東京地方裁判所の裏庭に未決囚を収容しカーテンをおろしたままの 護送車が到着した。 護送車のドアが開き手錠を嵌(は)められ、捕縄(ほじょう)で数珠繋(つな)ぎ にされた8名あまりの未決囚が羊飼いに追われる羊のようにおぼつかない 足取りで降ろされる。 これから公判廷が開かれる予定で拘置所から連行されてきた未決囚 たちの数珠繋ぎのなかに白山咲一の姿があった。
東京地裁の裁判官室では壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が 黒く太い文字で1999年6月18日になっている。 黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後1時55分になった。 女性の裁判官をひとりまじえた3人の裁判官はロッカーから黒い 法服をとりだしスーツのうえに羽織り出廷の準備をする。 裁判所庁舎の廊下に415号法廷の標示板が浮かびあがる。 その標示板の真下をとおりチョコレート色のおおきなカバンを 提げた菊野弁護士が法廷にはいってゆく。 菊野弁護士がはいってきた法廷のなかは森閑(しんかん)と鎮まり かえっている。 被告人席で係官に付き添われていた白山被告人は菊野弁護士の 入廷に気づきぺこりとあたまをさげる。 傍聴人席は報道機関の司法記者たちによって埋めつくされている。 検事席には黒々と顎鬚(あごひげ)を蓄えた山形検事が厳然と構えていた。 音もなく法廷の奥のドアが開き、黒い法服を羽織った3人の裁判官が 入廷してくる。 裁判官席の中央には裁判長が、左右の席には陪席裁判官が直立した。 廷吏の号令により在廷者一同は起立し礼をして着席する。 法廷は鎮まりかえった。 「被告人は前へでなさい」 裁判長に命じられて白山被告人は起ちあがる。 グレーのスーツにノーネクタイというこざっぱりした服装で白山被告人は おとなしく証人席に直立する。 裁判長の人定訊問に対し白山被告人は素直にこたえた。 「検察官は起訴状の朗読を」 裁判長の指示にしたがい山形検事は滔々と起訴状を朗読し冒頭陳述 (ぼうとうちんじゅつ)をおえる。 この間、白山被告人は俯(うつむ)きかげんでじいっとこらえた。 やがて罪状認否手続にはいった。 「検察官が述べた起訴状について被告人は異議がありますか」 裁判長は被告人をみおろした。 白山『ここでは菊野先生の助言にしたがい罪状を否認しなければならない。 勇気をふるって検察官の主張を撥ねのけよう』 白山は胸のうちでそう決意した。 「はい。起訴状に書かれていることは、すべて検察側のでっちあげで事実に 反するものであります。はっきりと罪状を否認します」 その瞬間、傍聴席がざわめく。 「弁護人はご意見をどうぞ」 裁判長は菊野弁護人に視線をながした。 「はい、裁判長。弁護人としましては被告人の無罪を主張します」 歯切れのいい菊野弁護人の魅力的な美声が廷内にながれる。 「それでは、さっそく証拠調べにはいります」 裁判長が証拠調べを宣告した途端に菊野弁護人は右手をたかく あげて起ちあがった。 「裁判長 !!」 「弁護人どうぞ」 「はい、裁判長。実体的な証拠調べにはいるまえに」 菊野弁護人は厳しい表情で雛壇(ひなだん)をみあげる。 「被告人の事件当日におけるアリバイを証明するため、在廷証人として 石川流太郎の証人訊問をおねがいいたします」 叫ぶような菊野弁護人の声に駆り立てられ傍聴席にどよめきの波が 起こった。 裁判長は左右の陪席裁判官とひそひそ意見の交換をする。 「弁護人の証人訊問をみとめます」 菊野弁護人は傍聴席に待機させていた石川流太郎に向かって手招きする。 紺色のスーツに水玉もようのネクタイを締めた石川流太郎は緊張した表情で 証人台にたった。 石川証人は裁判長の指示にしたがい『良心にしたがって真実を述べ・・・・』と 証人としての宣誓をする。 「それでは弁護人、主訊問をどうぞ」 裁判長にうながされて菊野弁護人は弁護人席に立ちあがった。 「それでは証人におたずねしますが」 弁護人席からでた菊野弁護人は証人台にアプローチしてゆく。 「証人は被告人を識っていますか」 「はい。自分の少年時代からよく識っています」 石川証人は弁護人と視線をあわせ明瞭にこたえた。 「どうしてまた証人の少年時代からよく識っているのですか」 「はい。自分の父は植木職人でして、白山先生のお宅にも庭木の 手入れで永年にわたり出入りしておりました。ですから自分も父の お供をして白山家をおとずれ、刈り込んだ庭木の後片付けなどの お手伝いをしました。その日の仕事がおわると、父は縁側で白山 先生とビールを酌み交わし、子供の自分にはケーキなどのお菓子 を振舞ってくださいました。そいうわけで白山先生を存じております」 「最近になってからも」 菊野弁護人は証人台と至近の距離にアプローチし証人の顔を覗き込む。 「証人は白山家に出入りしていますか」 「はい。自分が桜門大学法学部に進学してからは、昼間は同大学の学生課 に勤務し、夜は法学部の講義を受けるようになり、白山家を訪問する機会は 以前よりは少なくなりました。しかしそれでも月に1〜2回はお世話になって おります。はい」 「ごく最近になってから白山家を訪ねたことはありますか」 「そうですね。ええと」 石川証人は額に右手をあてとんとんとたたき記憶を喚起しようとする。 「あれはたしか、5月27日木曜日の夜のことでした。久々におじゃましました」 「その夜は大学の講義を受けなかったのですか」 「はい。その夜は、講師の都合で債権総論の講義が休講になったので 水道橋駅から東京駅にでて、通勤快速電車で帰途につきました。そして 自分は幸福市の鮮魚料理の老舗『うな菊』に立ち寄り、鯉を2匹買い求め、 生きたままの鯉をビニール袋にいれてもらい、それをぶらさげて白山家を 訪ねました」 「なるほど。それでその夜はどうしましたか」 「ええと。そのまえに幸福駅に着いたとき、携帯電話で白山先生のお宅に 電話をいれたのです。すると先生は『久しぶりだから鯉こくの造り方の レッスンをしよう』と云われました。それ以前にも2回ほど鯉こくの 造り方のレッスンをしていました。その夜は3回目のレッスンという ので黒い太った鯉を2匹、『うな菊』のマスターに選んでいただき、 それをぶらさげて白山家を訪ねました」 「それで証人が白山家に到着したのは何時ころでしたか」 「ええと。あれは」 石川証人はすこし間をおいて記憶の喚起に努(つと)める。 「自分が白山家の応接間にはいったとき、おおきな柱時計がボン ボンと鳴ったので時計を見あげました。たしか柱時計の指針は夜の 8時を指していました。ですから白山家に自分が到着したのは5月 27日の午後8時ごろだったということになります」 「そのとき、なにかこう変わったようすはありませんでしたか」 「いいえ。いつもとちがったような、これといった変化はなにも感じ られませんでした」 「それで証人は、そのとき、黒く太った2匹の鯉をいれたビニール袋 をぶらさげたまま応接室へはいっていったのですか」 「はい。自分が鯉をいれたビニール袋を白山先生の目のまえに掲げる と先生は『こりゃ美味(うま)そうだな』と仰言いました。自分が先生に 『バケツはありますか』と聞いたら先生は『バケツなら風呂場にあるが』 とおこたえになりました。自分は『とりあえずバケツに入れさせていただき ます』と云いながら応接室からでて、勝手知った風呂場にはいりました。 案の定、洗い場にはブルーのポリバケツがあったので、水道の水を バケツにそそぎそのなかに鯉を放しました。そのバケツを提げてキッチン に向かいました」 「なるほど。それで証人が風呂場にはいっていったとき、なにかこう 変わったムードはありませんでしたか」 「ええと、その。変わったムードと云いますと」 石川証人は訊問の意味を諮(はか)りかね怪訝(けげん)な顔になった。 「たとえば血のついた出刃包丁が洗い場に放置されていたとか、剃刀 (かみそり)がタイルのうえに放りだされていたとか、抉(えぐ)り取った 人間の目玉や切断した人間の耳が洗面器や調理用のボールのような ものにいれられていたとか、排水溝の辺りで血の匂いがしていたとか、 そういう状態のことです」 「裁判長 !!」 山形検事は右手をたかくあげ威(い)きりたった。 「弁護人の訊問は明らかに誘導訊問です」 俄(にわ)かに傍聴席はざわめきたった。 「静粛に !!」 裁判長は怒鳴るように傍聴席を叱咤(しった)した。 「検察官の異議を却下します。弁護人はことばに注意して訊問を つづけてください」 「はい。裁判長」 菊野弁護人は雛壇に向かって軽く頭をさげ、証人席に向き直った。 「それでは、あらためてお訊(たず)ねしますが。証人が風呂場に はいったとき、なにかこう異様な感じはしませんでしたか」 「いいえ。なんら異様な感じはしませんでした」 「そうでしたか。実はその。検察官の起訴状によれば、証人が 白山家を訪問し鯉こくを造るレッスンをされたといわれる5月27日の 夜、被告人は自宅の風呂場で被害者竹山茂太郎の両眼を出刃包丁 で抉り取り、両耳を切断したうえ、剃刀で被害者の髪の毛を剃り落とし て丸坊主にし、陰茎(いんけい)や睾丸(こうがん)までも切断し、さらに その陰毛までも剃り落とした、とされております。しかしながら証人が その夜、その風呂場にはいっていったときには、そのような気配(けはい)は まったく感じられなかったわけですね。このことはたしかですか」 「はい。たしかです。まちがいありません」 「そうでしたか。なにも異様な感じはしなかったということですね」 「はい。それまでも、風呂場には何度もはいらせてもらっていました。 けど、その夜もふだんとまったく変わりはありませんでした」 「そのあと、証人はどうされましたか」 「そのあととおっしゃいますと」 「証人が鯉を放ったバケツを提げてキッチンへ向かってからのことを 具体的にはなしてください」 「はい。わかりました。自分はバケツを持ってキッチンへはいって ゆきました。そのとき白山先生はキッチンの調理台のうえに俎(まないた) と出刃包丁を揃えてありました」 「それで、そのあとはどうされましたか」 「はい。白山先生が『そろそろはじめるか』と云われたので、自分は バケツのなかから鯉を一匹摘みあげ流し台に移しました。鯉は流し台 のなかでぴんぴん跳ねまわりました。けど、白山先生が包丁のミネで 鯉の脳天に一発パンチをくらわせると、鯉は脳震盪(のうしんとう)を おこしたらしく温順(おとな)しくなりました。そして白山先生はその鯉を 輪切りにして鍋のなかにいれました。自分がもう一匹の鯉を摘んで流し台 に移そうとしたら、おもわず手が滑り、鯉をキッチンの床におとしてしまい ました。もういちどしっかりと握って流し台にいれると、先生はその鯉の 脳天にパンチをくらわせました。自分は雑巾(ぞうきん)をみつけて 濡れた床をていねいに拭きました」 「なるほど。そのあとはどうしましたか」 「はい。そのあとは輪切りにした鯉をいれた鍋をガスレンジに載せて 茹(ゆ)でました。鍋が沸騰(ふっとう)して泡がたつと、自分は小型の 手網で泡を掬(すく)い取りました。そして味付けをすることになりました。 先生に云われたとおりに、白味噌と赤だしをボールのなかでよく擦り 混ぜてから鍋にいれました。さらに料理酒や味醂(みりん)を垂らしこみ、 なんども味見をしました。最後にムラサキをひと垂れくわえました。 そして先生に味の鑑定をしていただいてから細火で煮込みました」 「なるほど。そのあとはどうしましたか」 「自分が鯉の血がついた出刃包丁を洗おうとしたら『それはあとまわしに して温かいうちにはじめよう』と云いながら先生はご自分で血のついた ままの出刃包丁を包丁立にさしこみました」 「なるほど。この点はたいへん重要なんですが。そのとき被告人が血の ついたままの出刃包丁を包丁立にさしこんだことはたしかですね。まち がいありませんか」 「はい。たしかです。まちがいありません」 「それで証人はその夜、何時ころまで白山家に滞在してましたか」 「はい。その夜は11時近くにお暇(いとま)しました」 「その時間までなにをしていたのですか。具体的に述べてください」 「具体的にですか。ええと」 しばらく沈黙して証人は記憶の喚起に努(つと)める。 「できあがった鯉こくを肴(さかな)にビールを飲んでから、白山先生が 生蕎麦(きそば)を茹でてくださったのでそれを頂戴(ちょうだい)しました。 そのあとで将棋(しょうぎ)がはじまりました。手合わせはたしか3回で したが、3度とも先生に王手をかけられ、自分が兜(かぶと)を脱ぎました」 「そうでしたか。念をおしますが、5月27日当夜、11時近くまで証人が 白山家に滞在していたことはたしかですね」 「はい。たしかに滞在していました。自分の日記にも書いてあるはず ですから、必要でしたら証拠として提出することができます」 「裁判長 !!」 菊野弁護人は胸を張って雛壇をみあげる。 「以上で訊問をおわります」 菊野弁護人は弁護人席にもどった。 「検察官 ! 反対尋問を」 裁判長にうながされ山形検事は検事席に起ちあがった。 「それでは証人にうかがいますが。ただいまの証人の証言内容は、 本件に関する捜査結果とは真っ向から対立しております。証人は 弁護人に唆(そそのか)されて虚偽の証言をしたのではありませんか。 はっきりとこたえてください」 「裁判長 !」 菊野弁護人はさっと右手をあげ弁護人席で威きりたった。 「いまの検察官の発言は明らかに弁護人の名誉を毀損(きそん)する 暴言であります。速やかに発言の撤回を要求します」 「検察官はことばを慎(つつし)んでください」 裁判長は山形検事に警告を発した。 「はい。以後、気をつけます」 山形検事は裁判長席に向かってあたまをさげた。 「検察官は訊問をつづけてください」 裁判長にうながされ山形検事は検察官席からでて証人に詰め寄る。 「あらためて証人にたずねますが。さきほどからの証言は、証人の 良心に背いた真実に反する証言ではありませんか。このままでは 偽証罪として処罰されるおそれがあります。いまからでも遅くはあり ませんから、虚偽の証言は撤回してください」 「ええと。あの」 石川証人はことばにつまった。 「どうなんです !!」 山形検事に厳しく詰め寄られた証人は、菊野弁護人に救いをもとめる まなざしになった。 「裁判長 !」 菊野弁護人は右手をたかくあげて起ちあがった。 「弁護人どうぞ」 「起訴状によれば、被告人は千代田マンションの350号室において 被害者の竹山茂太郎を殺害したとされていますが、これは検察官の 単なる推測にすぎません。殺害の現場は確たる証拠によって特定され なければなりません。しかも検察官が提出しようとしている、白山家の キッチンから押収された,血痕の付着した出刃包丁は本件殺人の 凶器ではありません。その出刃包丁は、さきほど証人が明確に証言 したとおり、起訴状によれば本件犯行の当日とされる1999年5月 27日の夜、被告人宅のキッチンで鯉こくを造るために鯉を捌(さば)いた ときに使用したものを、包丁の手入れもしないで、そのまま被告人が 包丁立てにさしこんだものであります。その包丁は家宅捜索によって 押収されましたが。その出刃包丁に付着している血痕は人間の血では なく、紛れもなく鯉すなわち動物の血であります。それにもかかわらず 捜査官はそれを凶器と早飲み込みし、適正な検査ないし鑑定を経ない まま証拠にしようとしたものであります。仮に出刃包丁に付着した血痕 について厳格な検査または鑑定を経ているのであれば、その検査ないし 鑑定は重大な誤りを冒しているものと推定されます。検察官がもし それを承知のうえで証拠として使用しようとするものであれば、その 責任は極めて重大であります。ですからその出刃包丁については 権威ある専門家による正式の鑑定が必要です」 菊野弁護人はそこでおおきく咳払(せきばら)いをした。 「失礼しました。検察官がもしそれを承知のうえで証拠として活用 しようとするものであれば、その責任は極めて重大であります。この 点を再度、力説しておきます。そうだとすれば、凶器とされる出刃包丁 については、権威ある専門家による正式の鑑定が必要であることを 再度、指摘しておきます」 その途端、満員の傍聴席は騒然となった。 「静粛に !」 裁判長の鶴のひと声で傍聴席のどよめきは鎮まった。 左右の陪席裁判官とひそひそ意見を交換した裁判長は胸を張った。 「本法廷における公判手続は意外な方向に展開してゆきました。この まま証拠調べにはいることは不適切と思料(しりょう)されるので本法廷は これにて閉廷します。次回の公判期日は追って指定します」 黒い法服を羽織った3人の裁判官は起ちあがった。 廷吏の号令により在廷者一同は起立し礼をする。 裁判官は裁判官席から法廷の奥へ吸い込まれていった。 傍聴席には喧騒(けんそう)の渦巻きが沸き起こった。 係官によって手錠を嵌(は)められた白山被告人は菊野弁護人に向かい にたりと笑みをのこして法廷から消えていった。 傍聴人も退席し法廷に人影はなくなった。 菊野弁護人は弁護人席に起ちあがった。じいっと雛壇をみあげたが、 やがてチョコレート色のおおきなカバンを引き寄せ、ゆっくりした足取り で法廷から消えていった。
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