【美枝子の再逮捕】
五十嵐検事室では、壁時計の長針がぴくりとうごき午後4時になった。 検事デスクを挟み五十嵐検事と多摩美枝子が対峙(たいじ)している。 「それでは、コーヒーで一服したところでおはなしを再開しましょう。落合 課長は松瀬の亡骸を収容した段ボール箱を手押し車に載せて千代田 マンションの350号室からでてゆきました。そのあと、落合課長はあなたの マンションにもどってきましたか。多摩美枝子さん」 「いいえ。しばらくして電話のベルが鳴りひびきました。あたしが受話器を とりあげると課長からでした。あたしが『うまくいったの』と聞いたら『だれにも 見られなかった』ということでした。あとで判ったことですが、そのころ聖橋の 本郷寄りの道路は、水道管の取替え工事と道路の補修工事をダブらせ、 交通止めになっていたそうです。ですから一般車両は橋のうえに進入する ことができませんでした。だれにも見られなかったのはそのせいかと」 「なるほど。そうでしたか。ところであなたのマンションのキッチンの包丁立 に収納されていた文化包丁は5月27日の夜、竹山茂太郎事務長の死体を 毀損(きそん)するときに使われただけでなく、それ以前の5月13日の夜、 松瀬教授の死体を毀損するときにも、すでに使われていたということに なりますね。そうでしょう。美枝子さん」 「はい。そのことは検事さんのおっしゃるとおりです」 「そうすると、死体損壊の凶器として用いられた文化包丁は、2度までも 落合賢次課長が手を触れていたはずなのに、その包丁からは課長の 指紋がでてこなかった。でてきたのは、あなたの指紋と石川流太郎さんの 指紋だけなんです。この点はどうも合点がいかない」 「はい。その点は、まえにも、もうしあげましたように、課長はゴム手袋を 嵌めていたんではないでしょうか」 「しかし医事課長という職務についている落合賢次がいつもゴム手袋を 携帯しているということは、社会通念からみても、おかしいんじゃないです か。けど、その落合課長もすでに殺害されてしまったのですから、まあ、 いいでしょう。その点は留保しておきましょう」 「検事さんのおっしゃるとおり、たしかにその点はすっきりしませんが」 多摩美枝子は瓜実顔の首を傾げる。 「ところで、あなたは松瀬の革バンドで松瀬の首を絞めたといわれました が、その革バンドはどうされましたか」 「よくわかりません」 「その革バンドのほか、松瀬が着ていた背広やワイシャツなどは、どう されましたか」 「はい。それもよくわかりません。松瀬の亡骸を洗濯機のはいった箱の ように荷造りをしてマンションからはこびだしたあとには、松瀬のものは なにも残っていませんでした。はい」 「そうすると松瀬の衣類なども丸裸の松瀬の亡骸といっしょに段ボール箱 に収納してもちだしたというわけでしょうか」 「はい。よくわかりませんが、そうとしか考えられません」 五十嵐検事は、腕を組み、じいっと多摩美枝子の瓜実顔を見据える。 「ところで、あなたの供述には、もうひとつ矛盾があるんですが」 「矛盾とおしゃいますと・・・・」 「つまりですね。きのうの供述では、あなたは『真新しいカミソリを落合 課長に手渡した』といわれました。それは5月27日の夜の話ですね」 「ええと。そうですけど」 「しかし、きょうの供述によれば、そのおなじカミソリは、すでに5月13日 の夜、松瀬教授の死体を毀損するときに使われていたわけでしょう。 そうだとすれば、そのカミソリはいちども使っていない真新しいカミソリ とはいえないでしょう」 「いいえ。真新しいカミソリだったことは、まちがいありません。3本の カミソリがワンセットになっている箱に、カミソリ3本がはいっていた のですから、決して矛盾してるわけではありません」 「なるほど。そうですか。いずれにしても、きょうのあなたの供述が 真実であるとするならば、5月13日夜の行為は、殺人罪を構成する ことになります。ただ公判では、過剰防衛の成否が争点とされる余地 はありますが。美枝子さんの供述により、聖橋事件の核心に触れる 部分が浮き彫りにされてきました。この意味において、きのうの供述 を考慮して、竹山事務長の死体損壊の幇助(ほうじょ)については、 不起訴処分にする予定でした。しかし松瀬教授の殺害は、まったく 別の事件ですし、他人の生命にかかわる犯罪ですから、黙認する わけにはいきません。多摩美枝子さんは、松瀬らによる強姦事件の 被害者ですから、お気の毒ではありますが、再逮捕ということになり、 起訴前の拘留期間もあらたに起算されることになります。ですから このまま警視庁の個室に留まっていただきます」 「はい。もう覚悟はできてますから」 「こんごのことについては、警視庁の接見室で菊野弁護士とよく はなしあうようにしてください」 五十嵐検事は杉山検察事務官に目配せした。 「多摩さんどうぞ」 杉山検察事務官は多摩美枝子に退去をうながした。 多摩美枝子は起ちあがり、検事に深々とあたまをさげたあと、 菊野弁護士と視線をあわせた。 「それでは、のちほど接見室のほうで」 菊野弁護士は美枝子に云いふくめた。 待機していた女性の係官は美枝子にがちゃりと手錠を嵌めた。 美枝子は羊飼いに追われる羊のように廊下へ消えてゆく。
「こちらへどうぞ」 五十嵐検事は菊野弁護士にうながし、シガレットケースから タバコを引き抜きながらソファーに向かった。 ソファーに凭(もた)れた検事は天井にむけ紫の煙を噴きあげた。 菊野弁護士も五十嵐検事と差し向かいでソファーに凭れ、タバコ をつけながらきりだした。 「実はね。多摩美枝子の実父の多摩梅吉が、松瀬殺しの実行犯は 自分だと云って、さきほど警視庁捜査一課に自首してきたんだ」 「なんですって!! 美枝子の父親が自首してきたって」 五十嵐検事は不意打ちを食わされ、タバコの吸いさしを灰皿の うえにおとしてしまった。 「ああ、そうなんだ。多摩梅吉は昨夜わしを訪ねてきて、美枝子の 弁護を頼むと云ったんだ。それで『あっしも、いっしょに連れていって 欲しい』と云うんで、いっしょに来たんだが、突然、『松瀬殺しの真犯人 はあっしだから、自首するにはどこに顔をだしたらええか』と云いだし たんだ。こちらへ出頭すると取り調べ中の娘の美枝子と鉢合わせに なるんで、警視庁捜査一課のほうに自首させたんだがね」 「なるほど。そうすると、さっきまでの多摩美枝子の供述は、すべて 彼女のパフーマンスの猿芝居だったというわけか」 五十嵐検事は忌々しそうにタバコを灰皿に磨り潰した。 「さきほどの取調べの状況からみて、多摩美枝子の供述はかなり 信憑性(しんぴょうせい)の高いものとはおもうが。被疑者の父親が 自首してきたのだから、美枝子の供述には、なにかこう、真実を 歪曲(わいきょく)している部分があるような気がしてならないんだ」 菊野弁護士は、じいっと天井をみあげる。 「たしかに。いわれてみれば、そんな気になれなくもない。そうすると、 父と娘のうち、どちらかの供述の中身が虚偽ということになるが。 なぜ虚偽のはなしをもっともらしく供述しなければならないのかな。 その動機が問われることになる」 五十嵐検事はシガレットケースからタバコをひきぬいた。 「その動機なんだがね。おそらく父と娘の双方が互いに庇(かば)い あっているんだとも考えられる」 「そうかもね。とにかく5月13日の木曜日の夜、午後8時前後に、 千代田マンションの350号室で多摩美枝子が松瀬の性欲発散の 受け皿にされてしまった。そのとき信じられないような異常な現象が 生起した。結合された男女の肉体がはなれなくなったと・・・」 「おそらく、そこまでは被疑者の供述どおり真実でしょう。被疑者の 供述のときの態度からみてね」 「そうすると、常識では考ええられないような異常な状態でふたつの 肉体が絡み合い、縺(もつ)れあっているところへだれかがはいって きた。そのとき350号室にはいって来たのはだれか。多摩美枝子の 云うとおり落合賢次課長だったのか、それとも多摩梅吉だったか。 さらには石川流太郎だったのか」 「まあ。そこが事件解決の決め手になるでしょう。だが、そのとき はいって来た人の特定はかなり困難だろう。なにしろ密室のなかの 出来事なんだから。その現場に居合わせた者の供述にまつしかない」 「そうなんだ。事件当夜のその瞬間、350号室にはいって来た人物は だれか。この点で美枝子の供述と梅吉の言い分が食い違ってくること になるでしょう。警視庁捜査一課で多摩梅吉はどんな供述をしている のか。それにしても春山課長からは、なんの連絡もはいってこないな。 ひとつ、こちらから電話をいれてみるか」 五十嵐検事はそういい残して検事デスクに向かった。 「それじゃ、わしは警視庁に行って多摩美枝子に接見するが。そのあと で多摩梅吉にも接見させてもらうつもりだ。だが、春山捜査一課長は 梅吉との接見を拒否するかもしれない。そこで検事のほうから多摩梅吉 に接見させるよう指示して欲しいんだ」 「ええと。そうだね。検察と弁護士とは犬猿の仲だが。事実関係のおお よそのところはすでに洗いだされているのだし、初動捜査だからといって 接見を拒否することもなかろう。わしからも春山課長に菊野弁護士と 接見させるよう指示しておきましょう」 「そうしてくれるとありがたいんだが。君は国家の刑罰権の発動を適正に するために真実を探索しているのだし、わしは被疑者や被告人の人権を 擁護(ようご)するために真実の発見に取り組んでいるのだ。そうだとすれば、 互いに目指すところは真実の発見という共通した目標だ。それでは」 菊野弁護士はチョコレート色のおおきなカバンをもちあげ検事室から 消えてゆく。 五十嵐検事がデスクのうえで受話器をとりあげようとしたとき電話の ベルが鳴りひびいた。 五十嵐検事は起ったまま受話器をとりあげる。 「検事の五十嵐ですが」 「春山ですが」 と、電話の向こうから太い男の濁声(だみごえ)が伝わってきた。 「ああ。いま電話をいれようとしていたところだ」 「実は多摩美枝子の実父の梅吉が『松瀬殺しの真犯人はあっしだ』と 云って自首してきたので、あらましの取調べがおわったところです。 いまから、そちらへご報告にうかがいます」 「ああ。そのことは多摩美枝子の取調べに立ち会った菊野弁護士から 聞かされた。それで菊野弁護士が多摩美枝子に接見したあとで、 多摩梅吉にも謁見したいといっているんで、多摩梅吉にも接見させて くれないかね。これは検事命令だ」 「はい。わかりました。いまからそちらへ出頭します」 「それでは、よろしく」 五十嵐検事は受話器をおいて椅子に掛け回転椅子をぐるりとまわした。
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