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作品名:目には目を歯には歯を 作者:藤田耕太郎

第2回   沈黙する遺体
菊野弁護士が東京メトロ霞ヶ関駅から地上にあらわれた。
裁判所前の歩道では街路樹のマロニエの緑葉が初夏の風に揺れて
いる。菊野文彦はマロニエの木陰をゆっくりあるき裁判所へ向かった。
 菊野弁護士は裁判所というおおきな文字が刻まれた裁判所の正門
からその構内にはいってゆく。

 裁判所の入り口は厳重な関所になっている。
 向かって右側の入り口では長い行列ができている。この門は訴訟
 当事者や訴訟関係人そのほか一般人の入り口である。
 その先着順に係官の指示にしたがい手荷物のすべてを一時預け
 にしてベルトコンベヤーに載せられる。カバンとか、ハンドバグとか
 ケース、傘などがコンベヤーではこばれ、爆発物その他の危険物
の有無を検知するセンサーの真下を潜る仕組みだ。
 無事に関所をクリアーしたときは、その場で自分の所持品を受け
取り、ようやく裁判所への入所が許可される。
 向かって左側の関門は閑散としている。このゲートは裁判官はじめ
検察官、弁護士、裁判所職員などがはいる関門だ。この関門も厳しく、
身分証明書をきちんと提示しなければならない。
 菊野弁護士は閑散とした左側の関門から裁判所にはいってゆく。 

 裁判所とは交通量の多い街路を隔てて警視庁のビルが建っている。
 警視庁の正門から桜門大学お茶の水病院の事務長竹山茂太郎が
はいってゆく。

 警視庁捜査一課では、壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太
い文字で1999年5月14日になっている。
 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。
 係官に案内され竹山は窓側のソファーに凭れた。
 まもなく円筒形脱毛症紛いの恰幅のいい中年男が寄ってきた。
「お待たせしました。お忙しいところ、お呼びたてしまして。どうも」
 てかてか頭の男はソファーに身を鎮めながら名刺をさしだした。
「課長の春山ですが。事情聴取にご協力おねがします」
 春山課長はソファーに背中を擦りつけた。
「実はお宅の病院近くの聖橋で変死体が発見されまして」
「なんですって、変死体ですか」
 竹山は怪訝なまなざしを課長に向けた。
「それがですね。本日の早朝に、お茶の水駅近くの聖橋で欄干から
神田川の水面すれすれにロープで吊るされた変死体が発見された
んですが。そのロープは非常脱出用の避難器具でして。お宅の病院
の名札がついてました。ですからそのロープはお宅の病院の備品
ではないかとみています」
「まさか。そんなあ ! 」
 脂ぎった竹山の顔は一瞬、驚嘆の表情に変わった。
「お宅の病院でそのォ」
 春山課長はライターでタバコをつけた。
「ごく最近、非常脱出用のロープが紛失した形跡はありませんか」
「さあ。あまりにも突然のことなんで、調べてみないとなんとも」
「ところでドクターを含めてお宅の病院の職員でなにかこう変わった
ことはありませんか」
 春山捜査一課長はタバコの吸いさしを灰皿の縁に載せた。
「はい。実はそのォ」
 竹山はライターでタバコをつけた。
「うちの松瀬病院長が昨夜から所在不明になってまして」
「病院長の所在が判明しないと」
 春山課長の二重瞼で鋭い眼光がきらりとひかった。
「ええ。きょうの9時すぎに松瀬夫人から電話がはいりまして。松瀬
が昨夜は帰宅しなかったということでした」
「なるほど。そうでしたか。実は」
 春山はちびたタバコの吸いさしを灰皿に擦りつぶした。
「こちらに収容された被害者の遺体は、両耳を切断されたうえ両眼
まで抉りとられ、人間としての個性をを喪失し、あまりにも損傷が酷
く身元の確認も困難な状態になっております。それで早速ですが、
松瀬夫人にお越しいただくわけにはいきませんか」
「そうですね。ちょっと」
 竹山事務長は起ちあがりながら背広のうちポケットから携帯電話を
とりだした。
「失礼して、松瀬夫人に連絡をとらせていただきます」
 窓辺に近づきながら竹山は短縮ダイヤルでそのボタンをおした。
「もしもし事務長の竹山です。病院長の消息について緊急にご連絡
したい事情がおこりまして。いまからそちらにおうかがいしたいん
ですが・・・・・・・・。それでは」
 竹山は、携帯電話を背広のうちポケットにいれながらソファーにも
どった。
「お待たせしました。松瀬夫人と連絡がとれましたので、いまから松
瀬家に直行し松瀬夫人を同伴してまいります」
 あたふたと竹山は起ちあがった。
「それはどうも。お手数をかけます。いまから本庁の公用車をさし
向けますから、竹山さんにも同乗していただけますか」
「わかりました。松瀬家は阿佐ヶ谷になっていますんで」
「いまから車を配備しますので、本庁の正門前でお待ちください」
「はい。わかりました」
 軽く会釈した竹山事務長は廊下へ消えてゆく。


 警視庁捜査一課の白い壁に掛けられた黒い縁取りの円い壁時計の
長針がぴくりとうごき午後4時になる。

 松瀬夫人と竹山事務長が係官に案内されて霊安室に降りてゆく。
 ひんやりとした霊安室に松瀬夫人と竹山茂太郎事務長が係官に案内
されてはいってくる。
 白いカバーで覆われた堅いベッドのうえに遺体は安置されていた。
 霊安室の燭台には灯明があげられ、香炉ではお線香が煙っている。
「ご遺体は損傷があまりにも酷いので、そのォ」
 若い係官は遺体に被せてあった白い布を端折り、遺体に着せてあっ
た絣の浴衣をひろげた。
「身元も判別しにくいとはおもいますが。ご確認ねがいます」
 松瀬夫人は、くちにハンカチをあてがい背後から竹山事務長に支
えられながら、恐るおそる遺体に接近してゆく。
 髪の毛を剃り落とされ丸坊主にされた顔は、両耳を切断され両眼
を抉りとられ、人間としての個性を完全に喪失している。
 あまりにも無残な全裸の姿をみおろした松瀬夫人はおもわず瓜実
顔をそむけてしまう。
「さあ。奥さん」
 竹山事務長は松瀬夫人のうしろから両肩に手をかけた。
「ここはしっかりなさって。教授かどうかの確認を」
 事務長にあと押しされた松瀬夫人は、おどおどしながら遺体が横た
わるベッドにアプローチしてゆき慄えながら蒼ざめた遺体に向きあう。       「どうでしょうか。このご遺体は」
 若い係官は松瀬夫人の顔を覗き込む。
「ご主人の松瀬教授でしょうか」
「よくわかりません。いえ。松瀬かどうかまったくわかりません」
 松瀬夫人は遺体から目を逸らせ、竹山事務長の胸に顔を埋め泣き
くずれてしまう。
「むりもありません。このように」
 若い係官は、じいっと物言わぬ遺体をみおろす。
「肝心の目と耳が欠如されますと人の個性は喪失され、まったく判別
できなくなってしまいますから」
「そうですね。顔の輪郭だけは松瀬病院長と似ていますが。これが
松瀬教授かどうかは、わしにも判別できません」
 自分の胸のなかで泣き崩れた松瀬夫人を支えながら竹山事務長は
遺体をみなおし深い溜め息を吐く。
「ええと。松瀬教授には」
 若い係官は松瀬夫人の背後に近づいた。
「なにかこのォ。身体的な特徴はありませんでしたか」
「はい。松瀬には部分入れ歯があります」
 松瀬夫人の返辞は聞き取りにくいほどの小声で慄えていた。
「なるほど。部分入れ歯ですか。それで」
 係官は極薄手のゴム手套を両手に嵌めた。
「その部分入れ歯は、どの箇所でしょうか」
「はい。たしか」
 松瀬夫人は、しゃくりあげながら竹山事務長の胸から離れ係官のほ
うに向きなおった。
「左下3番と6番の間に、つまり左下4番と5番の義歯をブリッジ方式で
金歯を装着しているはずです」
「そうですか。左下ですね」
 係官は、すでに死後硬直がすすみ強張った遺体の唇に手套を嵌めた
指をかけ、血の気を失った遺体のくちをこじあけ口腔を覗き込む。
「あっ。たしかにありました。ご指摘の左下に金冠の義歯がブリッジ方式
で装着されてあります」
 係官の声に突き落とされたように松瀬夫人がその場に泣き崩れる。
 竹山事務長は屈み込んで松瀬夫人の肩に手をかける。
「たしかに部分入れ歯だけは確認されましたが。これだけではかなら
ずしも身元の確認としては十分とはいいきれません。ほかにもなにか
こう身体的な特徴はありませんでしたか」
 係官は泣き崩れた松瀬夫人を背後からみおろした。
「あのォ。左足の内股をたしかめてください」
 嗚咽の漣のなかで松瀬夫人の声は慄えた。
「左足の内股ですか。その内股に」
 係官は遺体に着せられた浴衣に手をかけ左足を剥き出しにした。
「どんな特徴があるのでしょうか」
「その内股におおきな黒子がありますか」
「ええと。左の内股にホクロねえ」
 係官は屈み込んで左足の内股を念入りに観察する。
「あっ。ありました。たしかにおおきなホクロがあります」
「その黒子の中心に1センチほどの太い体毛が生えてますか」
 松瀬夫人はふたたび竹山事務長の胸に顔を埋めた。
「ええと。ホクロの中心に体毛ですか」
 係官は腰を屈めてゴム手套を嵌めた人差し指で黒子の部分を念
入りにたしかめる。
「あっ。よくみると、たしかにホクロの中心部に1センチほどの太い体
毛が生えてます。ふつうの体毛とはちがい、いかにもそのォ。エネル
ギッシュでなんとなく好色家を連想させるような逞しい感じがする
体毛ですね。あっ。これは失礼しました」
 ふたたび松瀬夫人の嗚咽がはげしくなった。

 しばらく沈黙がつづいた。

 松瀬夫人の嗚咽のみが霊安室の床に沈殿していった。
「それではご遺体の確認をおねがいします。このご遺体は松瀬教授
に相違ありませんか」
「はい。うちの先生にちがいありません」
 松瀬夫人は泣きじゃくりながら頷いた。
「それでは、ご遺体を確認していただきましたので、司法解剖にまわ
させていただきます。解剖がおわりましたらばお知らせいたします。
そのうえで、ご遺体のお引取りをおねがいすることになります」
 係官は、露出した遺体に浴衣を着せて白い布を被せ合掌する。
 竹山事務長は松瀬夫人から離れ、直立して遺体に手をあわせた。


 菊野邸の正門から菊野弁護士が邸内にはいってゆく。
 菊野文彦はカバンのなかから玄関のキーをとりだしドアのロックを
解除して玄関へはいってゆく。

菊野「その日は、佐保子が友人と連れ添って吉祥寺の前進座へ観劇
にでかけていて留守でした。わたしは東都地裁の法廷がおわると自分
の事務所には立ち寄らないで自宅にもどりました。法律雑誌の原稿の
締め切りにおわれていたからでした」

 菊野邸の書斎では、ソファーに掛けて文彦がビールを飲みながら新
聞をひろげている。 
 壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が5月15日をしめしていた。

菊野「今朝は寝坊をしたので、朝刊を読んでいませんでした。デスクに
向かうまえに、ビールを飲みながら朝刊に目をとおすことにしました」

 菊野弁護士は新聞の三面記事を読みはじめた。
 聖橋事件の被害者は、桜門大学お茶の水病院の病院長松瀬教授で
あると報道していた。

菊野「松瀬教授といえば、マスコミでも知られる循環器外科の権威だ。
その権威がなんでまた無残な殺され方をしたのか。男の勲章まで切断
するという所為からみれば、性秩序の乱れからくる犯罪とも考えられる。
それとも患者の恨みをかったのか。殺害の動機は怨恨の線が濃厚だ。
すでに司法解剖はおわっただろうが、遺体はものをいわない。ただ、
解剖の結果としてあきらかになったものだけが犯罪捜査に役立つの
にすぎない。遺体は沈黙してなにも語らない」
 
 菊野は起ちあがりデスクに向かいパソコンのキーをたたきはじめた。


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