五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い文字で 1999年6月21日月曜日になっている。 黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時になった。 五十嵐検事は検事デスクに向かい書類の点検に余念がない。 杉山検察事務官は、ふっくらとした紅茶用のグラスを戸棚から取りだし、 麦茶の準備にとりかかる。 検事室のドアを押しのけて多摩美枝子がはいってくる。 「呼び出しをうけました多摩美枝子でございます」 「あ、どうも。ごくろうさまです。こちらでお待ちください」 杉山検察事務官はソファーに多摩美枝子を案内した。 多摩美枝子はソファーに浅くかけ、検事デスクのほうに 流し目をおくる。 回転椅子をぐるりとまわし五十嵐検事は起ちあがった。 書類を手にして検事はソファーに寄ってきた。 「お待たせしました。お忙しいところを、どうも」 五十嵐検事は書類をテーブルのうえに載せ、ソファーに背筋を 擦りつけ、多摩美枝子の美貌(びぼう)に蕩(みと)れる。 「さっそくですが。このまえの事情聴取の段階とは、かなり状況が 急変してきました。そこで例の殺人事件に関連した事情をあらためて 聴取させていただきます」 「はい。わかりました」 「実は先日、竹山茂太郎事務長殺害容疑で逮捕起訴された白山咲一 殺人被告事件の公判において、あなたの許婚である石川流太郎さん が証人台にたたれました」 「はい。そのことは流ちゃんから聞いております」 「あ、そうですか。その際の」 五十嵐検事はソファーに背筋を擦りつけたまま多摩美枝子をみつめる。 「石川証人の証言によりますと、問題の5月27日木曜日の夜には 石川流太郎さんが白山被告人宅を訪問し、鯉こくの造り方のレッスン をしていたというんですよ」 「あ、そうですか」 瓜実顔は愛狂しいまなざしを検事に浴びせた。 「ところが竹山事務長殺害の犯行当日と推定される5月27日の 夜は、桜門大学法学部の講義が休講になったので石川さんは、 あなたとごいっしょして和食の店『菊水』で食事をされたことに なっております。このことは前回の事情聴取のとき、あなたに 教えてもらったことなんですが。その後、石川さんを事情聴取した ときも、やはり『菊水』で食事をしたということでした。そこで『菊水』 の仲居をしている勝江さんにたしかめたところ、その夜には二階 席の奥の予約席で食事をされたという証言がありました」 「あ、そうですか。その夜はたしかに流ちゃんと食事をしました」 「しかし事件当夜、石川さんがあなたと『菊水』で食事をしていたと いう事実と、石川さんが白山家で鯉こくの造り方のレッスンをして いたという事実とは、二律背反で両立しえないはずなんですが」 「はい。それは、たしかに」 多摩美枝子は検事の視線を避け俯(うつむ)いてしまう。 「検事さんのおっしゃるとおりです」 「ねえ。そうでしょう。まったく同一の日時に、おなじ人間が、 ずうっと離れた別の場所で、まったく別の行動をとるということ は、論理的にも、時間的にも不可能なことでしょう」 「はあ・・・。それは」 「ですから事件当夜、あの『菊水』で食事をしていたという供述、 白山家で鯉こく造りのレッスンをしていたという供述のうち、その どちらかが虚偽の供述ということになります」 多摩美枝子の瓜実顔は蒼(あお)ざめてしまった。 「この点、美枝子さんは、どちらが虚偽の供述だとおもいますか」 五十嵐検事の目は獲物を仕留めるときのライオンのように 厳しくなった。 「はたして、そのどちらがでっちあげの証言でしょうか」 「はあ。それは」 多摩美枝子は逃げ場を失った山兎のように追いつめられた。 「流ちゃんの法廷における証言は証人としての宣誓をしてますし」 「そうでしょう。裁判官の面前で宣誓をした証人が、その宣誓に背き 虚偽の証言をすることは、よほどの事情がないかぎり考えられません。 宣誓をした証人が、その宣誓に背き虚偽の証言をしたときには、 どういうことになりますか」 「よくわかりませんけど。たしか偽証罪とかいう罪に」 「そうなんです。刑法第169条で規定する偽証罪になります。だとすれば、 石川さんの法廷における証言のほうが信憑性(しんぴょうせい)がたかい。 つまり真実に合致しているということになります。そう考えるのが自然 でしょう。そうだとすれば、『菊水』の予約席で、おふたりが食事をして いたという供述は虚偽だったことになります。5月27日の夜、あなたは 『菊水』で食事をしていたのではなく、千代田マンションの350号室に 在室していたのではありませんか。そうなんでしょう。ねえ、多摩さん」 五十嵐検事はソファーでからだを乗りだし取調べの姿勢になった。 蒼(あお)ざめた瓜実顔の多摩美枝子は俯(うつむ)き肩を窄(すぼ)めた。 「美枝子さん。その5月27日の夜、8時過ぎに自分のマンションに在室 していたことが発覚すれば、なにかこうまずいことがあったので『菊水』の 仲居の勝江さんに頼みこんで、二階席の奥の予約席をリザーブしていた ことにしてもらったのでしょう」 美貌の瓜実顔は貝のように堅く口を噤(つぐ)んでしまった。 「どうしてまた、そのようなアリバイ工作をしなければならなかった のですか。その辺の事情を詳しくはなしてくださいませんか」 美枝子『ここで、あたしが、胸のなかの悩みを検事さんのまえで表情に 浮かべてはならない。ここはへたな演技のパフォーマンスで、なんとか 乗り切るしかない』 胸のうちで、そう自分にいい聞かせた多摩美枝子は俯いたまま じいっと堪(こら)えた。 「ここはひとつ、包み隠さずありのままの真実をお聞かせください」 五十嵐検事は取り調べの姿勢を崩(くず)さなかった。 「はい。その・・・。その夜は」 美貌の瓜実顔は醜(みに)くくひきつり歪(ゆが)んだ。 「やむにやまれぬ事情がありまして。千代田マンションの自室には、 だれもいなかったことにしなければならなかったのです」 「やむにやまれぬ事情とは、いったいどんな事情だったんですか。 ひょっとしたら、だれかを庇(かば)うためでしたか」 五十嵐検事は誘導訊問で真実を曳(ひ)きだそうとする。 「ええ、まあ・・・。実を云いますと、ある人の人権というか、利益と いうか。その人の刑事責任を追及されるような羽目になる事態だ けは、なんとしても避けたかったんです」 「その人が刑事責任を追及されるということは、あなたの350号室 において、なにかの犯行が行われたとういことですか。たとえば竹山 茂太郎事務長が首を絞められて、だれかに殺害されたとか・・・」 美枝子『ここまで検事さんに追い詰められたのでは、もはや真実を 隠しとおすことは困難だ。パフォーマンスは効かなくなった。下手な 演技はやめて真実をはなすしかない』 胸のうちでそう決心した多摩美枝子は、ふっきれた気持ちになった。 「はい。検事さんのまえでは、もうこれ以上、真実を隠しとおすことは できません。ですから恥を忍んで、ありのままをもうしあげます。 あの5月27日の夜、あたしは8時ころマンションの自分の部屋に 帰宅しました。松瀬が生存していた当時は、木曜日の夜は松瀬が 来ることになっていました。そのころは松瀬が先にマンションに はいり、30分ほど遅れて、あたしがマンションに帰ることにして いました。けど松瀬が亡くなってからは、その必要もなくなりました。 ですから8時ころには帰宅するようになっていました」 「ほう。それで」 「はい。あたしがドアの脇の南天の鉢のうしろから鍵をとりだして 部屋にはいり、ハンドバッグをソファーのうえに放りだしたまま、 トイレを使って客間にもどった瞬間(しゅんかん)、竹山茂太郎事務長 が猛然とあたしに襲いかかってきました」 「あなたのすぐあとから竹山はマンションに侵入したわけですね」 「はい。多分あたしのあとをつけてきたのでしょう」 美貌の瓜実顔はテーブルに目をおとしたまま語りだした。
美枝子『実を云いますと竹山は、あたしと松瀬との関係を識っていまし たので松瀬が亡くなってからは、頻(しき)りに、あたしに性的交渉 を迫ってきました。あたしは、それを拒(こば)みつづけていたので、 竹山は痺(しび)れをきらし暴行にでたのだとおもいます。あたしは その場に押し倒され、あっという間にスーツを剥ぎ取られ、狼の 餌食にされてしまいました。竹山の性欲発散の受け皿にされて しまったのです。竹山は射精して満足すると、すぐにあたしから 離れようとしました。しかし、どういうわけか、あたしのおなかと 竹山の腹部とが密着したまま離れません。竹山がむりにあたし から離れようとすると、あたしの下腹部も竹山のからだといっしょ に浮いてしまうのです。竹山が離れようとするたびに、あたしの 下腹部も浮きあがり、そのたびにあたしの陰部には激痛がはしり 悲鳴をあげました。竹山はあたしの禁断のホールに挿入した男の ペニスを抜こうと焦(あせ)ります。竹山が自分のペニスを抜こうと するたびに、あたしの下腹部も浮きあがり、あたしの陰部に激痛 がはしります。「これはたいへんなことになった」と、あたしは失心 寸前でした。そのときは竹山のペニスがあたしのビィギナに噛み 締められて抜けなくなったものとものと考えました。竹山がもがけ ばもがくほど、あたしのビィギナに激痛がはしります。脂汗がながれ、 心臓が破裂しそうでした。これは、あとでわかったことですが。 院長室の書棚にあった医学辞典を丹念に調べたところ、「膣痙」 (ちつけい)という項目を発見しました。それによると、精神的な ショックやその他の要因が作用してビィギナが極度に痙攣収縮 するとペニスが抜けなくなることもあるのだと判明しました。あの とき竹山に猛然と襲いかかられショックをうけたまま、むりやり、 ペニスを挿入され、痛みと恐怖により、あたしの肉体に異常が おこり、無意識のうちに「膣痙」の状態に陥ったのではないで しょうか。そうとしか考えられません』
そこまで語った多摩美枝子は瓜実顔をあげ、ちらっと五十嵐 検事に視線をながし、すぐに俯いた。 「なるほど。そうでしたか。よく語ってくださいました。多摩さんの おはなしで、事件の解明におおきく前進することができました。 実は広辞苑によりますと、『膣痙とは膣口部筋肉および膣周辺 筋肉が不随意的に痙攣することをいう』とされています」 「さすが検事さんですね」 瓜実顔に安堵感がはしりセクシーなまなざしになった。 「広辞苑にはそんなふうに書かれているんですか」 「ええ、まあ。ですから膣の痙攣というものは、通常の性行為に おける性的交渉が女性を満足させるほどのクライマックスに 達したことの証のようなもんですな。しかし、あなたが体験された 例の現象は、そうした通常のケースとはかなり状況が異なるよう ですな。その場合の膣痙はクライマックスに達して快感をともなう ものではなく、恐怖ないし嫌悪(けんお)にともなう異常な肉体的 反応でしょう。このように異常な『膣痙』は、性交を極度に怖れたり、 突然に襲われたときのような粗暴な性交などからくる恐怖感とか 嫌悪感が要因といわれます。尤(もっと)も個人差はあるのでしょうが。 それで人によっては膣の部分だけでなく、下肢および体部の筋肉 まで痙攣(けいれん)する例もあるそうです」 「はあ。そうなんですか。そうすると」 多摩美枝子のまなざしの奥には好奇心の幻影がちらついた。 「そのような異常な状態を医学的手法によって解消することはでき るんでしょうか」 「さあ。突然、ペニスが膣から脱去できなくなった場合、それを医学 的手法によって解消する直接的な方法もあるとはおもいますが、 よくわかりません。なんでも『膣痙』の治療方法としては、精神療法 のほか鎮静剤の投与があるということだけはわかってますが」 「そうすると『膣痙』には精神的な要因がおおきく左右すると」 「まあね。性交を極度に怖れたり、粗暴な性交が繰り返されたり して、恐怖感とか嫌悪感が作用するのですから、メンタルな要因が おおきいことはたしかですね。いつの間にかはなしが脱線してしまい ましたが。その現場では、その後、どういう展開になりましたか」 「はい。あたしと竹山がもがきながら縺(もつ)れあっているところへ 落合賢次医事課長がはいってきました」 「ほう。それでどうされましたか」 「あたしと竹山が縺れあっている異常な光景に驚いた課長は、あたし を助けようと、竹山を羽交い絞めにし、なんどもあたしから引き離そう としました。あたしはそのたびに下腹部に激痛がはしり、悲鳴をあげ ました。あたしの悲鳴を聞いて、もはや引き離せないとおもったらしく、 課長は次の非常手段にでました」 「非常手段といいますと」 「はい」 ふたたびテーブルのうえに目をおとした多摩美枝子は語りだした。
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