【実体的真実の確認】
五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年6月 23日水曜日になっている。 検事室の白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の長針が ぴくりとうごき午後2時になる。 多摩美枝子は、膝のうえに手を載せ俯いたままである。
五十嵐検事は厳しい表情でデスクのうえに身を乗りだした。 「美枝子さん。どうなんですか。真実をはなしてください」 「はい。いいえ。・・・いや、そのとおりです。はい」 多摩美枝子はシドロモドリになった。 「美枝子さん。あなたのおこたえの意味がよくわかりません。わしが問い ただしている事実は真実なんですか。それとも虚偽なんですか。はっきり させてください」 五十嵐検事のまなこはライオンが獲物を捕らえたときのようにひかった。 「はい。そのお・・・。いま検事さんが述べられた事実は・・・そのお・・・」 「いま、わしが訊問してる事実は真実なんですか。それとも、あなたが でっちあげた虚偽の事実、いわばパフォーマンスなんですか」 厳しく追及されて美枝子はふたたび俯いてしまった。 「多摩美枝子さん。どうなんでしょうか。あなたが革バンドで松瀬教授の首を 締めあげたというのは、事実に反する虚構の供述なんですか。それとも 実在した真実ですか。はっきりさせてください」 「・・・・・・・・」 美枝子は膝のうえに載せた両手を見つめたまま沈黙している。 「・・・・・・・・」 「多摩さん。真実なんですか。それとも虚偽なんですか」 検事室には重苦しく黒い霧がたちこめてゆく。 「杉山くん。多摩さんに麦茶をさしあげてくれないか」 五十嵐検事はタバコをつけながら緊張をほぐそうとする。 「はい。ただいま」 杉山検察事務官はたちあがり麦茶の準備にとりかかる。 杉山はグラスに麦茶をそそぎ氷を落とした。 「さあ。多摩さん。冷たいものをどうぞ」 杉山はグラスのひとつを美枝子のまえにさしだし、もうほとつを五十嵐検事の デスクに載せた。 「さあ。美枝子さん。お茶をどうぞ」 五十嵐検事はグラスをひきよせる。 「はい。いただきます」 美枝子は杉山検察事務官に視線をながしながら麦茶をすすった。 「それでは一息ついたところで、はなしをすすめることにしましょう」 五十嵐検事は穏やかな口調できりだした。 「美枝子さん。事件当夜、革バンドで松瀬教授の首を締めつけたのは、 あなたではなく、そのとき応接間にはいってきた男の人なんでしょう」 五十嵐検事は顔をあげた美枝子と視線をあわせる。 「はい。そのお、検事さんのおっしゃるとおりです」 美枝子は五十嵐検事の視線を避け膝のうえに目をおとしてしまう。 「そうすると、あなたが首を左右にうごかして周囲を見ると、あなたの 手が届くところに、松瀬が脱ぎ捨てたズボンに革バンドがまわされて いたのに気づき、手を延ばして、その革バンドを抜き取り、両手に 全力を集中して必死の力を振り絞り、自分の息を止め、力のかぎり 締めつけたということは、あなたが創作した架空の事実ということですね。 つまりこの部分は虚偽の供述ですね」 「はい。検事さんのおっしゃるとおりです。すみません」 美枝子は顔をあげて検事と視線をあわせる。 「そして松瀬教授がばたついたあげく、げんなりして美枝子さんの おなかのうえでぐったりしたことはたしかですか」 「はい。たしかです」 「あなたが、しばらく目を瞑(つぶ)りそのままにしていると、そのうちに あなたの下腹部がラクになったことはたしかですか」 「はい。たしかです」 「松瀬教授の胸に手をあててみると、心臓の鼓動(こどう)が停止して いたということもたしかですか」 「いいえ。あたしは疲労困憊(ひろうこんぱい)していましたので、そんな 余裕はありませんでした」 「なるほど。あなたが下腹部を左右にうごかしてみると、松瀬のペニスが 抜けたせいか、あなたは松瀬教授のからだから離れられることがわかった そうですが。これはたしかですか」 「はい。そのとおりです」 「そうすると松瀬教授が、あなたのおなかのうえで、げんなりし、ぐったりした のはなぜでしょうか」 「はい。それは応接間にはいってきた人が松瀬の首を絞めて窒息死させた せいだと、あとでわかりました」 「松瀬教授のペニスが、あなたのバギナの異常な痙攣(けれん)によって 噛み締められて抜けなくなっているところへはいってきた人は、まずなにを されましたか」 「はい。その人は松瀬をうしろから羽交(はが)い絞めにして、あたしを 松瀬から引き離そうとしました」 「それでどうなりましたか」 「しかし引き離すことはできませんでした。引き離せないことがわかると、 その人は自分の腰からベルトを引き抜いて松瀬の首を締めつけました。 おそらく異常な状態を察知したため、咄嗟(とっさ)の機転でそうするしか 美枝子を救う途はないと判断して、緊急行為にでたものでしょう」 「それでは、あなたが松瀬教授のからだから離れてシャワーを浴びて から桜門大学お茶の水病院の医事課に電話をいれたことはたしかですか」 「いいえ。それはあたしがでっちあげた架空の事実です。はい」 「そうだとすれば、落合賢次医事課長がマンションの350号室に駆けつけた ということも虚偽の事実ですね」 「はい。すみません。課長はあの夜、マンションには来ていませんでした」 「なるほど。そうすると事件当夜の午後8時すぎに千代田マンションの350号室 の応接間にはいってきて、あなたを救ってくれた人はだれですか」 「はい。それは・・・そのお・・・」 美枝子は躊躇(ためら)い俯いてしまう。 「その人はだれでしたか。正直にこたえてください。ここは事件解決のポイント になります。その人はだれでしたか」 「はい。男の人です」 「男の人だけでは、その人を特定することができません。その人はだれですか」 「はい。でも男の人としかいいようがありません」 「その男の人は、あなたがよく識っている人ですか」 「はい。よく識っております」 「その人をよく識っていると・・・。そうだとすれば、その人は多摩梅吉さんですか」 「いいえ。ちがいます。父はあの夜、あたしのマンションには来ていません」 「するとその人は桜門大学お茶の水病院の竹山茂太郎事務長でしょうか」 「いいえ。ちがいます」 「竹山事務長でもない。そうだとすればその男はだれなんでしょう」 「はい。それは・・・・ええと」 多摩美枝子は五十嵐検事の視線を避け俯いてしまった。 「いったい、その人はだれなんですう!!」 五十嵐検事の追及は一段と厳しくなってきた。 「その人の名はもうしあげられません」 美枝子は俯いたまま独り言のように呟(つぶや)いた。 「なぜですか。美枝子さん」 五十嵐検事は美枝子に鋭い視線を浴びせる。 「どうしてですか。美枝子さん」 「はい。その人はあたしのピンチを救ってくださった人だからです」 「なるほど。あなたのピンチを救ってくださった人というと、あなたのマンション に出入りしていた人ということになりましょうか」 「ええ。まあ・・・」 「すると、美枝子さんのピンチを救ってくれた人といえば、あなたの婚約者の 石川流太郎さんではないですか」 「いいえ。ちがいます」 美枝子は五十嵐検事の顔を見つめ、きっぱりと否定した。 「まあいいでしょう。はなしをもとにもどしましょう。そのつづきを聞かせて ください。ええと。松瀬教授が窒息死して、あなたの下腹部がラクになり、 松瀬教授からあなたのからだが離れるようになってから、どうされましたか」 「あたしは丸裸の自分に気づいて、そのまま浴室に飛び込み、シャワーを あびました」 「そのあとはどうされましたか」 「はい。シャワーを浴びてから寝室にゆき、ガウンをはしょい、応接間に もっどってみると、その男の人、とりあえずAさんと呼ばせていただきます。 そのAさんは『ノドが乾いた』というので、あたしは冷蔵庫から麒麟(きりん)の 一番搾りをとりだし、ジョッキに注ぎAさんに勧(すす)めました。そして、あたし もおもいさまビールを煽(あお)りました。はい」 「そのあとはどうされましたか」 「はい。カシュウナッツを摘んだり、ビールを飲みながら松瀬の亡骸(なきがら) をどうするかはなしあいました」 「ふたりではなしあった末、どうすることになりましたか」 「はい。『人の生命を預かる医師であり高名な大学である医学部の教授であり ながら、性の異常者、いや性の乱脈で女性を犠牲にしてきた野郎だから、見せ しめのため衆人環視(しゅうじんかんし)の冷たい視線の渦のなかに晒(さら)して やろう。松瀬を晒すのに、どこかいい場所はないかな』と、Aさんはいいました」 「ほう。それで」 「あたしが『いい場所があるわ』というと、『それはどこだい』とAさんは聞きました。 『あのさあ。聖橋の欄干から千代田川に吊り下げるというはどうかしら』。あたしが そういうと『なるほどね。あそこなら中央線と総武線、それに地下鉄丸の内線の 電車からは丸見えだし、川に沿って走る路線バスからも見えるから、見せしめの ためには格好の場所だね』とAさんはけらけら笑いました」 「なるほど。そのあとはどうなりましたか 「はい。Aさんは『おおきな段ボール箱、ロープ、カミソリなど、あるものは出して くれ』といいました。そこであたしは寝室の奥の押入れから大型洗濯機の空き箱と 非情脱出用のロープを取りだしてきました。そして鏡台の抽斗(ひきだし)からは 和式のカミソリを取りだしてきました。このカミソリは父が訪ねてきたときに使わ せる予定で買い求めておいたものです。父は古い感覚の植木職人でして、電気 カミソリを嫌っていたからです。非情脱出用のロープはマンションに火災が起きた ときのために、松瀬にせがんで病院のものを3本ほど借りていたものです」 「それで松瀬教授の亡骸をどのように処置したのですか」 「はい。Aさんは、あたしに向かって『あとはオレにまかせろ。おまえはベッドに はいって寝(やす)め』といいました。それであたしはいわれたとおり寝室に向かい ベッドにはいりました」 「そのあとAさんは松瀬の亡骸をどのように処理したのですか」 「はい。ええと」 「できるだけ具体的にはなしてください」 「はい。あたしはなかなか寝つかれませんでしたが、そのうちいつのまにか 蕩(とろ)けてしまいました。 その翌朝、起きてみるとAさんの姿はどこにも見あたりませんでした。ですから Aさんが松瀬の亡骸をどのように処理したのかはまったくわかりません」 多摩美枝子は五十嵐検事の視線を避け俯いてしまった。 五十嵐検事室には、ふたたび黒い霧がたちこめていった。
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