【父と娘の庇いあい】
五十嵐検事室の白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の長針が ぴくりとうごき午後1時になった。 「あ、もうこんな時間か。ゆっくり昼食というわけにはいかないね」 五十嵐検事は壁時計を確かめ杉山検察事務官のデスクに視線をながした。 「そうですね。春山課長が見えられるんですから。それではカツ丼でもはこばせ ましょうか」 杉山は麦茶を炒れながら検事と視線をあわせた。 「そうだね。カツ丼をふたつ出前で頼むか」 「それでは地下食堂に電話をいれます」 杉山は自分のデスクのうえで受話器をとりあげた。
警視庁近くの並木道では、濃緑になったマロニエの並木が小雨に 濡(ぬ)れている。 桜田通りを車がひっきりなしにながれる。
警視庁地階の接見室では壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計 が午後1時をまわっている。 散水用の如露(じょうろ)のあたまを展開図にして拡大したような穴空き窓 の手前で菊野弁護士が待機してている。 まもなく接見室の奥のドアが開いて係官に付き添われた多摩美枝子が あらわれる。係官は美枝子を押しだすようにして奥へ消えてゆく。 多摩美枝子は穴空きの窓越しに菊野を見てあたまをさげる。 「さあ。美枝子さん。お掛けなさい。弁護人との接見は立会人なしでする ことができますから気楽にしてください」 菊野弁護士は金縁で鼈甲造(べっこうづく)りの目がね超しに微笑む。 「はい。ありがとうございます」 多摩美枝子はそっと腰をしずめる。 「からだのほうは大丈夫ですか」 菊野弁護士は労(いた)わりの眼差しで美枝子をみつめる。 「留置場のホテルで寝るのは生まれてはじめての経験ですので。はい。 娑婆(しゃば)とは隔離された生活というものは、大変なものなんだと おもいしらされました。でもこの特殊な環境にも順応してゆく覚悟です」 「そうですか。いずれにしても拘禁されている以上、これまでの自由な 暮らしとは、かなりちがいますから、からだには充分気をつけてください」 「はい。ありがとうございます」 美枝子はやつれた瓜実顔を菊野弁護士に向けた。 「ところで。五十嵐検事のまえで供述したことはすべて偽りのない真実 ですか。パフォーマンスを演じてるようにもみえるんですが」 菊野弁護士は多摩美枝子の瓜実顔を凝視(ぎょうし)する。 「ええと。そのパフォーマンスとおっしゃいますと」 「そのお。パフォーマンスは、大道芸というか、素人芝居というか。 そういう演技で事実を歪曲(わいきょく)していないかということです」 「あら先生。あたしがウソの供述をしてるとでも、おっしゃりたいんですか」 瓜実顔は菊野弁護士に抵抗するかのような表情にかわった。 「あなたが高校生のころから、庭木の手入れで、お父さんを手伝って、 よくうちに出入りしていたので、その性格は識っているつもりですが。 それだけに、あなたが松瀬を殺害するなど、どうみても聊(いささ)か 無理があるような気がするんですがね」 美枝子は菊野の視線を避け俯(うつむ)いてしまう。 「でも先生。あたしが事件当日にやったことは、実在した歴史的事実 なんですの。いちど現実に発生した歴史的事実をご破算にして消しゴム で消してしまうように、なかったことにすることは不可能です」 「それはそのとおりですが。殺ってもいないことを殺ったと供述することは 刑事事件の被疑者についてはよくあることです。だから、美枝子さんも、 なにかの理由で真実を隠蔽(いんぺい)し、すべて自分で泥を被ろうと しているようにおもわれてなりません。」 「いえ。決してそんなことはありません。あたしは、実際に生起したことを 恥を忍んで、そのまま検事さんのまえで述べたにすぎません」 「そうですか。しかし、あなたが述べたことは、このままだと、検察官面前 調書に作成される可能性があります。調書を作成する段階になりましたら、 これまでの供述は真実に反するものだと、五十嵐検事のまえではっきり 述べてください。そのほうが、あなたを弁護しやすくなりますから。それに お父さんの梅吉さんが『松瀬殺しの犯人は、このあっしだ』と云って先程、 自首してきたんですよ」 「なんですって。まさか。そんあはずはありません。父が自首してきたなんて それほんとですか」 美枝子は菊野弁護士に鋭い視線を浴びせる。 「ええ。お父さんは、きのうの晩、わしのところへ見えて『美枝子の弁護を おねがいしたい』と云って、今朝はわしといっしょに、やってきたんですが。 突然、自首すると云って警視庁捜査一課に出頭したんですよ」 「そうですか。父が松瀬を殺ったなんて、それこそ馬鹿正直な父の猿芝居 です。父の云ってることは、まったくのデタラメです。松瀬を殺った5月13日 の夜、父はあたしのマンションには来ていません。ほんとなんです。はい」 多摩美枝子は向きになって梅吉の犯行を否定した。 「わしもね。梅吉さんが松瀬を殺ったとは考えていません。なにかの理由で パフォーマンスを演じてるにすぎません。ひょっとしたら娘のあなたを庇(かば)う ために自首してきたんじゃないでしょうか」 「はあ。そうかもしれません」 「ところで、美枝子さんもだれかを庇って自分が松瀬を殺ったと虚偽の供述を しているんでしょう」 「いいえ。そんなことはありません。あたしが松瀬を殺ったことは紛れもない 真実なんです。ええ。ほんとうにあたしが松瀬を殺ったんですから起訴されて 公判にかけられてもやむをえません。ただ五十嵐検事さんもおっしゃるように 無罪の主張ではなく、有罪でもいいですから、そのなんでしたっけ。過剰防衛 かなにかを理由に刑の減軽をしてもらえるよう菊野先生に弁護ねがいます」 「もちろん、弁護はしますが。無実の者が罪を被ることは許されません。国家の 刑罰権の発動を誤らせることになるからです。仮に他人を庇ってウソの自白を しても、いずれ虚偽の自白として排除されてしまうもんです。そうだとすれば、 被疑者として取調べを受けている段階で、ウソはウソとして正直に撤回する のが賢明です」 「でも先生。ハナカラ存在しないウソを撤回することはできません」 「美枝子さん。どうしてそんなに意固地になるんですか。自虐的(じぎゃくてき)に 自分で自分を苛(いじ)めることはやめて、もっと素直になりましょう」 「でも先生。実際に事件現場で生起した歴史的事実をそのまま検事さんに もうしあげているんですから、これほど素直なことはありません」 「あのね。ほんとに素直な気持になったら狂言などできるはずはないでしょう」 「いいえ。けっして狂言などではありません。真実をそのまま述べただけです」 「そうではありません。あなたの供述は、真実の部分と偽りの部分があると みているんですがね。あなたがマンションの350号室の応接室で松瀬に 押し倒され、遮二無二(しゃにむに)ふたつの肉体が結合されたとき、性行動 がおわってからも、ふたつの肉体が結合されたまま離れなくなった。という 常識では考えられなような異常な状態が生起した。そこまではおそらく真実 でしょう。しかし松瀬のズボンから革バンドを抜き取って、眠りこけている 松瀬の首を絞めたのは、あなたではなく、そのとき部屋にはいってきた別の 人が、ふたりの肉体の結合を離そうとしたが、引き離すことができなかった ので、やむなく非常手段として、目のまえにあった松瀬の革バンドで松瀬の首を 絞め、異常な状態を解消して、あなたを救った。というのが真実だと、わしは 考えているんですがね」 「いいえ。あのとき、あたしの部屋にはいってきた者はおりません。あまりの 苦しさに耐えかねて、苦し紛れに、あたしが松瀬の首を絞めたんです。はい」 「いや。ちがいますね。そのとき部屋にはいってきた男の人は、お父さんの 梅吉さんですか。それとも落合賢次医事課長でしたか。もしかして竹山茂太郎 事務長でしたか。さらには石川流太郎さんだったかもしれません」 「あの事件当夜、あたしの部屋にいたのは、松瀬とたしだけです。ほかには だれもおりませんでした。ほんとです」 「そうだとすれば、梅吉さんはなんでまた自首してきたんですか」 「それは父に聞いてみないと、ほんとのことはわかりませんが。多分、父は、 あたしを庇うために自首してきたんでしょう」 「それはそうかもしれません。しかし梅吉さんが娘のあなたを救うために、 咄嗟(とっさ)の機転で犯行におよんだと考える余地は残ります。ところで、 石川流太郎さんは、あなたが逮捕されたことを識っていますか」 「ええ。きのうの事情聴取の結果、あたしの逮捕が決まったとき、五十嵐 検事さんの指示により杉山検察事務官が父と流ちゃんにしらせることに なっていましたが、実際にしらせたかどうかは、あたしにはわかりません。 でも父が菊野先生を訪ねて、あたしの弁護をおねがいしたんですから、 すくなくとも父にだけはしらされているはずです」 「まあね。美枝子さん。いま、なにかやって欲しいことはありませんか」 「はい。あたしの持ち物は、みんな取りあげられてしまいましたが、生活に 必要なものはありますのでなにも要りません。あたしがいま、欲しいものは 『自由』という心理的な空間だけです」 「なるほど『自由』という空間ですか。その空間を取り戻すためには、一刻も 早く真実を告白するしかありません。そこのところをよおく考えてください」 「はい。わかりました」 「このあとで、梅吉さんとも接見することになっていますが」 「そうですか。父のこと、よろしくおねがいいたします」 「それでは、きょうはこれで・・・。また来ますから」 「いろいろと、ありがとうございました」 多摩美枝子は起ちあがり深く頭をさげた。 そのとき接見室の奥のドアが開いて係官が顔をだした。 背中をまるめた美枝子は接見室の奥に吸い込まれていった。
菊野弁護士は接見室の穴あき窓の手前で腕を組み待機している。 しばらくすると接見室の奥のドアが開いて、係官に付き添われて梅吉が あらわれた。梅吉を接見室に押し出した係官はドアの奥へ消えてゆく。 「先生。お忙しいところ、手間あばかけてすいません」 梅吉はぺこりと頭をさげ、穴あき窓を隔てた菊野弁護士と差し向かいで 腰をおろした。 「いま、この場所で娘さんと接見したばかりです」 菊野弁護士は穏やかな表情で梅吉に語りかける。 「ありがてえことでござんす。あれはなんて云っていあしたか」 梅吉は陽焼けした顔をあげ、ぎょろりと菊野をみつめる。 「それがですね。『松瀬を殺ったのは、あたしだ』という一点張りなんですよ。 事件当夜、マンションの部屋にいたのは、松瀬とふたりだけだったと」 「そんなあはずあねえであすだ。あっしが美枝子の部屋にへえっていったとき、 松瀬の野郎あ、倒れた美枝子のうえに馬乗りになっていやがったんで、へえ。 『この野郎』ってんで、松瀬を羽交(はが)い絞めにしようとしたところ、あいつは からだがばかでっかくて、医者のくせに馬鹿力があって、跳ね飛ばされそうに なりあしただ。そいで咄嗟(とっさ)に腰に巻いていた兵児帯(へこおび)をひん抜い て松瀬のうしろから一気に首を絞めあげたんで。へえ。そいであの野郎は美枝子 から離れあしたが、ばたつくんで、その場であっしの体重をうしろに傾けあして、 しばらく精一杯絞めつづけあしただ。そのうち松瀬がぐったりしたんで。へえ。 それで一巻の終わりということでして。へえ。そうなんでごあすだ」 梅吉は下を向いたまま、ぼそぼそと語った。 「どうしてまたその夜、つまり5月13日の午後8時ごろ、娘さんのマンションを 訊ねたんですか」 「へえ。それが、ふだんは、あの子の休みの日にだけ、それもお昼過ぎにだけ マンションにゆきあしただ」 「それがまた、どうしてその日だけは夜に行ったんですか」 「へえ。実は白山先生が『おめえの娘にはドエライ虫がついてる』と教えてくれ たんでごあす。それも木曜日か土曜日の夜だちゅはなしでした。それで、あの 夜は、仕事で使ってる小型トラックで青梅街道から都心に出あして、マンションの 木陰に隠れていたんでごあすだ」 「そのあと、どうなされましたか」 「へえ。白山先生のいわれたとおり、あの夜の7時半ごろ、男が美枝子の部屋の めえにやってきて、ドアの脇の南天の鉢のうしろからカギを執りだして美枝子の 部屋にへえってゆきあした」 「なるほど。それで」 「へえ。あっしは美枝子がけえって来るまで待とうとおもい、じいっと待っていると、 美枝子が白いレジ袋をぶらさげて、けえってきあしただ。それでこっそりと部屋の めえのドアに近づき、なかのようすをうかがっていると、美枝子の悲鳴が聞こえて きあしただ。それでドアを叩(たた)き開けて飛び込んでみると、さっき話したような ていたらくでして。へえ。それで『この野郎!!』と、殺ってしまったようなわけでして」 「美枝子さんは、『あの夜、父はマンションには来なかった』と云ってるんですが」 「とんでもねえ。あの子はあっしを庇ってウソついてるんでごあす。へえ」 「さあ。どうでしょうか。いずれにしても、検察庁も警察もやっきになって梅吉さんと 美枝子さんの供述のウラをとり、証拠を探索しているでしょうから、そのうち、真実も はっきりしてくることでしょう」 「先生にひとつ、おねげえがありますだ」 「なんでもおっしゃってください。わしにできることなら」 「へえ。警察のガさ要れがねえうちに、青梅の家にへえってもらい、仏間のタンスの いちばん右上の抽斗(ひきだし)の奥に、銀行の貸金庫のカギがへえっていあすんで、 それを預かってくんなせえ。預金通帳はその金庫にへえってあすんで、当分の費用 は預金をおろしてくだせえ。あいすみません」 「当分の費用の心配は要りませんが、そのカギだけは、いまから青梅に行ってみ ましょう。それではからだに気をつけて。またあした来ますから」 「よろしく、おねげえしあす」 多摩梅吉は起ちあがり深く頭をさげた。 接見室のドアが開き係官が顔ををだした。 多摩梅吉は係官に背中を押され接見室から消えていった。
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