【石川の逮捕・拘留】
五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年6月 23日水曜日になっている。 検事室の白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりと うごき午後4時になった。 検事デスクのまえに座らされた多摩美枝子は、膝のうえに手を載せ俯いている。 「ええと。美枝子さんのおっしゃるAさんが被害者の松瀬教授の亡骸(なきがら)を どのように処理したかについては、あなたはまったくご存知ないということですね」 五十嵐検事は穏やかな口調になっていた。 「はい。あたしは、その現場を見たわけではありませんから。わかりません。ただ、 あとで新聞やテレビで報道されたことを手掛かりにするかぎり、松瀬の亡骸は、 あたしのマンションの浴室のあたりで処理されたのではないかと想像されます」 「なるほど。そうかもしれませんね。この点はAさんにたしかめるしかありません」 「これで、あたしとしては、すべてをもうしあげました。すべてを真実のままおはなし いたしました。はい」 「ええ。そうだとすれば、多摩美枝子さんの松瀬殺害の容疑は晴れました。ですから きょうはこれでおひらきにしましょう。ごくろうさまでした」 五十嵐検事は杉山検察事務官に目配せした。 杉山検察事務官は待機していた女性の係官に多摩美枝子の連行を指示した。 「施錠はしないでください」 杉山は係官に命じた。 「はい。それでは多摩さん」 係官は先に起って検事室のドアに手をかけた。
五十嵐検事は検事デスクのうえで受話器をとりあげた。 「検事の五十嵐ですが。春山課長はいますか」 「はい。ただいま。電話かわりますから」 警視庁捜査一課の若い刑事の声が跳ね返ってきた。 「お電話かわりました。春山です」 「たったいま多摩美美枝子の取調べがおわったところだ」 「そうですか。自白に追い込みましたか」 「いや。美枝子は白だと判明した。すくなくとも正犯ではない」 「えっ!! すると犯人はいったいだれですか」 「美枝子の供述によればAという別の人らしい」 「Aとはだれのことですか」 「それはこれからのはなしだ。Aの特定が事件解決の山場になる」 「なるほど。そのAは多摩美枝子を取り巻く限られた範囲の人物ですね」 「まあな。それで、多摩美枝子が正犯でないことは明らかになったが、とりあえず 多摩梅吉を釈放してくれないか」 「いまからですか」 「もう。夕刻になるから、明朝がいいかな」 「わかりました。それにしても、そのAという人物は多摩梅吉じゃないんですか」 「いや。梅吉は娘の美枝子を庇(かば)うために自首してきて、虚偽の供述をした にすぎない。5月13日の事件当夜、美枝子のマンションにはいってきて、松瀬の 首を絞め、美枝子から離したとみられるAという男は梅吉以外の第三者だ」 「なるほど」 「それではたのみましたよ」 「はい、検事。明朝、梅吉を釈放します」 電話はそこできれた。 受話器をおいた五十嵐検事は起ちあがりソファーに向かった。 ソファーに身を鎮めた検事はシガレットケースからタバコをひきぬいた。 「いま。コーヒーを炒れますから」 杉山はコーヒーの準備にとりかかる。
その翌日のことであった。 警視庁の正門から菊野弁護士に伴われて多摩梅吉がでてくる。 梅吉は黙りこくって菊野弁護士のあとにしたがう。 菊野弁護士と多摩梅吉は、マロニエの並木道をあるき、東京メトロ霞ヶ関駅の地下道に降りてゆく。
マロニエの並木道の一角に検察庁という太い文字が刻み込まれた検察庁の正門が 浮かびあがる。 その背後にそそり建つ白っぽい検察庁の高層庁舎をみあげながら石川流太郎がその 構内にはいってゆく。
五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年6月24日木曜日になっている。 白い壁に掛けられた黒い縁どりの円い壁時計の長針が、ぴくりとうごき午前10時になった。 検事デスクに向かった五十嵐検事は書類を点検している。 杉山検察事務官が麦茶を炒れかけたとき、石川流太郎がはいってくる。 「お呼び出しを受けました石川ですが」 石川は杉山のまえで頭をさげた。 「はい、どうも。こちらへどうぞ」 杉山検察事務官は石川を応接コーナーに案内した。 杉山は、ふたつのグラスに麦茶をしたて応接コーナーのテーブルにはこび、そのひとつを石川のまえにさしだした。 「冷たいものをどうぞ」 「おそれいります」 石川は杉山と視線をあわせた。 まもなく五十嵐検事がソファーに寄ってきた。 石川はすくっと起ちあがる。 「お忙しいところ、お起しいただきごくろうさまです」 石川流太郎はぺこりと頭をさげ、ソファーに浅くかける。 五十嵐検事はソファーに凭(もた)れる。 「ええと。きょうは松瀬教授殺害事件の重要参考人として石川さんの事情聴取をさせて いただくことになりました。デスクでは堅苦しいのでソファーにしました」 五十嵐検事はもの柔らかい調子できりだした。 「重要参考人ですか」 「ええ、まあ。あなたは聖橋事件解決のキーマンとみていますから」 「はい。わかりました」 グレーのスーツに水玉もようのネクタイを締めた石川は歯切れのいい声でこたえた。 「実は前回の事情聴取のときに、あなたは『5月13日木曜日の夜は、大学で夜の2時間目の債権総論の講義が休講になったので、いつもより早く、JR中央線の水道橋駅から電車に乗って梅林市の自宅に帰った』といわれましたね」 五十嵐検事はいくらか厳しい口調になった。 「はい。検事さんのおっしゃるとおりです」 「それで、あなたが梅林市の自宅に着いたのは夜の9時30分ころだといわれました。そのとき、あなたのお父さんの流之介さんは、晩酌に酔いしれて、お茶の間で高鼾(いびき)をかいていたといいますから、お父さんに聞いてみても、あなたの帰宅時刻を確認することはできないでしょう」 「はい。父は眠っていましたから、検事さんのおっしゃるとおりです」 「それでその当日、大学で夜の2時間目の債権総論の講義が休講だったことはたしかでした。この点は大学の教務課長の証言によるものです。しかし、あなたが水道橋駅から電車に乗って梅林市の自宅に帰られたことはまだ証明されていません」 「けど、検事さん。その証明はむりというしかありません」 「それはそうともいえましょうが。あなたはその夜、水道橋駅から電車に乗って梅林市の自宅に帰られたのではなく、どこか別の場所にいたのではないでしょうか」 五十嵐検事の表情は厳しくなった。 「別の場所といいますと」 石川は怪訝(けげん)な表情になった。 「たとえば、あなたの婚約者である多摩美枝子さんのマンションにゆかれた のではないでしょうか」 「いいえ。あの夜はたしかに水道橋駅から電車に乗り、梅林市の自宅に帰り ました。まちがいありません。親父が高鼾で寝ているところをはっきりと、この 目でみたし、鼾はこの耳で聞いたんですから。はい。たしかに」 「しかし、その事実を証明することはできないでしょう」 「そりゃ検事さん。満員電車のなかで乗りあわせた乗客は、素性のわからない 見ず知らずの赤の他人ばかりでしょう。それに帰宅したときには親父は高鼾で したから、どうにもなりません。そんな状況ですから証明のしようがありません。 けど、検事さんにそういわれれば、もはや逃げ道はありません。しかしあの夜、 梅林市の自宅に帰宅したことだけはたしかです。はい誓って」 「はたして、それはどうでしょうか。あなたは、竹山茂太郎事務長殺害の日時 とされる5月27日のアリバイについて、多摩美枝子さんおよび和食の店『菊水』で 仲居をしている勝江さんと共謀して虚偽の証言をされましたね。あのときは、 なぜ虚偽のアリバイ工作をしたんですか」 「はい。それは5月27日の夜、美枝子が竹山の性欲を満足するための餌食に されたという事実を公表されたくなかったからです。そのためにはあの時刻に 美枝子が千代田マンションの350号室にはいなかったことにするしか手はあり ませんでした。ただそれだけの理由です。決して自分に対する刑事責任の追及を 免れるためではありません」 「いずれにしても、そうした経緯もあるので、石川さんの供述をそのまま受け入れる ことはできません。捜査官としては、あなたの発言については、逐一、疑ってみる しかありません」 「それは、そちらの勝手ですけど」 石川はむっとした表情になった。 「そうすると5月13日木曜日の夜、あなたは梅林市の自宅に帰ったのではなく、千代田マンションの350号室にいたのですね」 「・・・・・・・・」 石川は沈黙したまま俯(うつむ)いてしまう。 「石川さん。どうなんですか」 五十嵐検事は鋭い眼光を容赦(ようしゃ)なく石川に照射する。 「・・・・・・・・」 石川は沈黙したままである。 いちど顔をあげ五十嵐検事と視線をあわせた石川はすぐ目を逸らせる。 「石川さん。どうなんですか」 五十嵐検事の目はいっそう鋭く輝いた。 「・・・・・・・・」 石川流太郎は検事の視線を避け、そっぽを向いたまま沈黙している。 「黙秘権の行使ですか。石川さん」 「・・・・・・・・」 「あの5月13日の夜、8時前後に千代田マンションの350号室でなにが起こったか は、すでに明らかになっています。そのときの状況はすべて多摩美枝子さんが供述 しています。その時刻にAという男の人が350号室にはいってきて、松瀬教授に 押し倒され、絡み合った男女のふたりが結合したまま離れられなくなって、美枝子 さんが苦しんでいるとき、Aさんという男の人が350号室の応接間にはいってきて 美枝子さんのピンチを救ったということは明らかになっています」 「・・・・・・」 「これらの事実は被害者である多摩美枝子さんの供述ですから信憑性(しんぴょうせい) のたかいものです。その供述のなかで浮かびあがった人物がAさんという男の人なん ですが。美枝子さんはAさんの名前はいえないとされています。美枝子さんは、おそらく そのAさんを愛しているからなんでしょう。そうにちがいありません。美枝子さんが 愛している人といえば、婚約者の石川流太郎さんしかいないはずですが」 石川は膝のうえに載せた拳(こぶし)を見つめたまま沈黙している。 しばらく沈黙がつづいた。 五十嵐検事室には、しだいに重苦しいムードが淀み黒い霧が立ち込めていった。 「おひとついかがですか」 シガレットケースを開けた五十嵐検事はソファーに身を乗り出した。 「・・・・・・・・」 目の前にシガレットケースをさしだされたが石川はそれを無視している。 五十嵐検事はライターでタバコをつけるとソファーに背筋を擦りつけ天井に向け 紫の煙を噴きあげた。 石川流太郎は膝のうえに目をおとしたまま黙りこくっている。 「石川さん。どうなんですか。黙秘権を行使することは認められてはおりますが。 黙秘をつづけると不利な取り扱いをうけることになります」 「・・・・・・・・・・」 「ええと・・・」 五十嵐検事は灰皿にタバコを磨り潰した。 「石川さん。きょうは、松瀬教授殺害事件について、その重要参考人として お起しいただきましたが。残念ながら本日の事情聴取は暗礁(あんしょう)に 乗りあげてしまいました。そこであなたに真実を供述していただくために、 やむをえずあなたの身柄を拘束するしかありません。今から逮捕・拘留の 手続きをとらせていただきます。逮捕状が発布されるまで、そのままお待ち していただきます」 「杉山くん。コーヒーを炒れて石川さんにさしあげてください」 そういい残して五十嵐検事は検事室から消えていった。
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