目をとおしている書類は石川流太郎の供述書であった。 手錠を嵌められた石川被疑者が係官に追われるようにはいってくる。 係官は石川の手錠をはずした。 杉山検察事務官の指示にしたがい石川被疑者は検事デスクのまえに座り 五十嵐検事と対峙(たいじ)する。 「石川さん。昨夜は供述書の作成ごくろうさまでした」 五十嵐検事は石川被疑者と視線をあわせる。 「いいえ」 石川被疑者はおとなしく検事に視線をかえした。 「この供述書は、まるで小説のような表現で書かれていますね」 五十嵐検事はにたりとした表情になる。 「とんでもありません。下手な文章で恥ずかしいかぎりです」 石川被疑者は謙遜(けんそん)の眼差しになった。 「ここに書かれてある事実は、すべて真実ですか。うそ偽りはありませんか」 五十嵐検事は念を押した。 「はい。すべて真実です。誓って。まちがいありません」 「そうすると。この供述書の内容をほとんどそのまま検察官面前調書として 作成してもよろしいですか」 「はい。結構です」 「検察官面前調書の作成には時間がかかりますので、きょうは別の事件に ついておたずねします」 五十嵐検事は改まった口調になった。 「検事さん。別の事件とおっしゃいますと」 「それはお茶の水橋第二事件です。お茶の水橋第一事件については、あなたの 婚約者である多摩美枝子さんの供述によって、その真相が明らかになりました。 また聖橋事件は石川さんの供述書によりその真相が解明されました。しかし、 お茶の水橋第二事件については、いまだにその真相は闇に包まれたままです」 「はああ。そうですね」 「お茶の水橋第一事件つまり桜門大学お茶の水病院竹山茂太郎事務長殺害 事件の真犯人は、同病院の医事課長であった落合賢次と判明しました。 けれどもその真犯人は6月10日木曜日に、何者かにより殺害されてしまいました。 実はお茶の水橋第一事件の重要参考人として落合賢次課長からの事情聴取を 予定していた矢先のことでした」 「はい。そうでありましたか」 「その結果、落合賢次課長に対する事情聴取は不可能となりました。ですから 竹山茂太郎事務長殺害事件の解明は困難をきわめることが予想されました。 ところが多摩美枝子さんの事情聴取の過程で美枝子さんが、すすんで竹山茂太郎 事務長殺害事件の一部始終を供述してくれました。ですからこの事件はするっと 解決されました」 「なるほど。そうでしたか」 「竹山茂太郎事務長殺害事件については、被害者殺害後の死体損壊および遺棄の 罪について多摩美枝子さんも関与していたので、その幇助罪(ほうじょざい)の立件が 可能でしたが、お茶の水橋第一事件解明の端緒(たんちょ)を作出してくれた功績を 勘案して、右の件は立件しないことにしました。ところが『松瀬病院長を殺害したのは このあたしです』と多摩美枝子さんがいいだしたので、多摩美枝子さんを聖橋事件の 被疑者として再逮捕しました。一方、多摩梅吉さんが『松瀬殺しの真犯人はこのあっし だ』と云って自首してきました。そんな状況のなかで石川さんが松瀬殺しの実行犯としてこの供述書を書いてくださったのです。そこで多摩梅吉さんを釈放しました。そのうえ多摩美枝子さんの松瀬殺害の容疑も晴れました。ただ、この石川さんの供述書により ますと、松瀬殺害後の死体損壊・遺棄行為に美枝子さんも関与していることになります ので、この点を立件するかどうかについては、現在、検討しているところです」 「検事さん。松瀬殺害および殺害後の行為について、美枝子はなにもかかわっており ません。ですから一刻も早く釈放してください。美枝子は松瀬の異常な性行動の被害者 のひとりで、精神的にまいっています。だからできるだけ早く釈放していただきたいん です。おねがいします。このとおりおねがいします」 石川被疑者は起ちあがり深く頭をさげた。
五十嵐検事『ここまでの問答は、石川に対する取調べというよりは、むしろ聖橋事件、 お茶の水橋事件とつづいた一連の事件の経過を再確認したことになる。この回り道は 一見、むだなようにもおもわれるが、この手法により、石川被疑者をじわじわ遠巻きに 包囲し、落合賢次医事課長殺害事件の真相をひきだすことにしよう。石川はわしの作戦 によるペースに巻き込まれてきた。ここで多摩美枝子釈放の可能性をひけらかし、それを餌にして石川の心理状態を動揺させ、落合賢次課長殺害の真相を炙(あぶ)りだそう』
五十嵐検事は胸のうちで取り調べの作戦を練り直した。 「石川さんのお気持ちはよくわかりました。できるだけ石川さんのお気持ちに沿った措置をとることにしましょう。そのためには、これからお訊(たず)ねする事項についは 真実をそのまま正直に述べてください」 五十嵐検事は石川の目を凝視(ぎょうし)した。 「はい。わかりました」 「それではお訊ねしますが。石川さんは、落合賢次課長が殺害されたと推定される6月10日木曜日の夜はどちらにおられましたか」 「はい。その日のアリバイですか。アリバイは困るんですが・・・」 「アリバイが困るというのはどういう意味ですか」 「はい。アリバイのはなしを突き詰めてゆくと、他人の人権を侵害することになりかねないからです。はい」 「そうですか。仮に他人の人権侵害になりかねないとしても、石川さん自身の無罪を証明するためですから、アリバイのはなしを突き詰めてゆくしかないとおもわれますが」 五十嵐検事の眼光はぎらぎらしてきた。 石川は検事の視線を避け俯(うつむ)いてしまう。 「司法解剖の結果によれば、被害者の落合賢次課長が殺害されたのが6月10日木曜日の午後8時から9時ごろと推定されています。その事件当夜、石川さんはどこにおりましたか」 「はい。その日も夜の2時間目の講義は休講でした。債権総論の講座を担当している教授が海外出張で休講がつづいてました。それで6月10日木曜日も休講だったのです」 「それで石川さんはどうされましたか。5月13日の夜とおなじように、婚約者である多摩美枝子さんのマンションにゆかれたのではありませんか」 「はい。それが・・・・」 「それが、どうしたんです」 「ここから先は、供述の内容がそのまま他人の人権にかかわってくるので黙秘します」 「なるほど。いずれにしても6月10日の夜、あなたは大学の講義が休講になったので青梅の自宅には帰らないで、千代田マンションに多摩美枝子さんを訪ねたんですね」 「ええ。とにかく訊ねたことはたしかですが。はい」 「それで千代田マンションの350号室で、なにが起こりましたか。具体的は・・・」 「それはできません !!」 石川は顔をあげて大声で反発した。 「どうしてですか」 「はい。具体的に供述すれば、そこに登場する人の人権を侵害することになります。 ですからそのときの具体的な状況は話せません」 「そのときの具体的な状況を話せば、他人の人権を侵害することになりかねないという 場合、その他人とは多摩美枝子さんのことでしょう」 「ええ。まあ・・・」 「多摩美枝子さんのどんな人権が侵害されることになるんですか」 「はい。たとえば名誉権とか、プライバシーの権利とか。そういった・・・」 「なるほど。そうすると、その夜、あなたが千代田マンションの350号室を訪ねたとき、多摩美枝子さんの名誉権とかプライバシーの権利にかかわるような事態が起こったというわけですか」 「ええ。まあ。そんな状況でした」 「多摩美枝子さんの名誉権とかプライバシーの権利というのは、多摩美枝子さんの、そのお、貞操権にかかわるということではないでしょうか」 石川は五十嵐検事の視線を避け俯いてしまった。
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