【石川の供述書(1)】
それは悪魔にとりつかれたような夜のことだった。 1999年5月13日木曜日の夜、オレは神田三崎町に所在する桜門大学 法学部の315番教室で一時間目の憲法講座を受講した。 講義がおわり中庭にでて掲示板を見あげると2時間目の債権総論の講義は 休講になっていた。ふうっと溜め息をついたら途端に空腹になった。 そこで大学から2分ほどの朝陽食堂に向かった。 顔なじみの食堂でいつもの席に座り、牡蠣フライ定食をぺろりとたいらげた。 すると無性に、美枝子に遭いたくなってきた。 朝陽食堂をでてからは、神田界隈の裏通りを歩き明治大学の脇にでた。 そこから左に曲がり、つま先登りの道をのぼっていった。 その小高い丘のうえの平地に千代田マンションは建っていた。 エレベーターを待ちきれないでマンションの3階に駆けあがり350号室のまえに起った。 煌煌(こうこう)と電灯が灯っていた。 「美枝子は帰っているな」 と、呟きながら、さっとドアを開けた瞬間、オレはそのまま立ち尽くしてしまった。 絨毯のうえに押し倒された美枝子のうえに図体のおおきな男がのざばり、ふたつの肉体が絡み合い縺れ合っていたのだ。 咄嗟にオレは土足のまま応接間に駆け込み、男の背後から羽交い絞めにし、その大男を美枝子から引き離そうとした。 だが、ふたつの肉体は絡み合い縺れ合ったまま離れない。力いっぱい男を持ちあげると、悲鳴をあげる美枝子のからだごと浮きあがってしまうのだ。もういちど満身の力を込めて男のからだを持ちあげる。すると美枝子の悲鳴とともに、ふたつの肉体は浮きあがってしまうのだ。 美枝子が喚き苦しむ異常な状態をみてオレは決心した。 「これはたいへんなことになった。このような緊急状態から苦しむ美枝子を救い出すためには、この男を殺るしかない。この男を殺してもやむをえない緊急事態だ」 と、オレは瞬間的に判断した。 オレは一旦、男を放りだし、自分のズボンから大学のバックルがついた革バンドを 引き抜き男の背後からその首に巻きつけ、体重をうしろにかけ力のかぎり締めつけた。 オレは美枝子を救出するため羅刹になっていた。オレは修羅の途を選んだ。 それしかなかった。それが唯一の選択肢だった。 革バンドで男の首を数分間も絞め続けた。すると大男はげんなりとして美枝子の お腹のうえにへばりついたまま動かなくなった。オレは男の背後から羽交い絞めにして ひきあげた。すると不思議なことに男のからだはするっと美枝子のからだから離れた。 オレは男をその場に放り出した。 「美枝子だいじょうぶか」 と、オレは丸裸の美枝子を抱きあげた。 美枝子は泣き喚きながらオレにしがみついてきた。 オレは激しい美枝子の嗚咽が鎮静するまで美枝子を抱き締めていた。 美枝子は突然オレを跳ね除け応接間から浴室のほうへ逃げるように駆けていった。 オレは我に返って周辺を見まわした。 ソファーのうえには美枝子のハンドバッグが放り出されていた。絨毯のうえにはレタス、タマネギ、キュウリ、甘夏蜜柑、ハッサクなどがばらまかれ、白いビニール製でスーパーの店名がはいったレジ袋が散らかっている。 おそらく美枝子がレジ袋やハンドバッグを手にして、この応接間にはいってきた途端に、この図体のでっかい野郎に襲われたのであろう。 ソファーの近くには男に剥ぎ取られたとみられる美枝子のスーツやブラジャーなどの 肌着が散乱していた。 その傍らに男が脱ぎ捨てたとみられる背広が投げ出されていた。 背広の内ポケットをたしかめると財布と名刺入れがでてきた。その財布には、ぱりっとした1万円札が25枚もはいっていた。その名刺入れからは数人の名刺がでてきた。 そのうち手垢のついていないまだ新しいきれいな名刺の枚数がもっともおおかった。 その名刺には桜門大学お茶の水病院長・桜門大学医学部教授 松瀬栄三と印刷されて いた。美枝子が秘書をしている病院長はこの男らしいことが判明した。この男が美枝子を手篭めにした暴漢かとおもうと、腹の底からむらむらと激しい怒りの炎が燃えたぎってきた。 「美枝子の貞操権を侵害したこの獣男をとことん痛めつけてやろう」 と、その瞬間オレは決意した。 オレが棒立ちになったまま拳を握り締めているところへガウンを羽織った美枝子があらわれた。 美枝子は身の置き所がないというふうに小さくなってソファーに浅くかけた。 オレも美枝子につられてソファーに腰を降ろした。 「ノドが乾いたな」 と、オレは独り言のように云った。 「いま、ビールの栓を抜くわ」 美枝子は救われたように起ちあがった。 そのまま美枝子はキッチンに向かった。 まもなく美枝子は、お盆に麒麟麦酒の一番搾りとグラス、それにピーナツをいれた 小皿を載せもどってきた。 美枝子は麒麟麦酒専用のおおきな栓抜きで一気に一番搾りの栓を撥ねた。 「はい、おビール」 といいながら美枝子はオレのグラスにビールをそそいだ。 オレはグラスを傾け一気にぐいと飲み干した。 美枝子はオレのグラスにビールをそそごうとした。 「ちょっと待った。まだ遣ることがあるからこのくらいにしておこう。ところで 段ボールの空き箱はあるか」 と、オレは美枝子を覗き込んだ。 「大型洗濯機の空き箱ならあるわ」 美枝子は視線を返した。 「そいじゃ男を縛るロープはあるか。それにカミソリもな」 「みんなあるわ。いま持ってくるから」 美枝子は云い残して奥へ消えていった。 まもなく美枝子は、細長いビニール袋に収納された非常脱出用のロープと カミソリのはいった箱を持ってきた。 「段ボール箱は・・」 オレは美枝子にたずねた。 「あ、忘れてた。いま、持ってくるわ」 美枝子はふたたび奥へ消えていった。 すぐ美枝子は折り畳んだ段ボール箱を両手で抱えてもどってきた。 「はい。大型洗濯機の空き箱です」 「それにしても、ロープとかカミソリなど。こんなものがよくあったね」 「まあ。いろいろとね。和式のカミソリは父の梅吉が来たときに使わせようと おもって求めておいたの。それに非常脱出用のロープはマンションの火災 とか地震など万一のときのために病院から借りてきたの。松瀬にせがんでね」 美枝子はビニール袋を破り、袋のなかから細長く輪に畳み込まれたロープ をとりだした。 「これでよし。準備はととのった。あとはオレにまかせろ。美枝子はオレが起す までベッドにはいって寝すめ」 「はい。そうさせてもらうわ。でも眠れないかもしれないけど」 美枝子は応接間の奥へ消えていった。 オレはソファーに凭れ腕を組んで考えこんだ。 『もはや息絶えたこの松瀬の野郎をどういう方法で痛めつけてやるか。松瀬の 野郎はどうやら性の異常者だ。異常性欲の持ち主なんだ。自分の異状性欲を 発散させるため、その受け皿として、おそらく多くの罪もない女を犠牲にし泣か せてきたにちがいない。美枝ちゃんも松瀬の性欲発散の受け皿にされてしまった 被害者のひとりだろう。いつかの事情聴取のとき、美枝子の男性関係について 五十嵐検事に聞かれたが。まさかとおもっていたことが現実だったことをオレは、 この目でありありと確認した。魔物のような巨大な大学病院という組織の病院長 というトップの座につき、その権力を濫用して女子職員などをつぎつぎに手篭め にしてきたにちがいない。医師の風上にもおけない強かな野郎だ。女性をまるで 自己の性欲満足の道具としてその人の人権を蹂躙してきた野郎なんだ。こんな 野郎を許すことはできない。ここはひとつ、性の乱脈を極めた奴はこうなるんだ ということをそのまま世間に知らせてやることにしよう。そのためにはどうするのが 最も効果的か。そうだ。あいつを丸裸にしたうえ、髪の毛を剃り落としてやろう。 いやそれだけではものたりない。あいつの両方の目玉を抉り取り、両耳をも切断し てしまおう。いやそれでも飽き足らない。性の乱脈を極めた野郎なんだから、その 罰としてあいつの中足、いやチョンボコも切り落とし、陰毛も剃り落としてしまおう。 そしてあいつの両手首をロープで緊縛し、異常なセックス野郎として聖橋の欄干から 神田川の水面すれすれにまで吊りさげてやろう。あの聖橋なら、中央線の電車から は丸見えだし、地下鉄丸の内線の電車からも見える。さらに神田川に沿ってはしる 路線バスからも見えるはずだ。あそこに吊り下げれば、丸坊主にされ、両眼と両耳を 切断された全裸の死体、それどころか、チョンボコまでカットされ、陰毛までも剃り落とされた全裸の野郎が発見されたと、マスコミは騒ぎたてるだろう。 やがて身元が判明すると、松瀬に対する嘲笑の電波は日本列島の津々浦々にまで 伝播されてゆくにちがいない。 そうだ。これで決まりだ。人目の少ない深夜のうちに決行しよう』 オレはソファーに踏ん反り返って胸のうちにそう決心した。 この決意は刑法上では死体損壊罪の故意といえよう。
オレは起ちあがりキッチンにはいっていった。 美枝子がいつも使っている文化包丁を包丁たてから抜き採り浴室へ向かった。
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