【供述書の作成】
警視庁の高層ビルがそそり建っている。 そのまえの桜田通りでは車の流れがひっきりなしにながれてゆく。 仄暗(ほのぐら)い警視庁の地下留置場にこつこつと靴音が響きわたる。 留置係官につき添われて石川流太郎が地下留置場に降りてくる。 長い廊下をあるき、留置場のいちばん奥まですすんでゆく。 突き当たった奥の個室のまえに起った留置係官は鉄の扉を開け、豚小屋に 豚を追い込むように石川を押し込む。 冷酷にも無言のまま係官はがちゃりと鉄の扉を閉め施錠してしまう。 石川は留置場の壁に寄りかかり床に両足をなげだし、ふうっと溜め息を吐く。 石川は腕を組み目を瞑(つぶ)る。 こつこつと立ち去る留置係官の靴音が石川の鼓膜(こまく)の底に沈んでゆく。
警視庁近くのマロニエの並木道では、濃緑になった樹木の葉がしっとりと 雨に濡れている。 梅雨の中休みも束の間で、ふたたび鬱陶(うっとう)しい梅雨空にもどっていた。
警視庁捜査一課では、課長デスクに向かって春山捜査一課長が気ぜわしく 書類をめくっている。 白い壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年6月24日になっている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後5時30分になる。
警視庁近くの桜田通りでは車のラッシュがつづいている。
検察庁という太い文字が刻みこまれた検察庁の正門から退勤する職員の 列がつづく。
警視庁の地下留置場では、個室に拘禁された石川流太郎が壁に寄りかかり 考えこんでいる。 ふうっと溜め息を吐いてはふたたび考えこむ。 仄暗い地下留置場にこつこつと靴音がして留置係官が近づいてきた。 「おねがいがあります」 石川は思い切って鉄格子越しの留置係官に声をかけた。 「なんでしょうか」 若い留置係官は鉄格子のなかを覗(のぞ)きこむ。 「すみません。供述書を書きたいので、ワープロと感熱紙をさしいれてください」 「わかりました」 係官はこつこつと靴音をたてながら遠のいてゆく。
疲れきって目を瞑った石川が蕩けはじめたとき、こつこつと留置係官の靴音が 石川の鼓膜を刺激した。 「おまたせ」 といいながら係官は鉄格子を開け、白っぽいグレーで装丁されたシャープの『書院』をさしいれてくれた。 「はい。これは感熱紙です」 係官は黒い生地に白い花もようがついた感熱紙を収納した袋を石川に手渡した。 「ありがとうございます」 石川は深く頭を垂れ感熱紙の袋を受け取った。 「それでは」 係官の靴音がしだいに遠のいていった。 石川は個室の片隅で粗末なデスクに向かってワープロの蓋を開けた。
石川の声『松瀬殺害事件当夜のアリバイの証明ができない以上、このまま 黙秘をつづけていても、結局は五十嵐検事に陥(お)とされてしまう。そうだと すれば黙秘をつづけて苦しむよりも真実をそのまま吐いてラクになったほうが ましだ。オレは人を殺そうなどおもったことは、いちどもない。ただ、あのときは 美枝子を苦しみから救いだすためには、ああするしか手はなかったのだ。 まだ法学部で習いはじめたばかりの刑法の理論によれば、美枝子の法益を 救うためにやむをえずに為した行為だから、基本的には正当防衛の成否が 問われるというシチュエーションだったことだけはたしかだ。しかし松瀬の首を 絞めて殺してしまったことは、どうみても防衛の程度を超えた過剰防衛という しかあるまい。その過剰防衛ということになれば、特段の事情がないかぎり有罪と なってしまう。ただ情状によりその刑を減軽し、または免除される余地は残される。 このようにあれこれ考えると、真実を述べて、そのあとは菊野弁護士に弁護して もらい、処断刑の軽減をはかるしかあるまい。そのほうが得策かもしれない。 そうしよう。そこで、素直に犯行を認める供述書を作成して五十嵐検事に提出する ことにしよう。もはやエスケープする途はない。それしか途はないのだ』
五十嵐検事の事情聴取を契機に逮捕・拘留され、警視庁の地下留置場に 押し込まれ、生まれてはじめて石川は自由を奪われた。はじめて社会から隔離され てしまい、身の処しかたをそう決めたのであった。 ぶつぶつ呟(つぶや)きながら石川はワープロのキーをたたきつづける。
警視庁捜査一課の白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の長針が ぴくりとうごき夕刻の6時50分になった。 桜田通りでは車のラッシュがつづいている。
警視庁地下留置場の個室で石川流太郎は背中をまるめワープロのキーを たたきつづける。 時折、手をやすめ、背伸びをしてはふたたびワープロのキーをたたく。
警視庁捜査一課では、壁時計の長針がぴくりとうごき午後9時50分になった。
警視庁まえの桜田通りでは、車の流れがかなり少なくなっている。 マロニエの並木道では、黒っぽいマロニエの葉が梅雨どきの夜風にそよいでいる。
警視庁の地下留置場では、個室のなかで石川がワープロのキーをたたいている。 石川はワープロの手をやすめ、留置場の片隅の水洗トイレに起つ。コックを捻り 水を流した石川はふたたびデスクに向かいワープロのキーをたたきはじめる。
警視庁の白い壁に掛けられた黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりと うごき深夜の24時になった。
警視庁まえの桜田通りでは、いつのまにか車の流れが途絶えていた。 喧騒(けんそう)を極めた日中の通りは、夜の静寂(しじま)をとりもどしている。
警視庁地下留置場の個室では、石川がワープロのキーをたたきおえる。 石川は、プリンターの蓋を開け、感熱紙を挿入して印刷にとりかかる。
やがて印刷がおわると、A4サイズの原稿を両手でもちあげ、ペーパーを重ね、 とんとんとデスクのうえで軽くたたき、その耳を揃える。 「よし、これでよいだろう。あとはミスプリの点検だけだ」 呟きながら石川は供述書をよみはじめる。
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