【多摩美枝子の逮捕・拘留】
多摩美枝子は、竹山茂太郎事務長殺害事件当夜の状況について、 その一部始終を克明に語り尽くし、ふうっと深い溜め息を吐いた。 「そうでしたか。ええと」 五十嵐検事はソファーのうえで腰を浮かせた。 「多摩さんのおはなしが一段落しましたので休憩しましょう。杉山君、 熱いコーヒーでも炒れてくれないかね」 五十嵐は検事デスクにもどった。 「はい。ただいま」 杉山検察事務官はコーヒーの準備にとりかかる。
五十嵐検事室の壁に掛けられた「日捲りカレンダー」が1999年 6月21日になっている。 白い壁に掛けられた壁時計の長針がぴくりとうごき午後3時になった。 「コーヒーがはいりました」 杉山検察事務官はコーヒーをテーブルにさしだした。 「それではコーヒーをいただくとするか」 五十嵐検事はソファーにもどってきた。 「さあ。熱いうちにどうぞ」 多摩美枝子にコーヒーを勧めた検事はコーヒーカップに手をかけ ひとくちすすりあげた。 杉山検察事務官は自分のデスクに向かいテレコの電源をいれた。 「それでは、さきほどのつづきにはいりましょう。深夜のあなたの マンションにもどってきた落合賢次課長は、だれにもみられなかった とはなしたそうですが。そのほかにもなにかいわれましたか」 「はい。ええと」 多摩美枝子は首をかしげながらコーヒーをひとくちすすった。 「課長はビールを飲みながら『竹山の両方の手首をロープで緊縛 (きんばく)してお茶の水橋の欄干から全裸の亡骸(なきがら)を 神田川の水面すれすれに吊るした』ともいいました」 「そのほかには」 「ええと。課長は『あすの朝になれば、警察とマスコミが騒ぎだし て日本列島を震撼させるだろう』ともいいました。そのとおり翌朝 のテレビニュースはお茶の水橋事件でもちきりになりましたし、 新聞でも5月28日の夕刊でおおきく報道されました。このことは 検事さんもご存知のこととおもいます」 「それで竹山事務長が身につけていたはずの」 五十嵐検事はコーヒーカップに手をかけた。 「背広その他の着衣はどうされましたか」 「はい。課長は『これもオレが処理する』と云って、浴室のドアの 脇に放置されていた信州リンゴの空き箱に詰めました。けど、それ がマンションでは見当たりません。ですから課長がマンションから どこかに持ちだしたものとみています」 「なるほど。それで死体の損壊という犯行に用いた文化包丁とか、 和式のカミソリはどうしましたか」 「ええと。そのカミソリはきれいに洗い、包丁はキッチンの包丁立て に収納してあります。カミソリはベッドルームの鏡台のひきだしに そのままもどしました。でも気持がわるいので、機会をみてあとで 廃品として処分するつもりでした」 「そうでしたか。事情はよくわかりました」 「そうすると検事さん。あたしが落合賢次課長の犯行に手を貸した 責任はどうなるんでしょうか」 「まあ。厳密には課長が犯した死体損壊・遺棄(いき)の行為を助けた 点で、その幇助(ほうじょ)の責任が問われます。しかし多摩さんの 場合、事情が事情ですから、かならずしも立件されるとはかぎりませ ん。ただ立件されないとしても課長の犯罪にかかわったわけですから、 お気の毒ではありますが、きょうはこのまま、お帰りいただくわけには いきません」 「はい。もう覚悟はできています。懲役でもなんでも、法律で決められ たことには服従するしかありません」 「美枝子さんは被害者であるのに、お気の毒ではありますが。きょう からは警視庁のホテルにお泊りいただくことになります。しかしながら、 かならず立件されると決まったわけではありません。それにあなたの 供述によりお茶の水橋第一事件の真相が明らかになりました。これを 端緒として聖橋事件およびお茶の水橋第二事件の解明も促進される ことでしょう。このような捜査の進展も、あなたが真実をお聞かせくだ さったからです。この間の事情を勘案しますと、あなたの刑事責任の 追及は寛大になされることになりましょう。あまりご心配なさらぬよう」 「いいえ。犯罪になるんでしたら、かっきり起訴していただき、公判に かけてください。犯した罪の償いだけはいたします」 「お気持はよくわかりました。それでは係官に案内させますから、 しばらくこのままお待ちください。あなたのハンドバッグや携帯電話 その他の所持品は、こちらでお預かりしますのでご承知ください」 「はい。わかりました。あの」 多摩美枝子は胸のうちの動揺を隠しきれず涙ぐんだ。 「あたしの父や流ちゃんに電話してもよろしいでしょうか」 「いえ。そのご心配は要りません。あなたの勤務先の大学病院、 お父さんの多摩梅吉さん、それに許婚の石川流太郎さんには、 杉山検察事務官から事情をお伝えしますから」 「はい。わかりました」 「それでは、あすは午前10時から、こちらに来ていただいて、 さらに聖橋事件およびお茶の水橋第二事件にかかわる事項に ついて、おはなしをうかがうことになります」 「そうするとあたしは、それらの事件についても容疑者ということ になるのですか」 「いえ。ただちに容疑者とされるわけではありませんが。どの事件 についても多摩美枝子さんが深くかかわっていることはたしかです から、重要参考人として身柄を確保させていただきます。あすの 取調べでも、ありのままの真実をお聞かせください。きょうはほんと にごくろうさまでした」 五十嵐検事はソファーを離れ、検事デスクにもどってゆく。 「それでは、のちほど」 杉山検察事務官はソファーに寄ってきた。 「お父さんと石川流太郎さんにお電話しますので、電話番号を教えて くださるようおねがいします」 「はい。ここに記載されていますが」 美枝子はハンドバグからピンクのアドレス帳をとりだした。 「あ、あたしの持ち物は、みんなそちらにお預けするんですから、この ままバッグをおわたしいたします」 「それでは、お預かりします」 杉山検察事務官は美枝子のハンドバッグを受け取り、自分のデスク に向かった。 デスクに向かった杉山検察事務官は受話器をとりあげた。
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