【違法な誘導訊問】
梅吉は菊野弁護士の背後から声をかけようと躊躇(ためら)ったが、 思い切って濁声(だみごえ)をかけることにした。 「菊野先生。詳しいことあ、取調べの刑事さんに話すことにして、それよりも 先生あ、なるべく早く美枝子のところへ行ってくだせえな。あれが検事さんに 苛められるのあ、可愛そうですけえに」 菊野弁護士が腕時計をみると10時40分をまわっていた。 「ああ。もうこんな時間か。それじゃ、とにかく警視庁捜査一課に出頭してから、 わしは検察庁にゆくことにしましょう」 菊野弁護士はマロニエの並木道をあるきつづける。梅吉は背中をまるめ、 とぼとぼとそのあとにしたがう。 桜田通りを横切って菊野は警視庁の正門から庁舎にはいってゆく。 梅吉もそのあとにつづく。 「わしあ。警視庁の門を潜るのあ、生まれてはじめてだで」 梅吉は独り言をいう。
検察庁という太い文字が刻み込まれた検察庁の正門から数人の弁護士が 構内にはいってゆく。その正門の背後には白っぽい検察庁の高層ビルがそそり たっている。 おおきなチョコレート色のカバンを提げた菊野弁護士が検察庁の正門から、 そのキャンパスにはいってゆく。
五十嵐検事室では『日捲りカレンダー』が1999年6月22日火曜日に なっている。 白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前11時 になった。 五十嵐検事は、検事デスクに向かい書類を点検している。 検事デスクのまえには多摩美枝子が肩を窄(すぼ)めて座らされている。 そこへ菊野弁護士がはいってくる。 杉山検察事務官は菊野弁護士に向かって会釈し、 「菊野先生こちらへどうぞ」 と微笑みながら検事デスクの脇に折畳み式椅子をひろげた。 「どうも」 菊野弁護士はカバンを床におき、椅子にかける。 多摩美枝子はすくっと起ちあがり菊野に向かい会釈する。 「それでは、昨日につづいて聖橋事件に関する事情をお聞かせいただきます。 きょうの取調べには菊野弁護士の立会いを許可しました。よろしいですね。多摩 美枝子さん」 五十嵐検事は菊野弁護士と視線をあわせるのを避けるようにして書類を捲る。 「はい。わかりました」 多摩美枝子は検事をみつめてすなおにこたえる。 「昨夜はよく眠れましたか」 五十嵐検事は瓜実顔の美枝子を見据える。 「いいえ。留置場のホテルは生まれて初めての経験でした。そのせいか、 ほとんど眠れませんでした」 多摩美枝子は腫れぼったい眼差しを検事に向ける。 「それはお気の毒さまでした。美枝子さんは竹山茂太郎事務長による強姦の 被害者であるというのに、まことにお気の毒ですが。それだけに聖橋事件および お茶の水橋事件の核心に触れる部分にかかわる真実は、あなたのハートのなか に秘められているはずです。ですから、以後の取調べでは、あなたの人権にも 抵触する深刻な問題がでてくるとおもわれます。けど真実を述べれば気持ちも 楽になって、よく眠れることでしょう。このまえの石川流太郎さんとのアリバイ証明 のような偽装工作はしないでください」 「はい。検事さんのような秀ぐれた捜査官のまえでのパフォーマンスは、すぐ 見抜かれてしまいますので、あたしの識っていることは、真実をそのまま述べ させていただきます」 多摩美枝子は五十嵐検事の目をみつめて誓うようにいう。 「ええと。竹山茂太郎事務長殺害事件の犯行は、落合賢次医事課長であった ことが、あなたの供述で明らかになりました。そのレールを遡ってゆけば、松瀬 病院長殺害事件の真相も浮き彫りにされることでしょう。そこであなたにとって は、二度と想起したくない、きわどい質問がでてきますので、こちらからの訊問を 冷静に受け止め、真実をそのままお聞かせください」 「はい。わかりました」 「きのうの事情聴取のとき、あなたが述べた供述のウラをとるために、千代田 マンションのあなたのお部屋を家宅捜索しました。しかしながら、あなたの供述 によるカミソリは発見することができませんでした」 「そんなはずはありません。落合賢次課長が竹山事務長の頭を丸坊主にしたり、 陰毛まで剃りおとしたときに使ったカミソリは、あたしの寝室の鏡台の抽斗に いれておいたはずですが」 「それが発見できなかったんですよ」 「するとだれかがカミソリをもちだしたんでしょうか」 「そうかもしれませんね。そうするとあなたの部屋に出入りすることができる人は だれですか」 「はい。ドアの脇の南天の鉢の裏からキーを執りりだして部屋に入れるのは、 父の梅吉と流ちゃんだけですけど」 「なるほど。そうすると梅吉さんか、石川流太郎さんが南天の鉢の脇からキー を執りだして、あなたの部屋にはいり、カミソリをもちだしたということでしょうか」 「はい。そうとしか考えられません」 「ところで、もうひとつの凶器である、あなたの文化包丁なんですが。その包丁は、 あなたの供述どおり、キッチンの包丁立にちゃんとありました。そこで鑑識に 指紋をとらせたところ、あなたの指紋と石川さんの指紋しかでてこなかったん ですがね。落合課長の指紋はでてきませんでした」 「そんなはずはありません。たしかに落合課長はあたしの文化包丁を使って 竹山事務長の両眼、両耳と男の中足いや、竹山さんのアレを切り取ったはず です。それにしてもどうやって流ちゃんの指紋ということが判明したんですか」 「それはね。6月7日に石川さんの事情聴取をしたときに、杉山検察事務官が お茶をだしたんですよ。そのとき念のため石川さんが触れた茶碗から指紋を とっておいたんですよ」 「まあ、酷いはなしね。事件当夜、課長は手袋を嵌(は)めてたのかもしれませ ん。いずれにしても、あたしは気が動転してましたから、課長が手袋を嵌めて いたかどうかは、よく記憶しておりません」 「それにしても、あなたの文化包丁に、あなたの指紋のほか石川さんの指紋が ついていたということは、どういうことなんでしょうか」 「はい。それは流ちゃんが、あたしのマンションに泊まったときに、得意料理 の『鯉こく』を造ったので、そのときに鯉を捌(さば)くために包丁を使っていま したから、指紋が残っていても不思議ではありません」 「なるほど。そうでしたか。ところで、落合課長の住宅も家宅捜索したんです が、あなたのおっしゃる被害者の運搬用に用いた段ボールの空き箱とか、 信州林檎の空き箱に収納したという被害者の衣服、それに切断したはずの 被害者の両眼、両耳、ペニス、さらに被害者を丸坊主にしたときに剃り落とし た髪の毛なども発見できなかったんですが」 「そんなこと、あたしには、まったくわかりません。犯行直後に、あたしが目撃 したのは、切断した竹山事務長の両眼、両耳、それに竹山のアレなどが 白い洗面器のなかに放り込まれていた情景だけです。はい」 「そうですか。ここからは二度と想起したくないはずの、あなたの記憶を 喚起してもらうことになりますが・・・・」 「はい。もう覚悟はできていますから」 多摩美枝子は俯(うつむ)いて、ほろりと涙を零(こぼ)した。 「それでは、きわどいはなしになりますが。あなたのマンションの応接室で、 竹山事務長に押し倒され、あなたがレープされたとき、あなたの膣が異常な 状態で極度の痙攣(けいれん)をおこし、竹山事務長のスリコギ棒が抜けなく なったと、あなたは供述していますが。それとおなじような異常な現象は、 松瀬教授との性行動の場合には、起きなかったのですか」 「はい。病院長室で松瀬にレープされて以来、男に抱かれるときには、 一種の恐怖感にとりつかれました。ただ流ちゃんとのときは、そういう 恐怖感はありませんでした。しかし、松瀬に抱かれるときには、当初、 恐怖感が残りました。そこで桜門大学お茶の水病院の精神科で部長 教授のカウンセリングを受けました。部長教授は、云いました。時間の 経過につれて、そうした恐怖感もしだいに希薄化してゆくから心配ない と。それでいくらか安堵(あんど)したせいか、ベッドのなかでやさしく松瀬 に抱かれるときにはそういう恐怖感はしだいに消えてゆきました」 「そうすると、松瀬教授との逢瀬(おうせ)のときには松瀬のペニス が抜けなくなるほどの異常な現象は、いちどもなかったのですか」 「はい。ベッドのなかでの性行動のときにはありませんでした」 「そうすると、当初、院長室で松瀬にレープされたときのように暴力的に 単に性欲発散の受け皿として、あなたに襲いかかるというような松瀬の 行為は、その後まったくなかったのですか」 「はい。ええと、その・・・」 多摩美枝子は躊躇(ためら)い、ことばを濁した。 「どうなんです。5月27日の午後8時ころ、竹山事務長があなたに襲い かかり、単に竹山の性欲発散の受け皿にされたときに、突如として生起 したペニスが抜けなくなるという異常な状態は、松瀬との性行動のとき にはいちどもなかったんですか」 五十嵐検事はライオンが獲物を狙うときのような鋭い眼差しで多摩 美枝子を問い詰めた。 「ちょっと待ってください。五十嵐検事!!。取調べの過程で誘導訊問は 止めてください。そうした誘導訊問は犯人を自白させるときの違法な 手段として許されません」 それまでただ黙って取調べの成り行きをみていた菊野弁護士が いきりたつように激しい口調で抗議する。 「別に誘導しているわけではありません。真実を探索(さぐ)りだすため の適正な手段にすぎません。取調べを妨害するときには立会いの 許可を取り消し退去していただきます」 五十嵐検事は菊野弁護士のほうに向き直り反撃した。 「おっしゃるような妨害をするつもりはありませんが」 菊野弁護士は検事のセリフを跳ね返した。 「それでは訊問をつづけます。多摩美枝子さん、どうなんですか。 松瀬との性行動のときには、膣の異常な病的痙攣によって、あなたの いうスリコギ棒が抜けなくなるようなことは、その後いちども生起しな かったんですか。どうなんです。美枝子さん」 多摩美枝子は泣きじゃくりながら絶句してしまう。 五十嵐検事室は、重苦しく黒い霧のような雰囲気に包まれてゆく。
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